四国巡礼てくてく編(伊予2) 四国巡礼てくてく編(伊予2)

11月26日


朝はどんよりとした曇り空。テントを畳んでいるうちにポツポツと落ちてくる。
「ちょっと待てえ〜」
と叫びながら大急ぎで支度を終え、レインウエアをひっかけて歩きだしました。
 朝飯はサンクスの「スタミナ弁当」。ほんと、こんな食事ばっかでいいわけないよなあ。体にどんなふうに影響が出てくるんだろう。

 余談ですが、愛媛のコンビニは今までのところサンクスとヤマザキショップが圧倒的に多いです。あとは時々ローソンを見かけるくらい。ただしヤマザキショップは、店によっては個人商店に毛の生えたようなものもあります。
個人的にコンビニの必要条件は、
1、24時間営業
2、店の前に燃えるゴミのゴミ箱がある
3、トイレが使える
4、カップラーメン用のお湯がある
5、弁当を売っている(もちろんレンジがある)
 中には、上記の一つも満たしてないのにコンビニと自称してる店もあります。

 四国巡礼の折り返し地点、44番大宝寺へは、80km以上の道のり。僕の場合3日はかかります。150g100円で買ったビスケットをずた袋に入れ、ばりばりかじりながら歩きました。

 今日は一日じゅうどんよりとした曇り空で、せっかくの紅葉も冴えません。
 途中、自称番外霊場の「札懸大師」というのがあったので寄ってみました。よく知りませんが、たぶん弘法大師が何かのお札をどこかに懸けて何かしたとかいう言い伝えがあるのでしょう。
 チンケな寺で、「札掛山仏陀懸寺」と看板にあり、「ふだかけさんふだかけじ」とでも詠むのでしょう。くどい。
十夜ヶ橋のネボスケ大師
十夜ヶ橋のネボスケ大師

 もう一つ寄った番外霊場は、十夜ヶ橋(とやがばし)。
 大洲市にあるちっちゃな橋なのですが、昔お大師様がここを通ったとき、誰も泊めてくれる家がなく、この橋の下で野宿をしたら一夜がまるで十夜とも思えるほど辛い思いをしたそうな。
 このエピソードに基づいて、遍路は橋で金剛杖を突いてはいけない、というしきたりがあります。
 つまり、橋の上で杖を突くと、その音がうるさくて、橋の下で寝ているお大師様に迷惑をかけてしまう、ということらしいでのです。ということは、今でもお大師様は四国じゅうの橋の下にいて、一日中ぐうぐう寝てるということなのでしょうか。
霊山寺の尼さんからこの伝説としきたりを教えてもらって以来、ぼくも一応守ってきたのですが、本場の十夜ヶ橋の上に立つと、
「空海、起きろ〜!」
と叫んで杖を連打したい衝動に駆られてしまいました。橋の下に住んでるなんて、安倍清明に飼われてた式神みたいだな。
 この十夜ヶ橋も、今ではコンクリート製になっているのですが、橋の下に行くとお大師様がごろ寝している姿の像が安置され、ちゃんとお賽銭箱や納め札箱もあるのです。ここは四国霊場唯一の《野宿修行》の行場だそうで、近くの寺に言えばゴザを貸してくれるそうです。
 ぼくもよほどここで野宿してやろうかと思いましたが、時間的にまだ早かったので諦めました。 もっとも、橋の真上で高速道路の橋の建設工事をしていてうるさいのと、鳩の糞で汚いのとで、あまり寝心地はよく無さそうです(修行なんだからいいんだろうけど)。
 橋の真上は国道だから、車の音もうるさいし。こりゃたしかにお大師様も寝づらかろう。
 ちなみに、ごろ寝大師の像にはふかふかの布団がかけられており、病人に着せると病気が治ると言われて、この布団を借りて行く人が多いとのことです。

 寒風吹きすさぶ中、橋の下の絵を書いていると、歩き遍路のおばさんが
「お弁当が残っちゃったから」
と言っておむすびとミカンを、
団体客のおばさんの一人が
「これであったかいうどんでも食べて」
と言って一千円札を接待してくれました。
 なんだか今日はお接待日和でした。

