伊賀国は、織田信長が近隣諸国を征服していくなかにあっても信長に従わず、特異ともいえる自治共和制で独立を保っていた。
8里四方ほどの小国であるこの国は東に鈴鹿、西に笠置、北に甲賀と境を接する信楽高原、南に布引・室生といった山々に囲まれており、70もの険しい砦が他領との関門になっていて、いわば国そのものが城塞と化していたのである。その中に大小あわせて260〜270ほどの国人領主らが砦や館を構えてひしめいており、ときには互いに結びつき、ときには反発しあうなどして勢力争いを繰り返していた。
当時から伊賀は忍術・忍者で著名であった。伊賀と同じく忍術で名を馳せた南近江の甲賀でも同様の自治共和体制を布いていたが、形の上では南近江の守護・六角氏の傘下に入っていた。しかし六角氏が自治区域を容認する見返りとして、いざというとき甲賀衆は六角氏に忍術や忍者の提供をするという黙約のもとに強い干渉からは免れていたのである。
これに対して伊賀衆は『伊賀惣国一揆掟書』という約定のもと、外敵のみならず国主(国司や守護も含め)にも一致団結して反抗することになっていたため、国主は居つくことができなかった。これが独立体制を保ち続けていた所以である。
その伊賀国を支配下に置こうと考えたのが、隣国・伊勢の国司である織田信雄だった。
伊勢国司は代々北畠氏が勤めてきたが、永禄12年(1569)に信長が北畠具教の拠る伊勢国大河内城を攻略したとき、講和の証として信雄を北畠氏の養子とし、天正3年(1575)にその名跡を継いだのである。その翌年、信雄は北畠一族を暗殺し、名実共に南伊勢の支配者となった。
天正7年(1579)9月17日、信雄は伊賀国衆の下山甲斐の内応を機に、信長に無断で自らは8千、武将の柘植三郎左衛門に1千5百の兵をつけて、大和口・馬野口(鬼瘤峠)から伊賀国へと侵攻したのである。それを迎え撃つ国人たちは狭隘な地形と忍術を駆使して激しく抵抗した。ここでいう忍術とは、夜陰に紛れて敵の陣場などに侵入して略奪・放火・暗殺などを行ったり、情報を探り、流言によって情報の撹乱を謀るなどのものである。それを力攻めにしようとした信雄勢はさんざんに翻弄されたあげくに柘植も討死し、6千の兵を失って伊勢国に退却した。侵攻開始から撤退まで、わずか3、4日ほどのことだったと思われる。
この無様な敗報を受けた信長は激怒し、信雄に対して親子の縁を切るとまで叱責したという。それと同時に信長はこの伊賀衆に激しい憎悪を燃やすことになるが、当時は石山本願寺や、毛利氏などの本願寺と結んだ勢力との戦いのために、伊賀衆への報復までは手が回せなかったのである。
しかし天正8年(1580)8月、石山本願寺との講和が成立。これによって畿内の大きな脅威から解放された信長は翌天正9年(1581)9月3日より伊賀国への侵攻に乗り出した。
この侵攻に先立つ4月、織田勢は伊賀国内に内応者を作り、内部の詳しい情報を得ていたので、今回の侵攻作戦には手落ちがなかった。そのうえ大砲まで用意していたというから、万全の周到さが伺われる。その軍勢は織田信雄を総大将とし、総勢4万4千人という規模のものだった。当時の伊賀国の総人口が約10万人というから、その半分に近い数の軍勢で攻め入ったのである。
対する伊賀勢は、戦闘要員で5千人程度と見られている。
織田勢は、近江国方面の甲賀口から滝川一益・丹羽長秀ら、同じく近江国の信楽口からは堀秀政、北伊勢の加太口からは滝川雄利や織田信包、大和口からは筒井順慶という陣立てで四方から攻め込んだ。
近江方面から侵攻した部隊が11日には安拝(あべ)郡佐那具城を制圧し、大勢がほぼ決した。この後織田勢は阿加(伊賀)郡を信雄、山田郡を信包、名張郡は丹羽・筒井、阿拝郡は滝川・堀らといった具合に伊賀4郡の受け持ちを決め、焦土作戦を展開する。
いちばんの激戦地であったと見られる長田荘の比自山では、女子供含めて約1万人が抗戦したという。しかし織田勢は徹底した放火・破壊・殺戮を行い、しかも夜間はそこかしこで松明を真昼の如く焚き続けることで、闇に乗じて動く忍びの者たちの行動を封じてしまったのである。
こうした戦いは10月初旬から中旬頃まで続けられたと見られ、伊賀国はほぼ全域が焦土と化したという。
この伊賀国侵攻を終えたのち、山田郡は信包に、阿加・名張・阿拝の3郡の統治は信雄に委ねられた。