四国巡礼てくてく編(伊予3) 四国巡礼てくてく編(伊予3)

12月2日


 ぼくの寝相がどうだったかは別として、尾形君は鼾も寝言も歯軋りもなく静かに寝る人だったので、ぼくはぐっすり寝らせていただきました。
 道後温泉の前で別れ、ぼくは建物の絵を描いたあと、土産物街を歩いて家族に土産としてねだられていた《めしかご》を買いました。
 竹を編んだ蓋付のカゴで、布巾を敷いてごはんを入れておくとごはんがおいしく保存できるというものです。カゴだけだと味気無いので、中に《一六タルト》《ぼっちゃん団子》、それに不要になったTシャツとサルマタ(ともに未洗濯)を入れて送ってやりました。

 52番太山寺へは10kmほどの道のり。
「太山寺世界大戦・・・つまらね〜」
などと恥ずかしい独り言を言いながら、市街を通り抜けます。
 途中のスーパーであったかそうな下着の上下を買い、大阪のスポーツ店で見かけたシュラフのインナーを探してスポーツ店を覗き回りましたが、今時売られているのはスキー、スノボー用品ばかりでした。
 52番へ行く途中に53番円明寺があり、時間的に52番は間に合いそうになかったのでこの部分だけ逆打ちすることにしました。
 納経を済ませ、境内で例のごとく絵葉書を描いていると、おじいさんがやってきて
「宿が決まっていないなら泊まって行きなさい」
と声をかけてくれました。一も二もなく礼を言い、住所を聞いて、葉書を描き次第お邪魔することになりました。
 このおじいさんは澤谷さんといい、つい先月、夫婦そろって北海道からこちらに引っ越して来たばかりでした。
 夫婦で歩き遍路を何度か経験し、お大師様を慕って四国に引っ越して来たのだそうです。
 夢はどこかの大師堂の堂守になり、お遍路さんの接待をして暮らすことなのだそうですが、なかなか地元の人達との関係もあるので難しく、今はここ(遍路道から200mほど離れたアパートの3階)よりもいい家を探しているとのことでした。
先月引っ越して来てから遍路さんへの宿泊接待を始め、ぼくは5人目だそうです。
 宿泊者の寄せ書き帳を見たら、橋本さんのバスで一緒になった松井さんも先月下旬に泊まっておりました。彼は朝9時に澤谷さんのお宅にお邪魔し、そのまま泊まって行ったのだそうです。

 普通のお宅に泊まらせてもらうのは初めてでしたし、澤谷さんはかなり信心深い人のようでしたので、少々緊張しました。
 お遍路さんは、宿に着いたら杖を洗って床の間に立てるとか、いろいろ作法があるのです。
(夜寝る前にお経とか読まなきゃいかんのかな)
などと、いろいろ心配してしまいました(結局、ぼくはお経など読みませんでしたが)。

 お風呂にも入らせてもらい、パジャマも貸してもらい、晩ごはんもいただきました。晩ごはんのおかずはサバの煮付けでしたが、奥さんの分の魚がなかったのを見ると、急遽お邪魔したぼくのために、本来奥さんの分の魚をぼくにくれたようでした。
 ありがたい限りです。
 歳は離れていても遍路経験者同士だと話題はつきないもので、
「あそこのトンネルで霊に会ってね、リュックを引かれたよ」
「ほんとですかー」
「門前で茶碗置いて座ってる托鉢遍路、ああいうの見ててどう思う」
「うーん、難しい問題ですね」
などと、薩摩焼酎を呑みながら話が弾みました。
 厳密を期すなら、遍路中お酒を呑んではいけないことになっているので、アルコールを勧めてくれたおかげでぼくは少し気が楽になりました。

「道後温泉で一万で泊まったの。残念だなあ、他の宿で7000円で上げ膳据え膳のところがあったのに」
「一度宿坊に泊まりたい?まあ、宿坊と言っても、朝みんなでお経をあげるくらいで旅館と変わらないよ。夜なんか団体客が酒飲んで騒いでるし。カラオケがないくらいかなあ、旅館と違うのは。 まあ、別格札所ならそこまで崩れてないから、そっちに泊まるといいよ。65番三角寺の奥の院、仙竜寺なんかはお勧めだね。お寺も風情があって絵になるよ」
「次、54番延命寺に行く途中、鎌大師という大師堂があるからぜひ寄りなさい。ここの庵主さんはすばらしい人だから、いいお話が聞けるかもしれない」
などなど、いろいろ教えてくれました。

