Welcome to the twinkle plaza.

あんちゃんの旅TOP バックナンバー


気仙沼漁港に架かる桟橋が壊れている。
直すのか撤去するのか?あれから約2年経過

2013年 1月23日(水)No.91号


『 必死に働く姿は“カッコイイ” 』



東日本大震災後、放射線量の影響があった場所の復興は数十年単位になると思われるが、それ以外の所に付いて復興が進んでいるのか、地震・津波等で影響があった気仙沼漁港の状況を見に行った。

2013年1月23日(水)朝7時16分東京駅発はやて101号に乗込み一ノ関に向かい、一ノ関で大船渡線・気仙沼行きに乗込んだ。予定通り11時前に着き、駅前にある観光案内所へ行った。そこで地図を受取り気仙沼市魚市場に向け歩き始めた。駅周辺では観光客に交じって地元の方も往来していたが、歩き始めるとすぐにひとけが無く寂しい町になった。20分位歩くと気仙沼湾が見えてきたが、外を歩く人はほとんどいない。


(左)町の中は、ゴーストタウンとなっている。
信号機だけは何も無かったかのように動いている。

(右)津波に押され曲がった、港町ブルースの歌碑。

港ふれあい公園に着くと、そこには森進一が歌った港町ブルースの歌碑が少し斜めになったまま建っている。そこから大島に行くカーフェリーの発着所が、二つあるが一つは津波で壊され、もう一つで運行が行なわれている。壊れた桟橋は半分沈んでおり、早く撤去をすれば良いのにと思うが、順番があるのかもしれない。

気仙沼市の沿岸部分では地盤沈下が70cmあり、大潮で満潮時には海水が陸地に入り込んで来る。車が通れるように、道路は1mかさ上げをしてあるが、住宅地は海水が下水道から流れ込んで来るので住めない。

沿岸部に住んでいた方々は、高台にある学校及び公園に建てられた仮設住宅に住んでいる。いつ頃戻れるのかと聞いたら、土地を6mかさ上げが前提で、全体の計画書が出来て、結論が出るのが平成27年度中、移動はその後になる模様。何でそんなに時間がかかるのと、住民が市役所に聞いたが回答はないとの事、今のところ仮設住宅で暮らすしかない。


(左)津波に破壊された家は撤去され土台のみが残る
そこに、下水管から海水が流れ込んでいる為、臭い

(右)道路がかさ上げされているので建物が沈んで見える

仮設住宅の家賃は不要であるが、その他は全額自己負担になるので、若い人は出稼ぎに行かないと暮らしていけない。その為町の中を歩いている人があまりいなく、ゴーストタウンである。時々見かけるのは現地を見学に来た観光客だけである。かさ上げされた道路はダンプカー等工事用車両のみが頻繁に動いている。現在工事が行なわれているのは、市営の立体駐車場解体、沿岸の修復及び防潮堤等で、残った民家や会社等は全体の計画書が出来ていない為、何も手が付けられていない。

しかしながら、目先の生活に一生懸命なのか開き直りなのか、住民は明るい。訪ねると、いろいろなお話をしてくれる、被害者意識があるかと思ったら、むしろ感謝の気持ちが強く感じた。住民からは暖かく迎えられ、来てくれてありがとう、との話が強く印象に残った。


(左)気仙沼市魚市場。

(右)市営立体駐車場解体現場

私に熱く語ってくれた、おじさんは家が津波で流され仮設住宅に住んでいる。現在77歳であるが、昼間は現場でダンプの誘導を行なっていて、決して高い給料をもらっているとは思えない。ホテルに戻りテレビでニュースを見ていたら、3月末に定年退職をする学校の先生が教え子の卒業式に出席しないで、早期退職したほうが150万円多いので2ヶ月早く退職をするとのニュースを放映していた、このギャップは何なのか。

1月26日(土)帰る前に、おじさんの現場に立ち寄ってみた。将来市の計画書が出来た時、家を建てる費用の一部にと一生懸命働いている。体に痛い所が無いので働くのだと言って頑張っていた。目的を持って必死に働いている姿は、作業服を着ていても素晴らしく格好良く見えた。

今回は復興で、自分に何が出来るのかを考えたくて訪問をしたが、教えて頂く事ばっかりで、改めて自分の人生を見直す事が多かった。復興には少し時間がかかりそうなので、再度訪問をしたい。

前回 次回 元に戻る・no117