 夕方、中学生くらいの女の子とすれちがいました。紺色のパーカーを着た、ちょっと目の切れ長の子でした。
 後ろから肩を叩れたのでふりかえるとその女の子がいて、
「これ」
と言って、《ミルクの国》《花梨のどあめ》などの入ったビニール袋をくれました。後から女の子の母親とおぼしき女性も出て来て、
「まあ、長野から。気をつけて頑張ってね」
と、200円くれました。

 その日の晩飯は牛丼屋に入り、ねぐらはその近くのつぶれたドライブインの脇。
 テントの中で女の子がくれた袋を開けてみると、飴の他に葉書が一枚。
キツネとも猫ともわからぬ動物のお遍路さんが、菅笠を風に飛ばされて「ああっ」と言っている手書きの絵がインクジェットでプリントされており、
「ナミのお接待 2001年秋」
と書かれてありました。
さらになにやら小さな包み紙があり、開いてみると
「お遍路さん!八十八ヶ所がんばってまわってね」
というメッセージと、同じく遍路姿の動物の絵が描かれており、その紙にはなにやら草花の種が包まれておりました。

これら一式の入ったビニール袋が《自賠責保険証明書入れ》だということは、きっと彼女の家は車屋さんなのでしょう。
こーいう、いかにも女の子らしいお接待は、ぼくみたいなおじさんにとってうれしいものじゃありませんか。
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11月27日


 夜、ついに雨が降り出しました。
 朝、寒いのと出発準備が面倒臭いのとで、8時ころまでぐずぐずしておりましたが、ようやくぐしょ濡れで重くなったテントをビニール袋に包んでリュックに突っ込み、歩きだしました。
 数日前の秋晴れはどこへやら、辺りはすっかり鉛色の、冬の空気に包まれています。
 44番大宝寺へは、まだ50km以上の距離があります。
 朝昼飯は、内子町のAコープで買った弁当を、
「あなたと私のAコープ、えーえー、こーぷー」
の歌を聞きながら店先でかき込みました。
 途中、道の駅のトイレの大便室で、ザウルスの充電とたまった日記打ちを試みましたが、大便客がけっこう多いのと、歩かないと距離が稼げないのとで早々に再び歩きだしました。
 Aコープで買ったピーナツチョコと柿ピーを、ぼりぼりむさぼりながら歩いて行くと、道はだんだん山の中へ入って行き、辺りはすっかり山村の風景になってしまいました。
 途中、歩き遍路のための無料宿泊所がありましたが、時間が合わないので素通り。
 基本的にこれといって面白いものや変な人との出会いはありませんでしたが、思い出に残ったのは下校途中の中学生が
「さよなら」
とか
「こんにちは」
などと、けっこうあいさつしてくれること。ただし、皆自転車でシャーとすれ違いざまにしてくれるので、なかなかこちらが挨拶を返す余裕がありません。
 ともあれ、生徒が挨拶するということは、それだけ町が田舎だという証拠でしょう(そーいう結論か!)。

 結局今日は25kmほどを歩き、小田町の、竜の形の筏の残骸の陰にテントを張りました。
 晩飯は、これまたAコープで買った弁当。栄養が偏ると、どんな死に方するのかな。
 昨日買った携帯ラジオ(ついに買いました。3000円)の天気予報によれば、北からかなり強烈な寒気がなだれ込んで来て、今夜は今年一番の寒さになるだろうとのこと。ううー、俺大丈夫かな、ま、なんとかなるだろ、と思いながら寝ました。
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11月28日


 確かにかなり冷えました。それでもまあ、風邪をひいたわけでなし、昼間寝不足感を覚えることもなかったので、なんとかよしとしましょう。
 テントを張った小田町は石鎚山にも近く、町内にはスキー場もあるらしい。寒いわけだ。
 このへんは山奥でまともな店がないので、松山に下山したら温かい下着なり、シュラフのインナーなりを入手したいと思います。

 どこまでも続く山里の道。日中の寒さは昨日・一昨日ほどではありませんでしたが、天気予報では《快晴》と言っていたのにかなり雲は厚く、時々薄く影ができる程度にしか日は射しませんでした。
 3時ころようやく44番に到着。充電できるようなコンセントはなし。納経所の坊主は若いくせに無愛想。ローソクを一箱買ったら、同じものなのにこの前より100円高かった。