 その夜は奥さんが敷いてくれたふかふかの布団に寝ました。暑いくらい暖かかったです。二日続けて風呂&布団。ぜいたくだなあ。

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12月3日


 澤谷さん宅で朝ごはんとコーヒーを御馳走になり、52番太山寺へ。
 途中、若い女性の歩き遍路さんとすれ違いました。
 一人で歩いている女性の遍路は、遍路スタート当初に学生風の子を見たきりだったように記憶しているので、少し興味が湧きましたが、軽く会釈しただけで通り過ぎてしまいました。もし彼女がもっと美人だったら、無理やりにでも話しかけていたでしょうか。

 しかし、女性が歩き遍路するというのは、大変だと思います。もちろん身の危険などもあるでしょうが、何より女性だと立ち小便ができない。
 歩き遍路、特に野宿やってると、野小便は避けて通れません。男が道端でシャ〜とやっていても、見る人は
「行儀の悪い遍路さんやなあ」
だけで済みますが、女性が道端でしゃがんでたら、ドライバーのよそ見を招いて交通事故に結び付きかねません。
 それでも、実際は数が少なくとも女性の歩き野宿遍路さんはいるらしいので、彼女らは一体どうしているのでしょう。民家でトイレを借りてるのかな。

 太山寺は大きな本堂が立派でしたが、絵は参道沿いの民家を描くことにしました。恐らくはかつで遍路宿だったのではと思わせる佇まいですが、雨戸がみな閉っていたので恐らく無人でしょう。そんな家はよく見かけます。
 参道を二人連れのおばさんが、誰かの悪口をいいながらウォーキングしていました。本堂と山門の間を往復しているようですが、折り返して戻って来たときもまだ悪口を言っていたので、大したものです。悪口も、口を動かす分カロリーが消費されて、いいダイエットになるのでしょう。

 絵を描いていると、バス遍路のおばさんたちが毎度のごとく覗きに来ます。
「まー上手に描いてはる」
「いいわねえ、もろた人うれしいやろねえ」
「しっ、のぞいたらいかん、彼女に出すんやさかい」
「歩いてはるの。まー御利益あるわ、ちょっと触らせて(と言ってぼくの体に触る)」
「これ、こんなおばあちゃんに触られちゃ気持ち悪いなあ」
「じゃあ、握手させてえ」
「これでジュースでも買って」
「わたしも」
「わたしも」
…なんやかんやで、この寺で100円玉5個と缶コーヒー1本を稼ぎました。
しかし、絵を描きながら歩き遍路してるからって、その男の体に触るとどんな御利益があるというのでしょう。その辺、「おばちゃんの信仰意識」を観察・分析すると面白いかも知れない。分析しても理解できるかは別だけど。

 太山寺を出て、ぼちぼち歩く。天気も晴でいい気分。久万町は紅葉が終っていましたが、この辺では今が盛りなので、「まだ秋が残っていたか」とほっとします。

 やがて、瀬戸内海沿いの道となりました。すぐ近くに島々が見え、大きなタンカーが停まるとも進むとも知れず浮かんでいます。
(小便したいなー、どっかにトイレないかなー)
と思いながら歩いていると、道の対岸で、歩き遍路のおっさんと、地元のじいさんとが何やら立ち話をしているのに出くわしました。
 おっさん遍路がぼくに手招きするので何かしらんと行って見ると、
「君、この先生がすばらしいお話をしてくださるから聞きなさい」
とのこと。
 リュックを置いて家の中に入れとじいさんが言うので、ぼくはおっさん遍路と一緒に玄関に腰掛けました。じいさんは、昨夜澤谷さんが話していた鎌大師の庵主さんの大ファンのようでした。
「いいかね君、あの手束先生(庵主さんのこと)の「花へんろ」という本を買いなさい。涙無しでは読めんから」
その本は昨夜澤谷さんの家にあったのでぼくも半分ほど寝所の中で読んだのですが、恐らく泣き所は後半部分にあったのでしょう。
じいさん「手束先生はすばらしいことを言っておる。すべては“南無”じゃとな。真言宗では“南無大師遍照金剛”、日蓮宗では“南無妙法蓮華経”、浄土宗では“南無阿弥陀仏”、天理教でも“南無ナントカノ(忘れた)尊”、全てに“南無”が付くじゃろう」
おっさん遍路「その通りですねえ、その通りですねえ」
俺「(キリスト教には付かないけどなあ)」
じいさん「“な”は“私”。“む”は“無い”。おのれの欲を捨てて他人に尽くせよというありがたい言葉じゃ。わかるか、“な”“む”」
おっさん遍路「はあ、なるほどねえ、分かります分かります」
俺「(このじーさん面白い顔だなあ)」

