四国巡礼てくてく編(伊予1) 四国巡礼てくてく編(伊予1)

11月21日


 延光寺の駐車場での朝は、隣の家の犬の吠え声で目が覚めました。
 バカ犬め、今頃気づいてやがる、今まで寝とったんかい、と犬をせせら笑いながらテントを畳み、納経。
 納経帳を書いてくれた坊主は無愛想さが典型的な札所の傲慢坊主で、
「ありがとうございます」とも
「ご苦労様」とも
「お早うございます」とも
「はい」とも
何も言わずにむっつりとした顔で朱印を押してくれました。
 四国でも朝となると手がかじかみます。早く日が当たらないかと思いながら境内の亀の像を絵に描きました。
 この寺には、境内で飼っていた赤亀が竜宮に行き、梵鐘を背負って帰ってきたという伝説があり、その梵鐘には「延喜11年(911年)の銘があるそうです。
なんで竜宮の鐘に日本の年号が刻まれてるんだ、というツッコミは、真面目なお遍路さんはしてはいけません。竜宮城の竜王様が気を利かしてくれたんでしょう。

 寺の石段で朝飯の巻寿司を食っていると、猫がやってきてしつこく餌をねだります。仕方がないので柿の種を一粒やったら、食わねえでやんの。
これだから猫って奴は。

 39番札所が終わり、次は“いよいよ”伊予の国(失礼しました)。
 40番観自在寺まで約32km、一日がかりです。
 途中、散歩しながら椎の実を拾っているおじさんに会いました。どんぐりよりも一回り小さい実です。
勧められるまま、椎の実の殻を割り、白い中身を食べてみました。生の米をかじっているみたいですが、よく噛むとどことなく甘みが出ます。
「昔は秋祭りの村芝居があってなあ、これを炒ったやつを食べながら芝居を観たもんだ」
とのことでした。

 後はまあ、ひたすら山の中の国道を歩いたってことですかね。
 3時ころ、ヤマザキ系列のコンビニで、四国限定(たぶん)の「金ちゃんヌードル」というカップラーメンを食べました。
 徳島市にある製粉会社が作っているもので、ぼくも先月工場の脇を通ってどんなラーメンなのか興味があったのでした。味はほとんど日清カップヌードルと同じ印象でしたが、肉がミートボールでなく平べったいチャーシュー風であることと、シイタケが入っていること、 そして麺の量が日清よりも数グラム多いというあたりが違っていました。
 それから、パッケージのデザインは日清よりもシンプル、というか素朴でした。

 6時ころ、観自在寺のある御荘町に入りました。
 寝場所は国道56号沿いの道の駅、晩飯はスーパーで半額になっていた弁当です。コンセントもあるので充電もバッチリです。

 明日は朝一番で40番を片付け、41番に向かって歩きだします。41番までの距離は52km。二日がかりの行程です。
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11月22日


 御荘町の道の駅で、一夜かけてザウルスや携帯電話の充電もバッチリ。
 テントを張った近くで、農家のおばさんたちが地物野菜の即売の準備を始めたので、少々急いで支度をし、1km弱離れた40番観自在寺へ行きました。

 観自在寺はフツーの寺でしたが、大師堂の軒先にある「びんずる様」の像が、片目が半分えぐれてて恐かったです。
 門前の狭い道に、古びた店が並んでる様子が風情あったので、葉書に描き、のんびりと42番竜光寺へ。宇和島の少し先、51kmの距離なので、着くのは早くて明日の夕方になるでしょう。
 宇和島市では、御霊信仰で結構有名な和霊神社に寄り道するつもりです。

 御荘町の国道沿いにドコモショップがあったので、料金プランを《おはなしプラスM》から《おはなしプラスL》に変え、さらにわが家とプロバイダのアクセスポイントを《ゆうゆうコール》に指定しました。
 毎月180円払えば、指定先の通話料が10%(一般電話)〜30%(DoCoMo携帯)安くなるプランです。マイラインにしろ、携帯電話にしろ、料金プランがホントややこしいですよね。
 まあとにかく、これでひとまず今までよりは損にならないはずです。