 仁王門前の参道で葉書を描いていると、再び尾形君に会いました。彼はぼくより一足先にきており、45番を済ませて戻って来たところでした。45番から46番へは、同じ道を戻ることになるのです。
僕が
「テント暮らしにも飽きたんで、道後温泉あたりでちょっといい宿に泊まって、温泉に浸かってうまいもん食って酒飲みたいんですけど、つきあってくれませんか」
と言うと、
「いいですよ。51番の石手寺が近くみたいやから、連絡とりあってここで落ち合いましょう」
と言ってくれました。ありがたい。
おっしゃー、道後温泉では散財するぞう(そのあとすぐテント暮らしに戻るけど)。

 今夜は近くの「久万公園」の管理棟脇。
 トイレも水道もすぐ近く、屋根もあるから雨の心配なし、コンセントがすぐ近くにあってテント内に電源を引き込めるという絶好の場所です。
 テントを立てていたら、どこぞのおっちゃんが
「ここは愛媛でも一番寒い所だぞう。大丈夫かあ」
と言って近寄って来ました。
「頑張りますよ」
「俺、ラーメン売ってんだ。ラーメン作ってやるけど食うか」
「ほんとですか!?ありがとうございます」
と言ったものの、おじさんの車は普通の乗用車。夜鳴きソバのような道具も積んでいないし、どういうことかしら。
 ぼくが不思議に思っていると、おじさんはしばらく後ろのドアを開けてなにやらしておりましたが、数分すると
「ほれできた。ネギだけだけど我慢しろよ」
と、どんぶりにあつあつのとんこつラーメンを作って持って来てくれました。
「ありがとうございます。いただきます!」
と、ぼくはふうふう言いながらラーメンを食いました。
寒風吹きすさぶ中で食うあつあつのラーメン。最高ですね。特に、最近のぼくは食い物と言えば冷めた弁当と菓子パンだけでしたから、なおさら旨さが身にみました。
 おじさんは、
「それ、インスタントなのよ。俺はさあ、メーカーの代理店で販売の営業してるの。松山から、今日初めてこっちの町に来たんだけど。寒いねえ、ここは。
 家々に回ってさ、こうやって作って試食してもらって買ってもらうんだけど、売れないよね。10軒回って試食してもらって、1軒で売れりゃいい方。ほんと。
 俺さ、ほんとはこういうの向いてないんだよね。
 サンクスってコンビニ知ってるだろ。こう見えてもさ、俺前はそこの会社の取締役なんかやってたの。失業してさ、3年くらいはろくな職につけなかったよ。お兄さんみたいに若きゃ、不況でもまだなんとかなるけど、50過ぎたオヤジには仕事ないよ。どこもアルバイトみたいなのばっかりでさ。
 それでようやく今の仕事に行き着いた訳だけど。この仕事も、メーカーとの契約だから、いろいろ面倒臭くてさあ…」
僕が食べ終わるまで、おじさんは寒そうにもじもじしていました。
「ごちそうさまでした。ありがとうございました。おいしかったです」 ぼくがいうと、おじさんはどんぶりを受け取って、
「じゃあな、気をつけて。またどこかで会うかもしんねえな」
というと、バタンと後部ドアを閉め、エンジンをかけて走り去って行きました。

 ぼくはせめてものお礼にと思って、車のライトが見えなくなるまで見送りました。もっとも、駐車場を出て角を曲がるとすぐに、ライトは見えなくなったのですが。
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11月29日


 あんまり寒さを強調すると、読者の方々が心配するので控えたいのではありますが、正直言うと、今朝は寒さのせいでろくに眠れませんでした。
 特に地面(コンクリート)から冷えが伝わって来ます。仰向けになってると背中が寒いし、俯せになってると腹が冷えるし、横になってると腕や膝が冷たいし。
 なんだかわからないうちに朝になって、かじかむ手でテントを畳み、45番岩屋寺に向かいました。