このじいさんは熱心に何度も
「“な”“む”じゃぞ、“な”“む”」
を繰り返し、おっさん遍路はまるでタイコモチのようにあいづちを打っています。その隣りで僕が
(便所借りようかな、どうしようかな)
なんてことを考えていると、
じいさん「兄さん、あんたは遍路中、肉や魚を食べるか」
僕「はい、食べます」
じいさん「はい、ではいかん。遍路中くらい肉や魚を控えんといかん。昔はな、こういう格好をして遍路をした。云々」
と、今度は分厚い本を取り出して、それに載っている写真を見せて、説教臭い昔話を始めるのです。
 そんなこんなで1時間もじいさんにつきあわされたでしょうか。じいさんは暇があると道端に出、歩き遍路を捕まえて説教を垂らすのが生きがいのようでした。別れ際、ずっと目を真ん丸く見開いて
「“な”“む”」
を繰り返しておりました。
 おっさん遍路は別れ際ぼくに黒糖喉飴と新聞のコピーをくれました。読売新聞の札所特集の記事で、おっさんが歩き遍路として紹介されているのでした。
新聞に載ってうれしいのは分かるけど、そのコピーを配って歩くっちゅうのは恥ずかしくないかねえ。
 ぼくも写真集の自分の載ったページを、コピーして配りまくることになるのかしら。そこまで落ちたくないなあ。

 ということで、結局「なむ」じいさんの家ではトイレを借りず、しばらく歩いたコンビニで済ませました。昼飯はそこで買った、カップラーメンとメロンパン。

 しばらく歩いて、澤谷さんやなむじいさんのイチオシ、「鎌大師堂」にお参りしました。
 この鎌大師の庵主さんは、もとお茶や華道のお師匠さんで、遍路が好きで歩き遍路を何年かするうち、先代の堂守が亡くなった後、身の回りのもの全てを処分して庵主になったという人です。いろいろ著作も多く、それを読んで遍路に憧れるようになったという年配のファンも多いようです。
 もしその先生が境内で掃き掃除でもしていたら挨拶と立ち話でもしようかと思っていたのですが、庵主先生はどうやらお留守のようで、ぼくは本堂にお参りだけしてさっさと立ち去ってしまいました。

 鎌大師からの峠越えの道は、ミカン畑と瀬戸内の漁村が見渡せてなかなかの景色でした。
 その後「鬼瓦のまち」菊間町に入り、「かわら館」という展示施設があったので入ろうと思ったのですが、もう閉館間際だったので断念しました。
 たしかにこの町は道沿いに瓦工場が立ち並んでおりました。おそらく阪神大震災の時にはかなり景気がよかったんじゃないでしょうか。

 Aコープで20%引きの弁当を買い、近くの空き地でテントを張りました。土管やなんかが積んである、典型的な空き地です。
 一昨日松山の100円ショップで買った耳栓をつけると、すぐ近くの車道の騒音も気になりません。
 野宿遍路には必須のグッズではないでしょうか。いいもん買ったなあ。

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12月4日


 天気が崩れるとはラジオで聞いていたのですが、朝起きて耳栓を外してみると、外はざあざあと雨の音。動き出すのが面倒臭くて、テントの中で日記を書いたり地図を眺めたり菅笠を直したりしていたら、あっというまにお昼になってしまいました。
 ようやく日差しも出てきたので支度をしてのろのろ移動開始。少し歩くとトイレ水道の完備された公園があり、「なんだ、昨夜もう少し歩けばよかった」と思いましたが、これもいつものこと。
 昼飯はポプラという、愛媛ローカルのコンビニに入りました。今まで徳島、高知ではこのコンビニは見かけなかったので、たぶんかなりローカルなチェーンだと思います。
 このコンビニの特徴は、ポプラオリジナル弁当。トレーにパックされているのはおかずだけで、弁当を買うとその場でオカマからほかほかのごはんを盛ってくれるのです。まずいけどみそ汁もサービスでついてきました。
コンビニの店員さんと仲良くなれば、ごはん大盛りサービスなども可能なのに違いありません。こういうユニークなコンビニに会うのも、地域性が感じられていいものです。