 10時ころ、早い昼飯(コンビニのトリ丼)を食いながらメールチェックしてみると、先日写真を撮ってくれた写真家氏からメールが届いており、僕を撮った次の日に、 39番札所で尾形君(焼山寺の夜道で同道になった人)を捕まえたとのことでした。
うーむ、やはりいつの間にか彼にも抜かされてたか。彼の方が足が長いから、歩幅が大きくて速いんだよな。
 再び彼に追いつくことがあるだろうか?会えたら面白いんだけど。
 昼過ぎ。峠道を越えると、県境を越えてから初めての伊予の海が見えてきました。
 土佐の海よりも、穏やかな感じがします。ごつごつした岩礁が少ないせいでしょうか。波も穏やかな気がします。
紅葉も、これまでより鮮やかになってきました。伊予と土佐の気候の違いか、それとも単に秋が深まってきたせいか。

 天気も快晴で、気持ち良く歩いていると、向こうから乳母車を押してよちよち歩いてくる、遍路のおばあさんが。
 見覚えのある人だなあ、まさか、と思ったら、やっぱり徳島で会った、おむすびを分けてくれたおばあさんでした(11月2日の上参照)。
 なんでもう会うの!?とたまげながらも、この前の礼を言いうと、
「どうだ、あのムスビうまかったろ」
と言って今度はミカンを一つくれました。托鉢遍路さんからもらってばかりではいかんので、 ぼくもピーナッツチョコを一掴み接待させてもらいました。
「もう一周しちゃったんですか?」 とぼくが聞くと、
「おばあは山には登らんから、一月で一周しちまうんだ」
とのこと。見た目は腰の曲がった、ただの婆ちゃんなのに、恐るべき健脚ばばあです。
ここぞとばかりにいろいろ話を聞いたのですが、彼女は愛知県出身の73歳。60歳の時に遍路に出て、以来四国を13年間回り続けているとのこと。
「どうしてまた四国に」
と聞くと、小声でよく聞き取れなかったのですが、
「懺悔のためになあ」

「四国にしかいられねェから」
という言葉は聞き取れました。
 一時は、善根宿をしている農家(都築さんというお宅)に、農業の手伝いをしながら1年間住まわせてもらったこともありましたが、
「人に使われて暮らすってのはどうもなあ。歩いてた方が、飯の心配はあるけど気が楽だあ」
ということで、また遍路に戻ったそうです。
 一時期腰の骨を折ったこともありましたが、入院などせず(そんなお金もないのでしょうが)歩き続け、お大師様に治してもらったそうです。ただしそれ以来荷物を背負うことができず、乳母車を接待で買ってもらって、それに掴まりながら歩き続けているとのことでした。
「一生懸命にお願いすれば、お大師様は必ず叶えて下さる。兄いはそうか、会社辞めて来たんか。じゃあ一生懸命仕事につけますようにって拝め。結婚はまだしとらんのか。じゃあいい家庭に恵まれますようにって拝め。そうすりゃあ、お大師様は必ず叶えてくれるぞ。疑ったりしちゃだめだ」

 おばあさんは家々を回り、托鉢をしているそうです。景気がよかったころは、歩いていれば家から人が出て来て、千円札を次々くれたものだそうですが、今では「恵んで下さい」とお願いしてもなかなかお金はくれないそうです。
 たった1円を渡されることもあるそうです。そんなときも怒ることはできないので、
「ありがとうございます」
と礼を言って去るのだそうです。

「じゃあ、これらもずっと四国を回り続けるんですか?」
と聞くと、
「九州にあるお寺でなあ、今度通夜堂(養老院ののようなものらしい)建てるってことでな、出来たらそこへ入るかってことを仲間と3人で話しあってるんだ。通夜堂が出来たら都築さんとこに連絡が来るようになってるんだけどな。
でも、もうこの歳で新しいとこに行って暮らすのも気兼ねだしなあ、考えてるとこだ」
とのことでした。
歩いてると、いろんなところから救いの手が伸びて来るようです。
 今夜は、今朝ぼくが泊まった道の駅に寝る予定だそうです。
「あそこには夜でも管理人さんいるから、ちゃんと断らなきゃダメだぞ」
「すいません、ぼく勝手に泊まっちゃいました」
寝る場所の確保は命懸けですから、その辺托鉢遍路さんはけっこう気を遣ってるようです。
別れ際、
「おばあは金もってねえんだ。100円でもいいで恵んでくれや」
と言われたので、 100円渡しました。
(おむすびももらったんだし、お話も聞かせてもらったんだから、もっとあげるべきだったな、俺って基本的にケチなんだな)
と、後になって反省しました。
ねえ。