岩屋寺へは、途中から数キロの山道を登ります。落ち葉が降り積もって、ふかふかです。
山頂近くになると、道が険しくなり、数十メートルおきに「ナントカ童子」「ナントカ明王」などといった、凄げな仏教の神様の石像が祭られ、その足元にお札が散らばっています。
 ここは修行場だそうで、圧巻なのは「逼割行場(せりわりぎょうば)」という場所です。  山頂近くに巨大な岩の裂け目があり、一般人は入れないように錠のかかった格子門がはめ込まれているのですが、その向こう、狭い岩の亀裂の奥は垂直な岩壁となっており、一本の鎖だけが上から垂れ下がっています。
 ガイドブックによれば、岩壁をさらに越えて行くと白山神社が祭られており、遠く山並みが見渡せる絶景を独り占めにすることができるそうですが、滑落して頭蓋を割って死んだ遍路もいるのだとか。
 お寺に申し出れば入り口の鍵を貸してくれるらしいのですが、雨が本格的になってきたこともあって、諦めました。
岩屋寺の法華仙人洞から
岩屋寺の法華仙人洞から

 岩屋寺は、その名のとおり崖の岩肌のくぼみに堂がはめ込まれるようにして建てられていました。昔、弘法大師が訪れるよりも先に、この山には「法華仙人」という女の仙人がいて、やって来た弘法大師に様々な仙術を披露したのだそうです。
 その法華仙人が住んでいた岩棚とか、不動明王の力であらゆる災厄を封じ込める洞窟とか、いろいろ見物があって飽きません。
 今の世にもこんな修行の場があって、実際に修行してる人がいるわけですから、大したもんです。

 この寺で納経したら、御影のほかに少々説教臭いプリントをもらいました。
「お納経の揮毫・朱印は、趣味のスタンプ収集ではありません。あなたが心を込めてご本尊様に納められたお経を、確かにお取り次ぎさせていただきます、との住職の受取証印です」
と、太字で書いてありました。
 そうか、納経帳の朱印て、そういう意味があったんだ。でも今じゃ、納経って言ってもお堂の前で誦経するだけだから、住職が取り次ぐも何もないんだよなあ。
 次の46番浄瑠璃寺へは、元来た道を戻ることになります。雨の山道、特に下りは危ないので、車道を歩くことにしました。金剛杖を握る手がかじかみます。
 門前のお店で接待された焼き芋を齧りながら歩きました。細いけど、柔らかくて甘い芋でした。

 尾形君と51番札所で落ち合う約束をした以上、なるべく距離を稼いでおかねばなりません。
 こんな雨の中、屋根があってテントを張れる場所なんてあるかなあ、と不安でしたが、6時まで歩き続けたら、三坂峠の手前の道路脇にいい感じの休憩所がありました。屋根もあるし、テントも張れるし、トイレもあるし。ホント、世の中何とかなるもんです。
それをお大師様のおかげと思うか、ただの偶然と思うか、ただの必然と思うかは人それぞれですが、何とかなる、それは事実です。

 ただしピンチは次々襲ってくるもので、レインウエアが濡れているため、寝るときの厚着レベルが必然的にレベル4まで下がってしまいました。
 峠の頂上付近ですから標高も高い。近くにはスキー場もあって、看板に「12月1日オープン」と出ていました。
 晩飯も買いそびれたので、今夜の晩飯は、常備食の柿ピーとピーナツチョコです。
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11月30日


 愛媛県内でも最も寒いと言われる久万町、その中でも標高の高い三坂峠の頂上付近で寝たわけで、凍え死ぬかなと思ったら、今朝はてんで暖かかったです。これもお大師様のおかげさまなのでしょう。

 晴れとまではいきませんが雨もあがり、テントを畳んでいると、二人の男性歩き遍路さんが間を置かずにやってきて、僕を追い越しざまお接待をくれました。
一人は梨といよかんようかん、もう一人はキャラメル。これがぼくの朝飯となりました。

 僕も支度を終えて歩きだすとしばらくして彼らに追いつき、46番浄瑠璃寺まで同道になりました。二人は別々に歩いているのですが、宿をとるタイミングが一緒なので結果的にここ数日間一緒に歩いているとのことでした。
「四国遍路って不思議だよね。大の大人が飴玉をもらったりする。普通の社会じゃ今時子供だって喜ばないのに。遍路でお接待をもらった飴がまた、おいしいんだ」
と、彼は語っておりましたが、全くその通りです。

