もうひとつの「農民一揆記念碑」― 小堀鞆音『田中正造墓碑のための肖像』 (2014.3.28)


田中正造(1841-1913)の死後、6カ所に分骨された墓所のひとつが、生誕の地である佐野市小中町にある。東屋のような小さな屋根と囲いで守られているその墓石に彫られた文字は、風化のためか、光の当たる角度が悪いせいか、柵の外からはその大きな題字「義人田中正造君碑」が読めるだけだ。それでも目を凝らすと、碑石には文字だけでなく、なにやら肖像らしきものが彫られているらしく、草鞋を履いた脚のラインだけがくっきりと浮かんでいる。

この生誕地墓所の、通りを挟んだ向かいには、田中正造の生家が記念館として公開されている。そこの展示のひとつに、この墓碑の拓本があった。 彫られていた文字は、肖像の詠んだ短歌を、正造が書いたとおりの筆跡のまま模写したものという。

冬ながら啼ねばならぬ 
 ほととぎす 
雲井の月の
 さだめなければ

雲井の月のさだめとは、おそらく天皇か、憲法の民権的解釈を指すのだろう。

農民一揆記念碑 この碑文は、やはり、画一的な活字体ではなく、自筆の文字であることで、いっそう正造の歌にこめた思いが生々しく伝わってくる。ただし、そこに書かれた漢字もかなも、今ではだれもが読める書体というわけではない。漢字の草書はともかく、かな文字も変体仮名、つまり異体文字、が使われているせいだ。<か>、<の>、<は>がそうだ。

余談になるが、変体仮名は古文書の世界とわたしたちは誤解しがちだが、じつは現在のようにひらがなの数が整理されたのは20世紀に入ってからのことで、主として学校教育と活字印刷によるものであって、正造の時代は変体仮名はぜんぜん「変体」でも「異体」でもなく、ふつうの平仮名だった。漱石の『坊っちゃん』は自筆原稿がそのまま出版されていて(集英社新書)目にすることできるが、漱石も当たり前のように、今でいう「変体仮名」を使っている。だから、上の拓本の短歌に見える「ハ」の字は、カタカナではなくて、れっきとしたひらがなである。

さらにこの拓本からは、実物の墓石ではまったく見えなくなっている肖像画が、石碑に刻む絵にしてはかなり繊細なものであることが見て取れる。蓑を着ている正造の姿らしいが、その藁の一本一本までがくっきり見える。この拓本は、いつ、誰がとったものか、添えられた説明文には記述がなかったが、これほど状態がいいのは、おそらくは墓碑を制作した直後のせいだろうか。いずれにしても、丁寧な作業であったことは想像できる。

けれど、拓本となった画像は白黒が逆転しているネガ画像だ。そこからは、なにやらひもじい老人が坐っている姿しか伝わって来ない。ネガということもあって、その表情もなんとなく暗く、険しそうだ。

いったい画家はどんな絵を描いたのだろう?

そこで思いついて、拓本の画像をPhotoshopでネガポジ反転させてみた。実際の写真のネガフィルムではないので、はたして見れるポジ画像になるか、あまり期待していなかったのだが、モニターに現れた反転画像を見て驚いた。拓本の闇から、いきなり正造がこの世によみがえったような興奮を覚えた。そうして、この画像をじっと見ていると、いったい画家は何を表現しようとしたのか、そこに込められたテーマに思いを馳せずにはいられない。

画家が正造にポーズをとってもらってスケッチを描いたという記録はないから、多分これは、1910年の利根川大洪水を視察したときに撮られた写真を参考にしたものだろう。その写真は、蓑を着た正造が、筆を手にして、洪水の被害状況を紙に書き込んでいるスナップ写真だ。そうして、画家の描いた正造は、足をくずして坐り、右手に筆、左手に巻いた紙を持っているのは写真からヒントを得たものだろうが、その目はまっすぐに遠く前方を見据える。とくにその両脚が力強く描かれていて、絵から受ける印象を決定づけている。

はて、このように、坐った姿でありながら、足をあらわにして、かつその足を重要な構成要素とした肖像画は、どこかで目にしたような気がする。そうだ、武士を描いた肖像画だ。いったい画家はどんな人物なんだろう?

画家の名は小堀鞆音(こぼりともと 1864-1931)。正造と同じ小中村の出身で、東京美術学校の教授を務め、とくに武者絵で知られた日本画家。名前は知らなかったが、ネットで画像を検索すると、どこかで見た記憶のある武者絵の作者だった。そうなのか ― 画家は、わたしたちがネガの拓本から想像しがちな「赤貧洗うがごとき」正造の、みすぼらしい姿を描いたのではなかったのだ。

小堀鞆音が描いたのは、鎧ではなく蓑を着た、刀と弓の替わりに筆と紙を持った、明治の武士だったのだ。

たんに、同郷の士ゆえの共感ではなくて、正造の自由民権の士としての生き様の中に、画家は今に生きる武士道を見たのではないか、とわたしは想像する。

現在、この田中正造の「武者絵」は小堀鞆音の作品リストに入っているものかどうか。たぶん、今までだれもこのように拓本からその原画を復元したことはなかったのだろう。この墓碑が建てられてほぼ百年。百年の後によみがえった明治の武者の肖像画は、正造個人の墓碑にとどまらず、渡良瀬川流域の農民の、敗北した農民一揆の記念碑でもあったことを知る。


 

【あとがき】 田中正造の生家を訪ねたのは3月1日のことでした。そこに所蔵されていたこの田中正造の墓碑の拓本から、画家が描いたであろう原画の復元画像を見たのは、おそらくわたしが最初だろうと思います。この画像はすぐに、正造の生家で説明してくれた老婦人と、そこへ案内してくれた栃木の友人に知らせたので、わたしたち3人が、百年の間「隠れていた」正造の姿をはじめて見た感激を共有できました。

なお、このポジ画像はネガから反転した後、トーンカーブを調整しています。地の汚れを目立たなくして、かつ文字と画像の濃度を上げることで、できるだけ原画の細部を再現しようとしました。

この碑文についてコラムに書いたときに、ネガポジ反転した画像もさりげなく添付しておきました。きっと、10年先、20年先には、このポジ画像が当たり前になって、それまで拓本のネガのままだったという事実も忘れられていることでしょうし、わたしたちの興奮も伝わることはないでしょう。

今回、あらためてエッセーで取り上げたのは、この肖像画そのものの価値と意味に気づいたからでした。たんに、ネガの拓本からポジに変換できたことが画期的なのではなくて、これは、デューラーのドイツ農民戦争記念碑と同様、小堀鞆音という画家が描いた、一揆で敗れた農民側にとっての記念碑だった ― そう思うのです。




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