 今日はいろんな人に会うもので、昼過ぎに内海町の公園にさしかかると、トイレのそばに屋根の大きな休憩所があり、
「こりゃ野宿には最高だな」
と思って覗いてみると、案の定60歳くらいの男のお遍路さんが荷物を広げてくつろいでおりました。荷車に荷物を積んでいるので、一目で托鉢遍路と察しがつきました。
 いろいろ話を聞いてみると、彼は数年ほど前から全国を放浪しており、四国で遍路になったのは今年の7月、順打ちが一回終わったので今はゆっくり逆打ちし、この公園にも3日ほど泊まっているそうです。
「消費期限すぎてるけど」
と、角のへこんだ缶コーヒーをおすそわけしてくれたので、それを飲みながらお話を聞きました。
 彼はもう九州を除いては全国を歩いており、長野関係では松本にしばらくいたことがあるそうです。
「今まで印象に残った場所は?」
と聞くと、
「和歌山はいいなあ。人があったかだ。春は紀州梅の時期だから、農家の手伝いしてなあ」
彼は四国でも、みかんの時期になるとその収穫を手伝ったりして小遣いを稼いだり泊めてもらったりしているようです。
「四国で遍路して、何かお祈りしてますか」
と聞いてみたら、
「まあね、先祖の供養とか。ぼくの場合、お袋の死に目に会えなかったから。それから、ぼくもこれまでずいぶんと悪さしてきたからねえ」
「罪滅ぼしですか」
「そうそう、あははは」
と屈託がありません。話している分には、どう見てもふつうのおっとりしたおじいちゃんです。
 今まで出会った古株遍路さんの名前をいくつか挙げてみたら、
「君を納得させなきゃならんのかね」
でぼくがヘコまされた、村上さんのことを知っていました(11月13日の日記参照)。
「ああ、あの少し背の細い人でしょ。彼は山が好きで、山のものを『これは食べれる』『これは食べれない』って見分けて食べてるんだよ。あと、ニンニク漬けと黄な粉の団子を常備食にしてるんだ。栄養があるからね。
 彼はぼくらなんかと違って学があるからなあ。どこで会った?ああ、須崎の辺。彼は徳島のお寺に自分のテントがあって、仲間がいるんだよ。きっと酒が恋しくなって山から下りて来たんだなあ」
人づてに他人の人物像を浮き彫りにしていくというのはなかなか面白い。
それにしてもあの村上さんは、話を聞けば聞くほど変わってるな。ふだん山に棲んでてたまに人里に下りて来るなんて、山人か寒戸の婆みたいだ。

「お接待じゃ今の季節、ミカンと柿を山ほどくれてね、食べ切れないよ」
とおじいさんはぼくにみかんを一袋くれ、
「へえ、あなたは会社辞めて来たの。多いねえそういうの。『会社辞めて、行くとこなくてここに来た』ってのが」
「まあ、帰ってから就職頑張りますよ」
と僕が言うと、
「今仕事ないからねえ。こういう生活もいいよ、気楽で」
と悪魔の誘惑のようなことを言ってくれました。
「農家へ托鉢に行きゃあ、米の2升や3升は分けてくれる。おかずだって大根やなんか分けてくれる。ナベやコンロはあるし、後は味噌・醤油を買っとけば食うにゃ困らん。気楽でいいぞ」
と、ずいぶん楽しそうでした。
 こうまで言われちゃ、ぼくの性分としては
「意地でもまともな社会人に戻ってやる」
というやる気が沸いて来ますので、ありがたいです。
「瀬戸内側に行くと冷えるから気をつけてな」
と見送られながら、公園を後にしました。

