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-63- (2015.1 - 2015.12 ) 


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 (2015/9/27) 
日本のいちばん短い日 

今年の夏に映画「日本のいちばん長い日」がリメークされて公開されましたが、私は見に行く余裕がありませんでした。が、こどものころ、この旧作を学校で見に行ったことを、その風変わりなタイトルとともに記憶しています。

印象に残った理由は、大きな疑問が残ったからでした。旧作か新作を見た方は、また見ていなくても、おおよそのストーリーをご存知と思いますが、無条件降伏受諾を天皇が肉声で臣民に伝える録音盤を、放送させまいとして、徹底抗戦派の軍の将校たちがレコードをぶんどろうと決起する話ですね。

疑問というのは、天皇って当時は「神聖にして侵すべからず」の絶対的存在かと思っていたのに、そうではなかったらしい、ということ。つまり皇軍とはいうものの、その中には平気で天皇に逆らう勢力があった、という事実がなにを意味するのか、分からなかった。

似た疑問は真珠湾攻撃の再現映画「トラ、トラ、トラ」を見たときにも残りました。奇襲攻撃は成功したけれど、最後のオチは、駐米大使がアメリカに宣戦布告を伝えたのが遅れた、というもの。宣戦布告と言っても、実際は外務省の日米交渉打ち切りの最後通牒であって、天皇の名での宣戦布告文書なんかではない。なぜだろう?

いったい、誰がいつどのようにアメリカとの開戦を決定したのか、その最高責任者が分からない。この映画、いわば「日本のいちばん短い日」。

「最後通牒」を届けるのが遅れて、「だまし討ちの真珠湾攻撃」となった原因を作ったとされる大使館の参事官、書記官は責任を問われるどころか、戦後は外務省の事務次官へと出世している。

どうやら戦争を遂行したのは、明治憲法下の法治国家ではなくて、立憲国家の下に生まれた、超法規的な軍指導部だった。「法的安定性」はどうでもよかった。憲法の上に自分を置く人たちによって国が滅びかけた。

憲法とはなんのためにあるのか、池上彰が解説していたのを聞いて、なるほどと思いました ― 「憲法は政府の行為を縛り監視するためにある」。そういえば、アメリカの大統領が就任宣誓をするときは、かならず、

I <name> do solemnly swear (or affirm) that I will faithfully execute the office of President of the United States, and will to the best of my ability, preserve, protect, and defend the Constitution of the United States.
(Wikipediaより)

私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽して合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う(もしくは確約する)。
(日本語訳 ウィキペディアより)
と誓っています。

政権が、憲法の解釈を勝手に変更したり、憲法に反する法律を作ることは、自分を憲法の上に置くようなもの。今回の安保法案、まずは憲法違反なのかどうか、また憲法に違反するということがどういうことなのか、がまず問われます。政権が憲法に反することに走ること、それが「国の存立危機」のはじまり。



 (2015/8/15) 
終戦70年目の証言と「談話」 

いつもなら、あまりテレビのヒロシマ・ナガサキそして終戦の特集に期待しないでいた私ですが、今年の報道は例年に比べるといい番組が多かったように思います。とくに、いままで語られてこなかった事実や体験を初めてテレビの前で証言する人たちが、いちように90歳を越えていることに、70年経たないと分からないこと、話せないことが、まだこんなにたくさんあるのか、と思い知らされます。

きっと、沖縄基地問題、安保法案、そして原発再稼働と、安倍政権の暴走ぶりに危機感を覚えたメディア人の中の良識派が、国民の間に広がるの反対運動に背中を押されて、とくべつの意気込みで番組の製作に取り組んだ結果ではないか、と想像しています。

