C、[基地の沿革・歴史

1、
日本海軍が基地を建設

 米軍基地のある錦川の三角州、川下は江戸時代に農民が汗と泥にまみれて干拓した土地で1938年4月、旧日本海軍が宅地13,200u、耕地1,217,700uを買収して基地建設に着手し、1940年7月岩国海軍航空隊が発足しました。1943年9月には海軍兵学校岩国分校が開校しています。

2、
朝鮮戦争では岩国から直接出撃

 終戦直後1945年8月、旧日本海軍航空隊基地を接収して米海兵隊が進駐し、1946年には豪、印などの混成による英連邦空軍と米空軍が進駐してきました。
 1948年から49年にかけて、それまで東西に走っていた滑走路を現在のように南北に改修。 
 1950年の朝鮮戦争のさいには、米軍ジェット機が岩国基地から弾薬を積み込み,昼夜を分かたず直接出撃しました。1950年9月には、岩国市横山に米軍の中型爆撃機が墜落して市民3人が死亡し民家を焼失しました。その翌年の2月には米軍機が焼夷弾を市内に落とし、6月には英豪軍の小型ジェット機が錦見に墜落して山林を焼き、乗員1人が死亡。8月には爆撃機が柱島に500ポンド爆弾を6個落としています。

 
 1950年7月3日付け「岩国興風時報」は「九州に国籍不明の怪飛行機襲来、事態物騒につき、岩国市に来るかも知れず、よって市、市警察署関係者は3日昼、市役所で左のごとく対処策を決定した」「空襲警報はサイレン20秒10回吹鳴」と書いています。
 さらに9日付けには、灯火管制を決定したことが書かれており、本当に空襲を心配した様子が伝えられています。

3、
安保条約の締結、海兵隊の基地に

 1951年9月、旧日米安保条約が締結され、岩国基地は米空軍の基地となり、1952年から56年にかけて、基地拡張のために新たな土地接収が行なわれました。そのころ一時期、民間空港として使用されたこともあります。
 1954年末には海上自衛隊教育航空群が配備され、日米共同使用を開始しました。
 1955年7月から兵員2000人の米海軍基地になりましたが、翌56年7月、朝鮮から第一海兵航空師団が引き揚げてきた頃には6000人となり、同年米海軍第6艦隊航空大隊が配備されました。
 1958年1月、米海兵隊岩国航空施設となり、3月A4Dスカイホークが配備され、61年には空母ミッドウェーとレインジャー号が入港しそれに反対する大集会が開かれました。
 岩国基地が米海兵隊岩国航空基地となったのは1962年でした。65年には、水爆搭載機を沖縄近海に水没させた空母タイコンデイロが入港し、65年にはアメリカが北爆を開始した8月、岩国から多くの将兵がベトナムに出撃しました。

4、ベトナム戦争の出撃拠点

の翌年の66年、海軍の対戦哨戒機P3Aオライオンが9機配備されました。1972年4月、岩国の第1飛行大隊が南ベトナムのチュライヘ、第15飛行大隊がダナンに出撃し北爆に参加しました。
 これらの部隊は、ベトナム和平協定の成立によって73年12月までにすべて引き上げが了しました。

この間71年、岩国の第一海兵航空師団と沖縄の第3海兵師団は、第3水陸両用軍を編成し、海兵隊の再編強化が進められました。当時の海兵隊総司令官チャップマンは「アジアにいかなる地域に、いつでも対応できる」と、誇らしげに言明しました。

73年、岩国基地の弾薬庫地帯に核兵器組み立て作業所が建設され、核兵器専門部隊、海兵第一航空兵器部隊(MWWU-1)が移駐してきました。