今日の特筆すべきこととしては、ふれあい物件(「ふれあい広場」2つに「ふれあいトンネル」1つ)が多かったことと、コインランドリーで洗濯ができたことです。 洗濯機と乾燥機で1100円の散財をしてしまいましたが、おかげでおとといの風呂と併せて、ひとまず世間並の体臭に戻ったと自負しております。
 今夜は津島町の町民体育館近くの植込みの間にテントを張りました。近くで夜間工事をしているらしく、工事車両の音が鬼のようにやかましいです。
 晩飯は菓子パンと発泡酒です。
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11月23日


 津島町の国道56号線沿いの植込みの蔭でテントを立て、一夜を過ごしました。
 夜中じゅうダンプの通る音やら何やらの騒音でうるさかったのですが、朝になって道に出てみると国道の舗装が真新しくなっており、昨日の騒音はこの工事だったかと合点がいきました。
 近くのスーパーでトイレを借り、地元の弁当屋で酢豚弁当550円を買って道端で食い朝飯としました。

 峠道を上り、細く暗く狭いトンネルを抜けると宇和島市。
 和霊神社以外にチェックすべき名所があったかな、と手元のメモを見てみると、ありました、『珍日本紀行』モノが。
 世界中の性に関する資料を収集・展示しているという(そんなんばっか)、その名も「凸凹寺」。和霊神社のすぐ西にあるらしく、これは行くしかないでしょう。

 その前に一応宇和島城に登ってみるかと、城山を登ってこぢんまりした天守閣に上がって眼下を見下ろしていると、本丸公園のベンチに疲れたように座り込む遍路が一人。
 またどこぞの托鉢遍路かと、城を出て近寄って見ると、なんと先日噂していた尾形君その人でした。前回会ったときよりも髭が伸び、ずいぶんとオヤジ顔になっていました。
「どーも、おひさしぶり」
と挨拶を交わし、写真家氏の話でひとしきり盛り上がりました。尾形君は
「写真撮らせてくれって言われて、どうしようかなと思ったんですけどね。なにせぼく地元だから恥ずかしくて。まあ、それでもせっかくだし、記念になるかなと思って撮ってもらったんですけど。写真集楽しみです」
と言っておりました。

 ぼくが、これから怪しい資料館を見に行くんだというと、
「あ、そーいうの面白そう。ぼくも行こうかな」
ということで、二人連れで凸凹寺に行くことになりました。
 歩きながら話を聞けば、尾形君は右足が痛むので無理せずゆっくり歩いてるとのこと。今日も宇和島市内のホテルを予約しているとのことでした。

 和霊神社は和霊公園の川向こうにあり、大きな石垣の上にあってまるで城のようでした。門も拝殿も新しくて巨大でした。
 ちなみにいうと、この和霊神社は山家清兵衛という人を祭っている神社です。
 山家清兵衛は宇和島藩伊達氏の家臣で、伊達政宗から直々に家老職を仰せつかったという人物です。江戸時代初期、宇和島藩が幕府から大阪城の修理を命ぜられたとき、清兵衛はその財政難を緊縮政策で乗り切ろうとしましたが、反対派勢力によって暗殺されてしまいました。
 それからというもの、彼に反対していた勢力の人々が次々と死を遂げたために、清兵衛の祟りであるとして和霊神社が作られたのです。
 こういうのを御霊信仰というのですが、こうして祟りをなして祭られた人神というのは、平安時代には多いのですが(菅原道真が典型)、江戸時代以降になるとあまりみられなくなります。
 江戸時代になるとむしろ、生前の偉業などを讃えられて人が神として祭られる、というケースが多くなるのです。
そうしたなかで和霊神社は、近世にもかかわらず御霊として大きな神社にのしあがった点で注目されるわけです(以上のウンチクは大学の卒論のときに仕入れたネタです)。

 それはそれとして、僕と尾形君のココロはとっくに凸凹寺の方にいっとりましたので、和霊神社はさっさとお参りを済ませ、社務所の人に道を教えてもらってさっそく凸凹寺へ。

 凸凹寺は多賀神社の境内にある3階建ての建物で、《凸凹神堂》とも看板が出ておりました。 寺でも神社でも、どうでもいいということなのでしょうか。
 多賀神社は、国生みの神・イザナギ命を祭っているということで、子授けの神社として信仰されており、神社の拝殿にはでっかい木造男根が横たわっていたりしています。
 先代宮司の久保盛丸という人が、自ら春画を描いたりする人で、ついに《大生殖宗》なる宗派を開基してしまい、陰陽研究の道場として凸凹寺を作ったのだそうです。
 そしてその息子の久保凸凹丸(あいまる、本名)氏は、そうした先代の意志を引き継ぎ、世界中からその手の資料を収集し、資料館を作ってしまったということです。

