応仁元年(1467)9月の京都での三宝院の戦い、東岩倉の戦いで敗戦を喫した東軍(細川勝元派)は、烏丸殿から三条殿(今出川殿)に亘る地域と、相国寺や室町御所(花の御所)を含む地域を辛うじて確保している状態となっていたが、優位に立った西軍(山名宗全派)は室町御所と細川勝元邸を分断するべく相国寺の奪取を企図し、10月3日より畠山義就・朝倉敏景らを主力とする2〜3万の兵を催して、これの制圧に乗り出したのである。
相国寺には細川勝之(勝元の養嗣子)を中心に、安富元綱などの兵3千が陣を固め、烏丸殿と高倉第は京極持清・武田信賢らの軍勢が守り、三条殿は伊勢国の関民部少輔と備前国の松田次郎左衛門尉が、5百ほどの兵で守っていた。
まず攻撃を受けたのが相国寺で、とくに朝倉敏景の活躍が目覚ましかったという。畠山・朝倉勢は東軍の守備兵を攻めたてて追い散らし、火を放って焼き払った。一説には寺僧の一部が西軍に内通して火を放ったため、それを見た烏丸殿の守備兵が相国寺が攻め落とされたかと思い込み、守りを放棄して出雲谷へ逃走したとも伝わる。
三条殿でも西軍の猛攻を支えきれずに退却し、相国寺も数時間に及ぶ激戦ののち、東軍はこれを放棄して、敗走することとなった。この後、相国寺は3日間に亘って燃え続け、伽藍もことごとく焼亡したという。
また、西軍は相国寺から目と鼻の先にある室町御所をも攻めたてたため、窮地に追い込まれた東軍は、4日に畠山政長を中心とする3千の兵を急派し、激戦の末にこれを撃退した。
この一連の戦いで、東軍の主な武将としては松田次郎左衛門尉・安富元綱・安富三郎・細川六郎(勝之の猶子)、赤松一族の太田三郎・安久与二郎以下被官53人が討死した。西軍が討ち取った東軍方の首級は車に8両もあり、遺棄された遺体は白雲の門から東今出川までの堀に埋められたが、その数が数千ともいわれる遺体の過半は寄せ手のものであったというから、西軍も甚大な死傷者を出したとみられる。
この戦いは東西両軍とも多数の兵力を投入し、双方とも大きな損害を蒙ったが、結果として東軍はすっかり西軍の包囲下に入る格好となり、京都へ入る諸口のうちの御霊口1ヶ所だけが東軍の抑えるところとなって、他はみな西軍に押さえられるという状況になった。