 浄瑠璃寺では、寺からお茶とお菓子の接待がありました。お寺から接待を受けたのは、高知の神峯寺以来です。
 寺には「もみ大師」という石像がありました。お大師様が村人に按摩治療したという伝承でもあるのかと思って納経所のおばさんに聞いてみたら、
「籾ほどの小さな大師像が寺宝となっており、それを拡大して安置したのがこの石像なのです」
とのことでした。
 この寺で絵を描いたのは仏足石。お釈迦様の足跡を刻んだものです。足跡を信仰の拝むなんて、フェティシズムも極まれり、という感があります。
仏教ではお釈迦様の骨が最高の宝な訳ですが、同様に
「お釈迦様の生下着」
「お釈迦様のツバ」
なんてのもあれば、仏教徒はウハウハですね。
 仏足石を見る限りでは、お釈迦様の足には土踏まずがなく、代わりに鯵の開きや手裏剣や車輪の入れ墨みたいなのが入っています。足跡として模様が残るわけですから、立体的な入れ墨なのでしょう。

 浄瑠璃寺の門前には、50過ぎくらいの痩せた男遍路さんが座り込み、お椀を前に置いて托鉢をしておりました。遍路の格好をしていなければ、お乞食さんと何の変わりもありません。
「右や左の旦那様〜」
と哀れな声を出してくれれば愛嬌があるのですが、黙ってうつむいているだけです。
試しに百円玉を椀に入れ、
「托鉢修行は長いんですか?」
と声をかけてみたら、彼はぼくをじろりと見上げ、
「まあな」
と一言言っただけでした。

 47番八坂寺では、納経したらお寺の人がみかんを一つくれました。
 ここで少しだけ面白かったのは、閻魔堂。お堂の両脇にそれぞれ「地獄の途(みち)」「極楽の途」の入り口があり、中に入ると内壁にそれぞれ地獄や極楽の絵が描かれているという趣向です。
 地獄には頭の剥げた餓鬼や亡者(ほとんどが落武者ヘアの男)ばかりがはい回っている一方で、 極楽には美人天女(みんな同じ顔)ばかりがわんさかおり、腰をくねらせて楽器を弾いたり扇で仰いだりしています。
「生前に欲を捨てて善行を積めば、死後に美人天女に囲まれてやりたい放題ですよ」
という教えって、そんなことでいいんですかねえ。

 48番へ行く途中、道端におじさんが待ち構えていて、次の寺への道順を教えてくれました。48番への近道、49番への道、50番への道を次々教えてくれますので、全然覚えられません。だいたい今時の遍路は、専用の詳しい地図を持ち歩いているので、こうした親切も空回りしがちなのが哀れです。

 その後、衛門三郎の邸宅跡に建つという番外札所の文殊院に寄りました。
 衛門三郎は、最初に四国遍路を始めたという伝説の人物です。
 昔、長者だった衛門三郎のところに弘法大師が托鉢にきましたが、三郎はそれを断りました。 三郎が弘法大師の鉢を投げつけると、鉢は八つに割れたそうです。するとその後三郎の8人子供たちが次々と皆死んでしまい、自分の非を悟った三郎は大師に会って許しを乞うべく、大師を探して霊場を回るようになったという話です。
 主観的な印象で言うと、三郎が大師の許しを乞おうとしたのは自分の非を悟ったからというよりも、わが子の死を大師の祟りと思い、大師を恐れたからなんじゃないかと思います。
 接待を断って一族が皆殺しに合うというモチーフは、蘇民将来説話(10月15日の日記参照)に通じるものがあるのではなかろうか。

 この文殊院でバスツアーの一行と出くわしたのですが、ツアーの引率員(旅行会社の人)が、歩き通しているぼくにいたく感心したようで、
「みなさ〜ん、ここに歩き遍路の方がいます。余ってるお菓子を袋に入れて持って来てくださ〜い」
と号令をかけると、一行のおばちゃんたちはバスに戻ってわらわらと菓子を持ちより、スーパーの袋にどっちゃりと入れて持って来てくれました。袋の中には、ミカンだの、羊羹だの、飴だの、おしゃぶり昆布だの、天津甘栗だのがごたまぜに入っておりました(飴の包みカスも混ざっているのはどういうわけだ)。
 なんだかまるで、山に遠足に来た小学生から、おやつの残りをもらった猿のようで、ありがたい反面情けなくなりました。
「歩き遍路に餌を与えないでください」
と札を下げて歩こうかしら。

