姓の読みを「じんぼう」とも。名を氏晴・氏春とも書く。神保氏の庶流・神保氏重の子。安芸守。
神保氏の名は越中守護である畠山氏の守護代として、明徳3年(1392)の頃すでに見える。畠山氏の執事として応仁期の活躍があり、越中国の名族として戦国末までの史上に各代とも多くの事蹟が散見される。
氏張は越中国射水郡守山城主であったが、上杉謙信が越中国に進出したときに京都に流浪したと伝わる。
この前後の神保氏と織田氏との交友は不詳であるが、天正年間の初期頃に織田信長の妹を娶ったという。この時期の越中・飛騨国近辺は上杉・織田・武田氏の勢力が複雑に絡み合うといった状況であり、越中国の古豪を支援し、のちの北陸方面侵攻への布石だったと思われる。
天正9年(1581)の織田家の武将・佐々成政の越中入部以後は織田氏との婚姻関係もあって成政を援け、活発な動きを見せる。
天正10年(1582)、成政に従って越中国魚津城の戦いや越中国各地に転戦しており、天正12年(1584)の末森城の戦いには成政の別働隊となって前田利家を攻め、能登国へ進撃した。
翌天正13年(1585)、羽柴秀吉の越中征伐に降伏した成政と運命を共にして肥後国熊本に転出。のち、佐々氏の領国経営の不手際による取り潰しにともない、氏張も失脚した。
天正17年(1589)に徳川家康に召し出され、天正20年(1592)8月5日、江戸にて没した。享年65。