 「鬼瓦のまち」菊間町の次は「タオルと造船のまち」大西町です。大西町や隣りの今治市はタオルの生産が盛んらしいです。菊間町には頭に瓦屋根をつけたヘンなキャラクターがおりましたが、こっちの町にも「たおるくん」とかいうキャラクターがいるに違いありません。

 歩きだすのが遅かったので、54番延命寺の納経は間に合いませんでした。今夜は寺の前の池のほとりの草地で寝ます。

12月5日


 朝一番でお参りした延命寺は、納経所一帯がお祭りの屋台のように品物が並んでおり、すこし楽しそうだったので、そこの絵を描きました。ここでまた、おばさん遍路さんから500円もらいました。
 納経所では、寺男さんがNTTの人と、農協の有線の工事のことでごたごた口論しておりました。

 次への途中、かまどやでめんたいこ弁当(400円)を食べ、55番南光坊に着いてお参りをすませた所で、手甲脚絆に身を固めた本格的なお遍路さんに会いました。
 彼は真言宗のお坊さんで、千葉県のお寺から修行に来ているとのことでした。いい人でしたが、よくしゃべる人でした。 
燃えるごみの納め札
燃えるごみの納め札

 南光坊では、大師堂の軒下にビニール袋がだかどかと置いてありました。何かしらんと見てみると、今治市の「燃えるゴミ」の袋に詰められた納め札や納経紙でした。
 毎日山のように箱に投じられる納め札の行く末については、前々から興味があったのですが、 こうも無造作に、しかも堂々と捨てられている現場を見ると、半ば予想していたこととは言え、がっかりします。せめて参拝客の見えないところで、せめて資源ゴミの袋に入れて出してほしいものです。
 そのゴミ袋の絵を描いていると、妙に厚化粧の派手なおばさんが、ミカン7個と錦の納め札をくれました。
 納め札は巡礼の回数によって白→緑→赤→銀→金→錦と色が変わって行き、錦札は100回以上廻った人が持つということになっているようです。もらった錦札には「87歳、273回記念」とありました。ほんと、狂ったように廻ってる人がいるもので。
 金札や錦札は、ありがたいものらしく、札所ではおばさんおじさんが札入れ箱の中に手をつっこんで
「金札ゲット!」
などとはしゃいでいる光景をよく目にします。
しかし私にとっては錦札をどうありがたがればいいのか今一つよく分からないので、もらっても困ります。
 しかし、ガイドブックの栞につかっていた金札がぼろくなってきた所だったので、ありがたく錦札を二代目の栞として使わせていただくことにしました。錦札は紙が裏張りされた布で出来ており丈夫なので、栞としてはもってこいです。
ありがたやありがたや。

 次の札所は56番泰山寺。建物を新築してる最中のお寺で、風情も面白みも何もありません。このへんは札所と札所の間隔が狭いので、「やっと着いたあ」という感慨もありません。損な寺です。
 まあ逆を言えば、風情も何もなくても、札所に入っていれば黙っていても客は来る訳で。いい商売です。

 次の札所57番泳福寺は打って変わってぼろっちいお寺で、特に便所は極め付けの素朴さでした。
もちろんぼっとん便所で、大便器の穴が広く、肥溜めの有り様が丸見え。扉にはカギも付いておらず、小便器は屋外に、なんの目隠しもなく据えられております。
 こんなぼろっちいお寺は、儲けを設備投資に回さず、何に使ってるんでしょうか。
 ここの本堂には、昭和8年のいざり車が奉納されておりました。こちらのいざり車は箱型のリヤカーみたいな形で、牽く(もしくは押す)ための把手がついており、鉄製の車輪も1対、ついていました。大きさは一輪車程度でした。
 しかしこれにしても、車椅子のように乗る者が車輪を回せるようにはできておらず、かといって手で地面をかいて進むとも思えません。結局誰かが押したり引っ張ったりして移動したのでしょう。
 どこかに、いまでもいざり車乗ってる人、いないかなあ。