 入場料800円を払って中に入ると、壁から天井まで張り尽くされている関係資料の写真やら何やらにまず圧倒されました。
 凸凹丸氏が世界中を旅行して調査したときの現地人と写ってる写真など。中にはただの記念写真じゃねえかというのも混じっておりましたが、しかし量はすごいです。

 そして1階正面で見学者を出迎えるのが凸凹神堂内陣、要するに伊勢秘宝館にあった《陰部神社》と似たようなお社。
 ご本尊は弥勒菩薩(だったかな)なのですが、その手に持っている仏具の形が“ブツ”になっているわけです。しっかりとその手のおみくじもあります。ただし秘宝館と違うのは、それらが見世物として作られたものではなく、本物の仏像を収集して据え付けているということ。
 さらに奥に進むと、あるわあるわ。
 日本民俗関係では金精様、道祖神、山の神などのお供え物やら御神体、
 考古学関係ではもちろん陰陽石や石棒、
 宗教学では真言立川流、ラマ教、ヒンズー教、
 文化史では春画から昔の玩具、ヨーロッパのSMグッズ。
 およそ男根と女陰に関わるものなら手当たり次第に集めまくったという感じです。それにしてもすごいのは、それらがすべて本物だということ。真言立川流のご本尊やら仏具やら、いったいどこで見つけてきたんだと恐ろしくなるくらい。
 手書きの解説文もかなり深く、インドのタントラやラマ密教、理趣経の例をひいて、性の部分を黙殺している現代の日本密教のありかたを批判したりしているのです。
 わたしも素朴な疑問として、
「全ての人が仏教の教えを真に受けて出家したら、子供作れなくなって人類滅びるんじゃないの?」
と常々思ってましたから、凸凹丸氏の指摘はかなり溜飲が下がります。

 お遍路さんは、札所の本堂や大師堂で《十善戒》というのを唱えます。
仏道に精進するための10の戒めのことで、《不殺生(むやみに生き物を殺さない)》《不愉盗(盗みをしない)》などがあるのですが、その中に《不邪淫(みだらなことをしない)》というのがあります。
 じゃあ一体《淫らなこと》とは何なのか、というのが問題になってくるわけで。性欲を「淫ら」の一言で切り捨ててしまったら、人間は生き物としての本質を自ら否定することになるわけで。禁欲を強制する仏教は、生物としての道から外れていることになるわけで。
「そのへん、どうなんですかね」
と、札所の坊さんに聞いてみたいところです。

 1階から3階まで、建物はびっしりと資料に埋め尽くされており、最上階の3階には、長野県の彫刻家が作ったという、「五百羅漢」ならぬ「五百性交像」があったりしました。
 ここはもう、「きゃーエッチ」などと騒がずに、じっくり勉強する心構えで訪れたいところです。
 尾形君も、
「すっごいすねえ。これだけの資料よく集めましたよねえ」
と、肝をつぶしておりました。

 帰りぎわに窓口のおばさんに聞くと、これらの資料はすべて凸凹丸氏が、自ら本を書いてガリ版で刷り、売って歩いて貯めた金で買い集めたそうです。展示しきれない資料も膨大にあるというので、
「データベースCD−ROMを作ったらどうですか」
と言うと、今は現状を維持管理するだけで精一杯なのだそうです。
「こんな田舎にありますから、なかなか見に来るお客さんも少なくてねえ」
とおばさんはぼやいておりました。

 凸凹ワールドにノックアウトされたぼくと尾形君は宇和島市内で別れ、ぼくはしばらく歩いて大型スーパーで晩飯を買って、道端の街灯下でテントを張りました。晩飯は、お総菜コーナーのカキフライとキンピラゴボウとごはんと発泡酒。
 アクシデントは、テントの中でカメムシをつぶしてしまったこと。細長くて一見バッタみたいな形でしたが、羽の形と臭いはまさしくカメムシ。ティッシュで何度も拭き、ミカンの皮をなすりつけたりしてみましたが、しばらく臭いはとれず、晩飯食ってても気持ち悪くなりました。
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11月24日