その安倍総理大臣が前々から重大発表ででもあるかのごとく予告していた「戦後70年談話」が昨日読み上げられました。それを聴いていたら、ことばの選び方に作為性ばかりが耳につきました。しかも、「私たちは」「日本は」「我が国は」は何度も出てくるのに、「私は」は出てこない。動詞が主語を必要とする英語への翻訳でも、「I」が補われている動詞は、ざっと捜してみても、4つしか見つかりません。これが、「談話」とはいうものの、どこか責任感を感じさせない他人事のお話、という印象を与える理由なのでしょう。

ところで、2020年の東京オリンピックのロゴマーク。最初に発表されたとき、なんだかオリジナリティのないつまらんデザインだなあ、というのが第一印象でしたが、その後、ある劇場のロゴと似ている、というニュースがありました。似ているどころか、まんまぢゃない。盗作かどうか、著作権侵害かどうかの議論以前に、なによりオリジナリティを感じさせないデザインであることが最大の難点だと思います。

新国立競技場の問題といい、ロゴマークの盗作問題といい、どちらも決定・選定に当たった責任者が登場しない、そのプロセスや記録が公開されない、ということが共通しています。どこか、先の戦争に通じるところを感じ取ってしまいます。



 (2015/8/7) 
新国立工事費 ― コストがアップしたのではなくて、そもそもの見積り額が操作されていた 

当初予想の工事費1625億円が「資材コストの上昇のために」2520億円になる、と臆面も無く公表した下村博文文科相でしたが、見くびっていた国民の怒りが燎原の火に。

いままで、なんでこんなにずさんな見積もりだったのか、という疑問と疑念でニュースを聞いていたのですが、今日の毎日新聞は、なんとコストが上昇したのではなくて、そもそもの見積り1625億円がごまかしの減額予算だった、とすっぱ抜いています。

 JSCは昨年5月、基本設計を発表した。(中略)概算工事費は1625億円とした。
 関係者によると、昨年1月から本格化した基本設計の作業で、設計会社側は概算工事費を
約3000億円と試算した。
 しかし、JSCは「国家プロジェクトだから予算は後で何とかなる」と取り合わなかった。

『JSC:新国立工事費、「3000億円」設計会社提示無視』
毎日新聞 2015年08月07日 10時00分
費用を「後で何とかなる」と考える官僚感覚は、解釈は「後でどうにでもなる」余地満載の安保法案に通じる安倍政権カラーそのものか。


 (2015/7/22) 
新国立競技場も安保法案も原発も、みな根は同じ ― 責任中枢なき国家 

Yahoo! が ”「迷走」新国立競技場、責任はどこに” という特集を組んでいます。そこにアップされた主立ったニュースソースの中で、とりわけFNNの報道が急所を突いていました。

新国立競技場白紙撤回 責任の所在を探ります。
FNN 07/18 01:28
「関係者」の面々が、責任を「たらい回し」している事実が、映像からストレートに伝わってきます。なんと、新国立競技場建設の計画と予算を決めた関係者集団には、そもそも責任者がいないらしい。「関係者」とは言うものの、どうやら実態は、新国立競技場建設で甘い汁だけ吸おうという、ただの「利益享受」関係者だったのか、と読み取ることができます。だれが責任者なのか不明、関係者のだれも方針転換を言い出さず、だれも責任をとろうとしない無責任集団。そんな新国立競技場計画を「戦艦大和」になぞらえるのが、妙に現実味を帯びます。

福島第一原発の事故もまた同じ。国の存続に関わる大事故を引き起こしていながら、いまだ誰ひとり責任をとっていない。それのみか、事故原因の解明さえできていないのに、原発再稼働を進める安倍政権の姿勢は、先の戦争でミッドウェー海戦の大敗北の分析もせず、また総指揮官の責任も問わずにそのまま戦争を続けた73年前の日本軍の体質を、思い起こさせます。

そう見ると、安保法案も同じ。一見、安倍晋三首相が勝手に主導しているように見えますが、実態はどうでしょう。法案は国会で成立させることが目標なのだから、国会で決めることなら、賛成した個々の議員の責任は問われない。つまりは、これも責任をとる義務のない、無責任議員さんたちの「ニイタカヤマ、ミンナデノボレバコワクナイ」。