 栄福寺を出たのは5時過ぎ。58番札所、仙遊寺は山の上にあるらしく、途中にはろくに店もありません。
 地図にはAコープが載っていたのですが、行ってみると休み。1km近くコースを逸れ、しがない個人商店でお菓子を買い、寺への登り口の下でテントを張りました。
 ピーナツチョコとバームロールの食い過ぎで、喉の奥が妙に酸っぱくて気持ち悪いです。

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12月6日


 明け方雨が降りました。幸いテントを畳む頃には上がりました。
 58番仙遊寺への坂道を登ると、途中に絶好な東屋がありました。世の中そんなもんだ。
 仁王門をくぐって、狭くて急な参道を登ります。
 道端に、近所の小学生が書いた立て札が並んでいます。
「地球を守ろう」
「ゆめ」
「獣医さんになりたい」
「なかよし」
「根性」
などと、てんで勝手な文句を下手な字で書きなぐっています。
そして本堂に登ると、
「四国八十八ヶ所の世界遺産指定への第一歩」
という看板が出ていました。
子供のたわごと看板にしたって、逆効果なだけじゃねえのかなあ。

 本堂の軒下に、デブな男の裸体彫刻が、でんと据えられておりました。仁王様とも思えんし、ボテロのイミテーションとも違う様子。脇に「空手協会入会案内所」の看板が出ていたので、大山倍達の銅像かなとも思いましたが、倍達ってこんなに太ってたかな。
 まあいいや、これくらいしか面白い物ないからと、それを絵にしていると、宿坊の方から作務衣姿でロマンスグレーのおじさんがやってきて、
「うまく描くなあ。なんでこれ描いてるの?」
「いやあ、なんかすごく変なんで面白いと思って」
「これ、僕が作ったんよ。モデルは教え子」
作者目の前にして作品を「変」呼ばわりしたうえ、葉書に「謎のデブ像」と添え書きしてしまったのを見られてしまって僕は冷や汗かきましたが、宿坊の二階でおじさんの作品展をしているということでのこのこ見に行きました。
 けっこう達者な彫刻や書などが並んでおりましたが、それよりもぼくはお寺の宿坊というものに初めて入ったので
「リッチな施設作ってやがんなあ」
ということばかり感心しておりました。

 仙遊寺を下り、約7km離れた59番国分寺へ。
 途中パン屋で買ったパン(ヤマザキじゃなくて、焼きたてのやつ)を、国分寺の通夜堂で食いながら日記を打っていると、手甲脚絆、草鞋に身を固めた若い坊さんが入ってきました。
「あ、いーなあこれ。通夜堂?ここの寺は歩き遍路に冷たい寺ってことで有名だったのになあ。 お、すげえ、布団もある。お、この流し最高。洗濯できるじゃん」
 見かけによらず、ずいぶんと軽いノリの坊さんで、いろいろお話をしました。
「ぼくの名前は三毒無明(さんどくむみょう)。勝手につけた名前だけどね。住所を聞かれたらこう答えることにしてるの。
“煩悩の世界 字苦悩の存在 番地貴方の心の中”。
若いのに偉いねえって言われたら、
“私はあなたより数万歳年上なんですよ、輪廻の分ね”
って答えるんだ。もちろん、相手を見てだけど」
もらった納め札にもそのとおり書いてあるから呆れました。

 彼はいわゆる私度僧というやつで、どこの宗派にも属しておらず、「師匠」について修行(?)したという、不思議な坊さんです。たぶん仏教界からは正式な僧侶とは認められないのではないのでしょうか。今回で遍路は4回目だそうですが、

