月岡野(つきおかの)の合戦

越後国の上杉謙信は天正5年(1577)9月に能登国の織田信長勢力を駆逐したことによって、勢力範囲を越後・越中・能登国、そして加賀国の北半分にまで広げることになった(手取川の合戦)。
しかし謙信がその半年後の天正6年(1578)3月に嗣子なく没したことから、養子としていた上杉景勝上杉景虎によって上杉氏の家督をめぐる内紛が起こったのである(御館の乱)。
この内紛は上杉家中や越後国の国人領主のみならず、甲信地方の武田氏や、関東の北条氏をも巻き込んだ大規模な紛争に発展することになった。
そして織田信長は、この機に乗じて北陸地方の制圧を目論み、越中国へと手を伸ばす動きを見せる。

かつて越中国では神保氏が守護代として勢威を揮っていたが、謙信の越中国進出とともに没落し、その後裔の神保長住が信長のもとに身を寄せていた。信長は越中国侵攻の前段としてこの長住を送り込むこととしたのである。
同年4月に信長の命を受けた長住は、織田家臣の佐々長秋や飛騨国の姉小路自綱の後援も得て越中国の国人領主の調略に努め、阿尾城の菊池武勝や屋代一族、蛇尾城の斎藤信利、守山城の神保氏張らを織田陣営に引き入れることに成功した。対する上杉勢は、今泉城に拠っていた河田長親が椎名小四郎(長尾景直)と連携して新川郡を抑えているものの、本国での内紛のため、越中国への増援は望めない状況であった。
それを見透かしていた信長は、美濃国加治田城主の斎藤長龍を大将に起用して越中国へと軍勢を派遣した。この長龍とは、斎藤道三の末子といわれる人物である。
長龍の率いる軍勢は9月4日に飛騨国を経由して越中国へと入り、神通川沿いに北上して津毛城を攻めにかかる。この城には河田・椎名の兵が籠もっていたが、織田勢の襲来を目の当たりにすると、戦わずして城を捨てて退散してしまったという。
難なく津毛城を手に入れた長龍はこの城に神保長住を入城させて守らせ、河田・椎名の拠る今泉城を目指してさらに進軍を続け、9月24日には太田保の本郷を本陣として今泉城に対峙した。
斎藤長龍は10月4日の夜に今泉城下に火を放ち、放火を終えた翌朝に兵を収めて退却を始めたが、そこを河田・椎名の兵が今泉城から出て追撃してきたのである。これを受けて長龍は本陣である本郷をも越え、月岡野と呼ばれる地まで撤兵を続け、ここで軍勢を返して迎え撃つ態勢を取ったのである。
この月岡野は扇状地で、起伏の多い地形をしており、長龍は当初からこの複雑な地形を利用することを考えていたようである。長龍は丘の所々に鉄砲隊や弓隊を伏せておき、勇んで殺到してくる上杉方の兵を次々に狙い撃ちにしたのである。
戦いは斎藤勢優位のうちに進んで午前中には趨勢も決し、河田・椎名勢は360もの兵を失って敗走した。さらには、この合戦に呼応して出陣した蛇尾城の斎藤信利兄弟が今泉城を攻め落としたことによって、織田勢は越中国の中枢を勢力下に収めることに成功したのである。