 接待は、地元の人からよりもバスツアーの遍路さんから受ける機会の方が多いです。特に、千円札をボンボンくれるのは必ずツアーのおばさんです。
 バスツアーの人達にとって、我々歩き遍路は、羨望、尊敬の対象であるとともに哀れみ、そして好奇心の対象なのでしょう(ぼくも職業遍路が物珍しくて仕方なかった時期がありましたが)。
 お接待は、やり方によっては相手から侮辱ととられたり、逆に相手を付け上がらせたりしかねない、結構難しい行為だと思います。
 重い菓子袋をぶら下げて48番西林寺へ。寺の門前では、道後温泉にある国民宿舎のおばさんたちが
「今日のお泊まりはお決まりですか。手前でもでしたら、2食付天然温泉で7000円となっております…」
と客引きをしておりました。ご苦労様です。
 フツーの寺なので、何を絵にしようかなあと思案していたら、山門のベンチに座っていた近所のおばあちゃんとお話することができました。
 四国巡りが好きで、いつかまた行ってみたいと思いながらもなかなか行けないので、毎日朝から夕方までお寺に来て、お遍路さんを眺めたり、お話ししたりするのが日課になっているのだそうです。 いろいろ言い伝えなんかも聞けて面白かったです。
 このあたりでは、信州の善光寺さんに一生に一度はお参りにいかなければいけないと言われているそうです。
 善光寺のご朱印をもらえば死後、極楽に行くことができるんだそうで、善光寺参りせずに死んだ人は、死んだらすぐに善光寺に行くんだそうです。
 善光寺の戒壇巡りでは、暗闇の中で、亡くなった人に会うことができる、とも言われているそうです。
 そうした伝承があることは、本を通じて知ってはおりましたが、生のおばあちゃんの口から聞けたのは感動でした。
 もう一つ、満濃池の伝説。
「徳島にある満濃池」のことだと言っていたので、おばあちゃんのいう満濃池が、空海が作ったという満濃池のことなのかはよくわかりませんでしたが、こんな人柱伝説があるそうです。

 昔、満濃池という溜池が大雨のたびに壊れて洪水となっておりました。そのためお役人が
「横継ぎの当たっている着物を着た者を人柱に立てるように」
とお触れを出しました。
「横継ぎ」とは、縦縞の着物に横縞の布をツギハギすることです。
普通ツギハギは目立たなく当てるものなので、横継ぎの着物の人などなかなか見つかりません。しかし最後に、お触れを出したお役人本人の袴の裾が横継ぎだったことがわかりました。お役人の奥さんは
「あなたが自分であんなお触れを出したばっかりに」
と泣きましたが、結局お役人は人柱になり、以来池は壊れることがなくなったのだそうです。
「そうか、兄さんは会社辞めて来なさったか。それでも遍路に出ようと思い立ちなさったということは尊いことじゃ。それでも、帰ったら、ちゃんと仕事にはつかにゃあかんよ」
とぼくに意見してくれ、
「さてそろそろ、兄さんもお宿にいかにゃ。ばばも帰る。お寺さんから家まで七百足(歩のこと)。ほらの、ひとあし、ふたあし、こうやって帰るんじゃ」
と言いながら、ひょこひょこ帰って行きました。
おばあちゃんに話を聞いている間に、ことわりもせず似顔絵を描かせてもらい絵葉書としたのですが、やっぱことわった方がよかったかなあ。

 今夜は、そこから3kmほど先の四十九番浄土寺の駐車場にテントを張りました。
 晩飯は近くのサンクスで買った五目寿司です。発泡酒は、明日の道後温泉での豪遊(?)のために我慢しました。近くに温泉もあるのですが、同様に我慢しました。 夜8時、尾形君から電話があって大鷹旅館という一万円のところに予約がとれたとのこと。宿泊案内所に聞いたら、週末なので、他の宿は満杯だとのことだそうです。