「ほんとは来たくはなかったんですけどね、義理ができちゃったんで。四国遍路なんて、あんまりするもんじゃないよ、遍路の垢が付く。わかるでしょう、お接待に頼る意識。
 四国じゃにわか遍路も乞食遍路も托鉢僧も一緒くたで「遍路」だから、プロの人達は四国に来ると『あちゃー』と思って二度と来ないね。
 本土の方だと、お接待とかお遍路なんて文化はないから、托鉢するにしても自分の中身が問われて、それが結果に反映してくるわけよ。断られたり訪問販売と間違われることもあるけど、そのかわり、お布施が出るとなると大きいよ。
 札所の門前でお椀置いて座り込んでる奴、あれは托鉢じゃない、ただの乞食だね。本人は『瞑想してるんだ』って言うかもしれないけど、ホントの托鉢は立ってやらなきゃ。門口でやる托鉢よりも厳しいよ。
 乞食と修行僧の見分け方?うーん、たとえば1円と1000円を接待した時に、頭の下げ方の違う托鉢遍路は、乞食だね。
 今はまだ、昔の遍路の姿を見て覚えてるお年寄りが多いからお接待もあるけど、今はどんどん遍路の質が低下してる。それを見てる若い世代には、お接待の文化は根付かないだろう。だからこれから、いい加減な托鉢遍路は淘汰されてくと思うよ」

 それから無明さんは、ハードなアウトドアライフの話もしてくれました。

「金の使い方さえ無駄にしなければ、この日本、托鉢だけで食っていけるよ。ぼく、寝袋持ってないんですよ。この前、何にも荷物を持ってない遍路さんに会ってね、聞いたら段ボールと新聞紙で寝てるんだって。段ボールやなんかは店の裏なんかでいくらでももらえるでしょ。その手があったかと思って、寝袋は送り返しちゃった。
 食べ物はねえ、お地蔵さんやお墓にお供えしてあるお菓子や果物あるでしょ。ああいうのは基本的にいただく。それから、道端に飲みかけのジュースが捨ててあるでしょ。ああいうのも、新しければ口拭いて飲んじゃう。もちろん人が見てないところでだよ。
 それから、パンの耳ね。安く売ってくれるところも、ただでくれるところもあるけど。それから、自動精米機に糠が残ってるでしょ。その新しいやつを水で練って団子にして食えますよ。甘くておいしいよ、食べ過ぎると気分が悪くなるけどね。
 お金の使い方かあ。よくスーパーで、うどん3玉100円で売ってるでしょ。それと納豆も、3パックまとめて安く売ってることがある。あれ買って、うどんにお湯かけて、納豆かけて、味付けは納豆についてるタレや、刺し身コーナーにある醤油。ガリなんかあるといい具になるよね。これで、200円でお腹いっぱい食えますよ」

話を聞いていたら夕方になってしまったので、慌ててお寺に行って納経をしました。
 ここで描いた絵は「握手大師」。手を伸ばした真新しい大師像があり、看板に
「お大師様と握手をしてお願い事をしてください。願い事は一つです。お大師様も忙しいですから!」
とありました。手の部分はすでに黒くなっていて、次々と参拝客が握っていきます。寺の方もいろいろ考えるもんですねえ。

「ぼくはここに泊まってくよ。君も泊まりなよ」
と無明さんに言われて、ぼくも国分寺の通夜堂に泊まることにしました。
 ということで、今日は10kmちょっとしか歩いていません。  晩飯をどうしようかなと思ったら、車遍路のご夫婦がカセットコンロでカレーうどんを作ってくれました。さらにおむすびとおまんじゅうも分けてくれ、お腹一杯になりました。

 布団は幸い二組あり、無明さんと仲良く枕を並べて寝ながら話(僕は聞き役)をしていると、 尾形君から電話がかかってきました。
聞けば、石鎚山に登ったとのこと。彼はもうぼくよりずっと先に進んでいました。道後温泉で一緒になったとき、彼が石鎚に登るつもりだというので、登ったら様子を教えてくれとお願いしていたのです。
「ホントに登ったんですねえ」
「冗談だと思いました?」
聞けば、頂上付近は完全に凍っているとのことです。
徒歩での登山はバス停の河口(こうぐち)というところからで、ロープウェイ頂上駅まで3時間、そこから頂上まで1時間半とのことでした。
「ぼくも頂上まで登れたら絵葉書描いて送りますよ」
「このペースだと、もう顔会わすことないかもしれんねえ」
「お元気で」
 電話を終え、通夜堂に戻ると、おしゃべりを携帯電話で遮られた無明さんは頭から布団をかぶっており、
「もう寝る」
と言いました。
 明日、無明さんは6時ころ出立するというので、部屋の掃除はぼくがしておくということで決まりました。
「いや、6時に出ると言っても確約はできませんよ。意志弱いんで」
とのことでしたが。

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