 朝起きたら、なんとかカメムシの臭いは消えていてほっとしました。
 朝飯は、菓子パンと《玉子スナック》。クッキーみたいなやつなのですが、粉がポロポロ落ちるのでテントの中で食うにはふさわしくありませんでした。
 テントの夜露を拭っていると、尾形君に追いつかれ、「お先に」と追い越されました。

 山間の道、朝のうちは日陰が多いので肌寒いですが、天気は快晴、日が高くなるころには三間町の盆地に出て、日なたはぽかぽかとして結構なウォーキング日和です。
第41番札所竜光寺の前で、40代くらいの中年の夫婦遍路さんと同道になりました。年に何回か休みのときに区切り打ちし、ようやく一年目とのこと。
 仲がよくて結構なことだと微笑ましく思っていたのですが、寺でのその旦那さんのお参りの仕方が少し変。本堂の前に膝まづいて一通りの誦経を、堂に入った節回しで唱えた後、 何やら独り言のようなことを言っているのです。
「…よくぞここまで来た、ご苦労だったな。その方は今日でようやく一年だが、寺では仏の前でただ座っておる訳ではあるまいな。よいか、遍路修行というものは…云々」
どうやらそれは、神様(仏様)が彼にかけている言葉のようなのです。頭がハゲていたのでもしかしたら僧籍の人なのかもしれませんが、会話したときは普通の人っぽかったし、《神の言葉》もごく淡々とした口調で、別にトランス状態に入っている様子もありません。
 奥さんはといえば、しゃべり続ける夫の後ろに立って、静かに手を合わせたまま微動だにしておりません。
 そして「神の言葉」が終わり、お参りが済むと、
「ああ、銀杏の葉がきれいねえ」
と、フツーの夫婦連れに戻るのです。
うーん、いったいあれはなんだったんだろう。

 次の42番仏木寺は、3km先。道路沿いのコスモスがきれいだったので葉書に描いたのですが、あいにく水がなく、仕方ないのでジュース(カゴメ野菜生活100)を使って描きました。もったいない。

 あと少しでお寺というところで、
「お遍路さん、お遍路さん」
と家の庭先にいたおばあさんに呼び止められました。
「こっちおいで、そこの庭回って入っといで」
お、またお接待だ、今度はなんじゃ、と思って玄関先に行くと、ずいぶんと顔の長いおばあさんで(そんなことはどうでもいいのですが)、
「そこ(縁台)に荷物置きな、中入りな、そこ座んな」
と矢継ぎ早の指示。
土間のあがりかまち(?)に座っていると、台所から
「お茶とコーヒーどっちがいいかね?」
「えっと、じゃあお茶で」
「コブ茶でいいかね?」
「はあ、そりゃもう」
入れてくれたコブ茶を啜っていると、
「大根をたいたのがあるんだけどいいかね」
「ありがとうございます」
出された大根の煮物を食べている間、おばあさんはぼくの正面に座って
「ごはんがありゃいいんだけど、すまんな、堪忍して」
「いえ、もうそんなのは」
「ばあちゃん一人だから、朝と夜しか炊かんのよ。堪忍してな」
と、ごはんがないことを何度も何度も謝るのです。
「おばあさんは遍路に出たことはないんですか」
と聞いてみると、
「退職したときになあ、農協のバスツアーで」
とのことでした。