 明日は昼に石手寺で彼と落ち合い、午後は松山観光と道後温泉で風呂三昧の計画です。いえ〜い。
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12月1日


 朝6:50頃、尿意を催して寺のトイレを借りに行くと、境内の掃除をしていた寺の人が
「7時にならないと開かないよ」
とのこと。10分が待てなかったので、300m先のサンクスまで、トイレだけを借りに行くはめになりました。

 この浄土寺で会ったのは、名古屋から来たという浅井さん。30越してすぐくらいの男性で、笈摺(おいずる:白衣の上着)が転々とカビ吹いてるのが印象的でした。
カビふいてるくせに、珍しく若い女性と一緒に歩いてる人で、うらやましーなーと思いながらも、夫婦なのか、恋人なのか、行きずりで捕まえたのか、聞きそびれました。
 彼は今年の5月から歩き始めたのですが、途中愛媛の手前の松尾峠というところで、 お遍路さんたちがボランティアで大師堂を再建している現場に行き会い、山の中でテント暮らしをしながら先月まで作業に参加していたのだそうです。
 この大師堂は古い遍路道に沿った山の上にあり、今では歩き遍路すらほとんど通らなくなりお堂も壊れかけていたのを、とある古株の托鉢遍路さんが、資金を托鉢で集め、再建に取り掛かったのだそうです。
 行きずりの、大工仕事などしたこともない遍路たちが手伝い、ようやくほとんど完成したので浅井さんは再び歩き始めたのだそうです。
 ぼくは国道を通ってしまったので、そんなことは何も知らずに通り過ぎてしまったのでした。
 彼は、松尾峠に来るまで宿に泊まっていたのですが、現場を去るときにテントをもらい、托鉢遍路さんに托鉢の仕方を伝授してもらって、今では自費と托鉢を併用しているんだそうです。 八十八ヶ所打ち終ったらどうするんですかと聞いてみたら、
「わかんない」
とのことでした。
うーむ、ほんとそんなのばっか。

彼と、彼女と、もう一人居合わせた若い歩き遍路さんに、昨日もらったお菓子をわしづかみにしておすそ分けして、次の寺に行きました。

 50番繁多寺では境内から見下ろす松山の町並みを描いたのですが、ここで先程お菓子をおすそ分けしたもう一人の若い遍路さんと話をする機会がありました。
 彼はわたしと同じ27歳、同様にここまで野宿で来ているそうです。
「ぼくは地元が今治なんですけど、仕事が続かなくて。何か一つのことをやり遂げたってことがないんで、遍路に出てみたんですよ」
ということで、彼も「今時の若い遍路さん」の典型でした。
ぼくの雑な絵を見て
「うまいなあ。いいですねえ、絵が描けるって。ぼくも下書きはいいって言われるんですけど、色を塗ると真っ黒になっちゃうんですよ」
と言うので、
「ふうん、じゃあ、色を塗らなければいいんじゃないですか?」
と言ってみたのですが。
 肩越しに見る他人の絵って、上手に見えるんですよね。そもそも、ぼくが絵に色をつけてるのは、黒だけだとごまかしがきかないからというのが本音の理由です。
 彼はぼくよりも気弱で自信なさそうなタイプに見えたので、今度改めてじっくり弱音を聞く機会があれば面白いと思いました(優越感にひたって安心したいのかな、俺って)。

 51番石手寺、ここで尾形君と待ち合わせです。
 予定より早く着いたのですが、ぼくより進んでいたのに日程を合わせてくれた彼は、ぼくより先に来ておりました。
 この石手寺は、由緒ある札所のくせに『珍日本紀行』にも載っているおかしな寺です。
 特に「地底マントラ」は、大日如来だの何だのがある地下トンネルをくぐって行くモノなのですが、
「手摺りかと思って手をつくと、それが地蔵の列であることに気づき、ギョッとする」
と都築氏も書いている、そんなところでした。
 マントラとか、曼陀羅とか、おどろおどろしい世界をトンネルの中に繰り広げようとしているらしいのですが、その手摺り地蔵には毛糸の帽子がかぶせてあるし(それも首まですっぽり。お地蔵さん窒息。せめて目出し帽にしてあげてほしい)、薄暗くトンネルを照らしてるのは、喫茶店の玄関にあるような西洋ランプだし、なーんか、ちぐはぐ。
 トンネルを抜けると裏山の細道に出て、ぽーんと放り出された感じ。道の土手には、ペンキでど派手に塗りたくった稚拙なインドの神々の像がちらかっています。
落書き大師
落書き大師

