コーヒーブレーク「ハッカーズ」 (00.3.29 / 追記 02.1.15 / 追記 02.3.6)


新聞などで、スキューバのタンクを「酸素ボンベ」と間違える例は今でも後を絶ちません。あれがただの圧縮空気であることは、結局ダイバーくらいしか知らないことで、一般常識にはとうていならないだろうと、私などいちいち目くじらを立てることは、もうしなくなってしまいました。

でも、このところネットワークにかかわる犯罪が増えてきたせいでしょうか、「ハッカー」という呼称の誤用がテレビ、新聞、雑誌で横行するのは目に余るものがあります。以前もとりあげましたが、他人のコンピューターに侵入して悪さをするプログラマーは、クラッカー、侵入者と呼んで、敬意を込めて用いる「ハッカー」とは峻別するのが真のプログラマーのコミュニティにおける伝統です。といっても、私はべつにプログラマーでもなんでもないので、「おまえが腹を立てるこたあ、ねえだろ」という声も聞こえてきますね。しかし、果たして、そういう問題かどうか?

もちろん、クラッカー行為をする人間にもそれなりのプログラムの知識があることでしょう。そもそも、そういう人間をハッカーとメディアが呼ぶようになったのは、彼らが僭越にも自らを「ハッカー」と自称し、それを無知なメディアがコピーしたため、と言われています。これってどういうことか譬えて言うと、暴走族が自分たちを「GPライダー」と言ったら、GPが何か分からないままメディアがそれに倣った、ということと同じですよね。怒るのは真のGPライダーばかりか、私たちモーターサイクリストも黙過できないでしょう。

こういう誤用もきっと、ハッカーとはどういう人で、何をやった人なのか、パソコン初心者には見えなかったせいもあるんでしょうね。いったい、私たちはそのハッカーに何か負っているものがあるのか。これまでは、それがはっきりと見えにくかった。いま、インターネットのおかげで、それとオープンソースのコミュニティの広がりの中で、ハッカーの活躍が直接世界を変えつつあるのを、目撃しようとしています。現に私が頼りにしているのも、巨大私企業のバグだらけのソフトではなく、多くはハッカーによるフリーのソフトです。タダであるからではなく、それが信頼できるものだからという単純な理由からですが。

コンピューターは世界を良い方向に変えることが出来る、これがハッカー達の信条でした。今でもそうでしょう。「Insanely Great! 」 (1994年)で知られる Steven Levy に「Hackers」(1984年) というベストセラーがあり、その邦訳(「ハッカーズ」工学社 1987年)もあることは知っていましたが、てっきりもう絶版とばかり思って、捜すこともしていませんでした。ところがなんと昨日、新宿の紀伊国屋書店に置かれているのを見つけて、すかさず買い求めました。かなり大部のものですが、そのテーマへのアプローチは以下のまえがきの一文がよく伝えています。

(共有し、開放し、分け与えることを旨とするハッカーの)この哲学は明文化こそされてはいないが、ハッカーの行動自体で表現されている。ぼくは読者のみなさんにコンピュータの魔力を知っただけでなく、みんなのためになるようにこの魔法を解放しようとした人たちがいることを知らせたい。

(古橋芳恵・松田信子訳)

この本の1983年の時点でのエピローグから、現実にはマッキントッシュ、オープンソース、インターネットといった新しいプロローグが始まることになります。

すこし残念なことに、この本は装丁が、つまり見てくれがよくありません。しかも、とても読みやすい訳出なのに、訳者の名前がカバーになく、奥付に小さく載っているのを見つけるのに苦労したほどです。ハッカーの概念を拡張すれば、「共有し、開放し、分け与える」優れた翻訳の努力に対しても、感謝を込めて「ハッカー」と呼ぶことができるでしょう。




追記(02.1.15):『あなたもハッカーになれる』

オープンソース文化の「伝道」者で、"The Cathedral and the Bazaar" (邦訳『伽藍とバザール』)の著者として知られるEric Raymond さんのホームページに "How to become a hacker" (邦訳『ハッカーになろう』)というエッセーがあります。ハッカーを目指す人はもちろん、コンピュータはどう利用されるべきかに関心のある方には、楽しい読み物です。なお、日本語訳は少し古いので、現行の英語版でアップデートされているところが抜けています。それは、プログラマーになるためには、英語を使えるようにというアドバイスで、「自分が英語を母国語とするアメリカ人なので、以前はこう主張するのは気が引けたものですが・・・」と、今は敢えて提言することにした理由を語っている箇所は、ぜひ英語のままでどうぞ。




追記(02.3.6):『Crypto』

いまからたった10年前までは、オーエスとか、エムエスドスという専門用語は一般の人々の会話の語彙にはありませんでした。私が使っていたマッキントッシュも、当時はOSという呼び方は使わず、System 6とか 7 とか呼んでいました。それが今や、マクドナルドでおしゃべりする若い女性たちの話題のなかに聞こえるのが、オーエスはウインドウズ98がどうのと、インテルのペンティアムがこうのと、隔世の感があります。

しかし、パソコンのOSごときは縁の下の力持ちのようなものであって、気づかれないでいるのが本来の姿だと思うんです。その上に建っているブラウザーとかお絵書きソフトなどの建造物が大切なのに、そのOSが話題になるのは、パソコンユーザーとは関係のない市場占有率と金もうけの道具にされてしまっているからのことであって、それによってパソコンのあり方ががどれだけ歪められているか、後世から見るとさぞかし呆れるばかりだろうと、今から「歴史」が見えています。

ある意味では、そのパソコンOSよりもはるかに重大な役割を演じているのに、その開発が一般に知られずに行われ、かつ人々のプライバシーを守るためにその身の危険さえ賭して研究が行われたのが暗号でした。このサイトのトップページのプライバシーポリシーで紹介しているPGPは、公開鍵方式の暗号プログラムですが、この公開鍵方式の暗号理論は、数百年に一度とも言われる大発見と見做されています。それまで国家の諜報機関のみが占有してきた暗号技術が、緩和策により人々の手の届くところに降りてきたのではなくて、逆にそれに取って代わる暗号理論として生まれました。

Steven Levyの『Crypto』(2001年)の邦訳(『暗号化 - プライバシーを救った反乱者たち』斉藤隆央訳 紀伊国屋書店)が先月出版されました。『Hackers』、『Insanely Great』それにこの『Crypto』と、Steven Levyは一貫して、コンピューターの魔法を人々のために使おうとした知性を追って来ました。かれらはいずれも、意図してか気づかずにか、世界を変えてしまった人たちでした。

しかしその革命は人目につかなかった。たとえば、すでに何億もの人々が、ホイット・ディフィーたちのことなど何も知らずにブラウザーやOSで暗号を使っていた。...ではなぜ、かつてディフィーが期待したように、もっと早くこの革命が起きなかったのだろう? それは、インターネットの時代に初めて必要となるものだったからだ。(p. 434)
OS と同様、暗号だって、その理論の詳細はパソコンユーザーには無縁です。それを意識すること無しに使えるのが理想ともいえるでしょう。しかしながら、公開鍵暗号がどのように生まれたのか、ヒューマンドラマに仕立てられた『Crypto』は、これまでの、どちらかというと理論偏重の暗号関連書の中では異彩を放って、読み物として楽しいものです。これでSteven Levyの「コンピュータ史三部作」が完結するのか、また新しいテーマを追求しているのか、ファンの私は楽しみです。




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