舎利寺(しゃりじ)の合戦

細川京兆家(管領家)の家督をめぐる細川晴元細川高国の抗争は、晴元陣営が享禄4年(1531)6月の天王寺の合戦(別称:大物崩れ)で高国を討ったことによって一応の決着を見た。その翌年には高国の弟である細川晴国が高国残党によって擁立されたが、この晴国も天文5年(1536)8月、晴元に通じた家臣・三宅国村の裏切りによって自害している。
そして天文11年(1542)の暮れ、高国の養子であった細川氏綱が「高国の跡目」を称して起ち、翌天文12年(1543)7月に槙尾寺にて決起した。氏綱は高国陣営であった河内守護・畠山稙長の支援を得て、木沢長政残党や紀伊国根来寺宗徒といった反晴元勢力を糾合して晴元政権に挑んだのである。

氏綱勢力は摂津・和泉国を中心として畿内各地で小規模な蜂起を起こして晴元勢力の切り崩しを図る一方で、天文15年(1546)8月には河内守護代・遊佐長教と結んで勢力規模を広げ、摂津国の大半の国人領主を味方につけることに成功している。また同年9月頃、それまで晴元方に擁されていた12代将軍・足利義晴が京都東山の慈照寺に入り、中立的姿勢を示した。これは一度晴元との距離を置き、晴元と氏綱の抗争の勝利した側に推戴されるという態度の表れであり、それまでは観望を決め込むことを宣言したに等しい。このことによって戦況は氏綱方に傾き、形勢不利となった晴元は丹波国に逃亡した。
畿内における有力な晴元勢力は摂津国越水城を拠点とする三好長慶三好政長ら三好氏の軍勢のみという状況となるが、三好氏の本国である阿波国や讃岐国から援兵が参着したことによって反撃態勢が調うと、晴元も摂津国に入って摂津国よりの巻き返しを図る。
この晴元勢の逆襲によって天文16年(1547)2月には原田城、3月には三宅城、そして6月には芥川城・池田城(いずれも摂津国)が相次いで陥落あるいは降伏し、摂津国における勢力を回復した。同年3月には足利義晴・義輝父子は氏綱方に与することを表明、7月には山城国瓜生山の北白川城に入城したが恃みにならず、間もなく城を自焼して近江国坂本に退いた。
残すは氏綱を擁して河内国高屋城に拠る遊佐長教のみである。

そして7月中旬、長慶や三好政長・政勝父子、長慶の弟である三好義賢安宅冬康、晴元被官の香西元成・松浦興信・畠山上総介らは摂津・河内国境付近に集結し、高屋城を制圧すべく南進した。
対する氏綱方も高屋城から出陣して北進、7月21日に天王寺の東方にある舎利寺付近で激突したのである。
この合戦は双方が矢の射かけ合いから始め、やがては槍を合わせての白兵戦となり、鉄砲伝来以前における畿内最大規模の戦闘と称される激戦となった。
双方で2千人ほどが討死したとも伝わるが、この合戦の帰趨は晴元方の武将である松浦興信・畠山上総介らの活躍によって晴元方の勝利となったのである。

三好長慶・義賢兄弟は高屋城に敗走した長教らを追って河内国若林に布陣したが、防備を固めた高屋城から迎撃を受けることとなり、戦線は膠着した。
しかしその一方で、晴元方との単独講和に応じた足利義晴が閏7月1日に帰京したことが知れると氏綱・長教方は大義名分を失うこととなって厭戦気分が高まり、やがては六角定頼の斡旋で晴元・三好方との講和に応じるに至ったのである。