 そしておばあさんは、縁台に置いてあったぼくの菅笠を被り、立て掛けて置いた金剛杖に向かってじいっと手を合わせてから、杖で首筋や背中などを摩りました。
「杖でさするといいことあるんですか?」
「あんたはお大師さんと一緒においでじゃけんな。ばあちゃんもお大師さんと一緒になりたくて」
といい、今度は大根を食べている僕に向かって、眉根に皺まで寄せて手を合わせて拝むのです。
 何も言えずに大根を食い、茶を飲み干し、ごちそうさまというと、
「みかんもってかんか。年寄りの遍路さんだと、重いからいうて嫌がるけど、あんた若いけん、大丈夫やろ」
といって、6個ほどみかんをくれました。
「小さいのばっかだけど、選ってきたわけじゃないけんね、ばあちゃん、ちいさいのしかもろうてないんよ」
「いえそんな。ありがとうございます」
「あんたに頼みがあるんじゃけどきいてくれる。
これからお寺さん行くやろ、いったらな、鐘突き堂があるけん、ばあちゃんのために一つゴーンと突いてくれる。そしたらおばあちゃん、ここでお寺さんに向かって拝むけん。な、お願い」
「は、はい、かしこまりました」
ぼくがそう言って敬礼すると、おばあさんは名残惜しげにまた、菅笠を被り、杖に手を合わせ、杖で体をさすっておりました。
 別れ際も、僕の手を両手で握って、ありがたそ〜うな、何だか泣き出しそうな顔をするのです。 納め札を渡し、ぼくも合掌をし返して家を後にしました。表札には高田さんとありました。
 寺はほんの200メートルほど先。階段を上ると、紅葉が満開の境内に藁葺き屋根の鐘突き堂がありました。
「ばあちゃーん、聞いてるかーい」
と呟いて、

ごーーーーん

と一回、鳴らしました。

 次、43番明石寺までは15km。今日中の納経には間に合いませんが、なるべく進んでおきたいと思って先を急ぎました。
 間にそびえる《歯長峠》は、個人的にその名前が不愉快ではありましたが、紅葉が夕日とあいまってきれいでした。

 その日の夜は、明石寺手前2km地点の建設途中の道路の空き地にテント設営。近くに店がなく、また週末だというのに金を下ろしそびれて財布は500円玉一個。あした、
「空いてるキャッシュコーナーがあればいいなあ」
「週末天気が崩れるって聞いたけど、明日あたり雨が来るのかなあ」
などと思いを巡らせながら、常備していたお菓子を食って寝ました。

※本文中、おばあちゃんの言葉の方言は、うろ覚えのためあまり正確ではありません。
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11月25日


 朝起きたら、外は霧でした。四国に来て霧という天候は初めてでした。夜露もびっとり、霧が晴れる様子もないので、半ば濡れたままのテントを畳まなければなりませんでした。

 まず、寺より先に、郵便局のキャッシュコーナー捜し。幸いスーパーの一角にみつかったので、金を下ろし、朝飯は弁当と飲むヨーグルト。
 ぼちぼち明石寺へ。ここももみじが盛りできれいでした。寺のわきに古びた神社があったので、それを葉書に書き、歩いて五分ほどのところにある愛媛県立歴史民俗資料館へ。

 県立の資料館はどこも金をかけて、実物そっくりのレプリカ作ったり、建物の一角を丸ごと復元して臨場感を出してみたり、アニメのビデオを見せてみたりしております。
 でも正直言って、どこも似たり寄ったりで飽きが来ます。特に先史時代の展示などは、説明内容も「狩猟から稲作へ」の一辺倒だし、ヤジリだの石皿だのなんて、出土地は違っても見分けつかないし。
「あー、ここもか」
などといいながらも、たっぷり半日かけて見物してしまう私でした。
 年寄りの夫婦なんかも見学に来ていて、
「えーと、ここは《農耕の始まり》、じゃと」
「農耕じゃ農耕じゃ。大したもんじゃのう」
「こっちは《律令体制》じゃと」
「ほう、律令じゃ律令じゃ」
…この人たち、ほんとに分かってんのかな。
 団体のおじさんたちも来ていて、レプリカの石塔をバコバコ叩いて
「ほれみろ、ニセモンじゃぞ。ようできとるなあ。叩いて見ろ、ほれほれ」
…穴開いても知らんぞ。

 最後の方に四国遍路の展示コーナーがあったのですが、閉館時間がきてしまい、じっくり見られませんでした。
 受付嬢および案内嬢は、やっぱ「住まいと暮らしのミュージアム」の方がいいですね。

 ということで資料館の見物だけで日が暮れてしまい、夜はほか弁でハンバーグ弁当を買い、パチンコ屋の裏でテントを張りました。
 今日トータルの移動距離は、5kmもあるかどうかといったところです。

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