 道の奥には、両側に宗教画風な絵が雨ざらしとなって立ち並んでおり、高野山大学の学園祭の翌日の風景はかくあらん、という感じです。
 実際、以前に「マントラ大祭」だかを催したらしく、これらはそのときの名残のようでした。
 また大師堂の裏には「落書き大師」と称してホワイトボードが貼られているという、 まったく何を考えているのかわかりません。
いずれにしても、ここの住職は最低なセンスの持ち主です。
 
 一応宝物殿にも入りました。展示物は、寺の僧に退治された大蛇の頭骨とか、観音様のお面だとか、昔の経典だとか。
 展示物自体はどれも古くて汚くてなんだかよくわからないものばかりでしたが、四国遍路についての解説文には、いたく心を動かされました。
“遍路とは何か”。
これは、ぼくの頭に常にちらついているテーマなのですが、その解説文は
「四国遍路は再生の場である」
と言っておりました。

「弘法大師は18歳で四国を放浪した。
それは大学の出世に敗れ、仕官先を失い親孝行に背くという、絶望の中での家出に近かった。
大師にとって四国は人生の絶望から立ち直る再生の場であった。
 四国遍路は再生の場である。人生に疲れたとき、押し出されたとき、四国の自然と人々に安らぎ、再生していく場所である。
遍路人は修行者であったり、脱落者であったり、怠惰者であったりする。しかしそれは一向に構わない。
人々にとって遍路は弘法大師であり、衛門三郎の再来であり、真摯に生きようとする仏性そのものだからである。
 遍路は安らぎの円環である。苦しい人はいつまでも八十八ヶ所を廻ることができる。
元気が出た人は円環から抜け出て生活へと戻って行く。
 遍路の環は、生と死、絶望と希望、蔑視と尊敬をつなぐ環なのである」

 空海自身が世の中に負け、京を逃れてやってきたのが四国だったわけです。ということは、勉強や仕事に負け、四国遍路に出るイマドキの若者は、それこそ空海と同じ道、すなわち遍路の正道を歩いているといえるのではありますまいか。
 もちろん、その環から戻って、空海のように運と実力で羽ばたけるかどうか、というのは別の問題ですけど。

 大鷹旅館は石手寺から歩いて10分のところにありました。荷物を置いて一服して、二人とも遍路衣装を着替えて松山観光に乗り出しました。
 松山城に登り、大街道というアーケード街をそぞろ歩き、道後温泉、よく写真に出て来るあの風呂屋に行きました。
 本館は確かに「千と千尋の神隠し」の銭湯のモデルになったというだけあって、なかなか色っぽい建物なのですが、すぐ隣にはパーキング、すぐ後ろには高層ホテル群が立ち並び、古びた建物は他に全くなし。
 本館同様の温泉宿が軒を連ね、石畳をカラコロ下駄を鳴らして歩く浴衣の人々、という風景を想像していたぼくの期待は裏切られました。
 道後温泉本館は入浴と休憩だけで、宿泊はやっていないということも知りませんでした。
 大風呂に入ってすぐ帰るか、個室のついた風呂に入るかなどで料金が変わり、大風呂だけなら300円で、なまじな温泉施設より割安でした。
 浴場には「坊ちゃん泳ぐべからず」という札が貼ってあり、いい味出してました。
泉質は癖がなく、匂いも味も色もほとんどありませんでした。

 旅館に帰り、ビール2本を開けて料理を食いながら、尾形君と夜11時頃までおしゃべりが続きました。
 一人で歩き遍路をしていると、時々無性に人恋しくなるものです。それが一気に解消された夜でした。
 宿のサービスも料理も、正直言うとさほどではありませんでしたが、気の合った人とおしゃべりができてぐっすり眠れたことが最高でした。
(しおらしいこと書くねえ、俺って)

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