 (2015/4/29) 
ガレージのシャッターを破壊して盗み出す犯行 

No.5'255 CBX400Fさんは、自宅ガレージに保管していたところ、そのシャッターを破壊されて盗まれるという被害に遭われました。よほど念入りに計画しての犯行で、偏執的、というよりも変質者による犯行、という印象を拭えません。CBXに限らず、希少車が狙われるケースはこれからも増えることはあっても減ることはないでしょう。バイクの保管場所は、窃盗グループに知られているという前提で、自衛策だけでなく近隣住民との協力体制もはかりましょう。



 (2015/4/23) 
「スペードのクイーン」と二つの固定観念 

プーシキンの『スペードの女王』(Пиковая дама) は200年も前、活字印刷がメディアの中心であった時代に書かれました。今、メディアの中心がデジタル、つまりデジタルテキスト、動画、音声、そして通信ネットワークに移った時代に読むと、あらたに、プーシキンがこの作品にそっと埋め込んでいた秘密が見えてきます。メディアの発信側と視聴者との関係は、活字時代の著者と読者の関係にも似ています。この「スペードのクイーン」をメディア論として読むと、、、

本編はこちらでどうぞ。

==>> 『プーシキン「スペードの女王」の反語法』


 (2015/2/17) 
続・なんで今「中高年ライダー」の事故死件数が取りざたされる? ― ABS安全神話 

マスコミへの前流し情報のとおり、先月21日に自動二輪車にABS装備を義務づける省令が国交省より発表になりました。

二輪自動車への ABS(アンチロックブレーキシステム)の装備義務付け等に係る 関係法令の改正について
平成27年1月21日 国土交通省自動車局
義務化するにあたって、どういう理由付けをしているのか興味があったので、広報資料に目を通しました。がっかりしたのは、義務化の「背景」として
「交通事故死者数の削減のため」
というフレーズがあるだけでした。えーっ、たったこれだけ!

私のバイクは、古いモデルのせいもありますが、ABSは装備されてはいません。もしオプションで装着可能だとしても、わざわざ取り付けることはしないと思います。お金の問題よりも、故障や誤作動、メンテ性の低下になることと、ABSに頼らないとならないような走りを私はしないせいです。

もちろん、ABSが無用だとか、無駄だとか、言うつもりはありません。たぶん万が一のときには役立つことと思います。その意味では、これはバイク自体の性能や安全の向上ではなくて、四輪のエアバックみたいに、非常用装備でしかないと思っています。

というのも、ABSがもっとも必要とされるのは、高速での直進走行時のフルブレーキングだと思うからです。

サーキットを走行するライダーには、ABSはバイクの性能の一部のようなものになるでしょう。コーナー前のフルブレーキングの技術がもっともライダーに求められるからです。同様に、ドイツのアウトバーンのような高速(本当の意味の高速)道路では、走行レーン間の速度差が大きい。うっかり前の車を追い越そうとレーンを変更すると、後ろから速度差100キロで追突される危険性があります。だから、バイクが200キロで走っていれば一気に100キロまで減速しなければならないときがあります。

そういうヨーロッパでなぜABSの装着が義務化されたかというと、

その背景には2輪死亡事故の多発が社会問題化したことが挙げられ、
ドイツをはじめとする欧州諸国では早くから2輪用ABS義務化への
関心が高まっていました。
「バイクのABS義務化」は是か非か
THE PAGE 佐川健太郎 1月30日(金)19時18分配信
との指摘があります。ところが、昨年末に各新聞、NHKまでが広報に参加した、日本における「中高年ライダーの死亡事故倍増」について、いったいそれらがどのような事故だったのか、ABS装着車だったら死亡にまでは至らなかった可能性があるのかないのか、だれからも、どこからも、詳細の言及がありません。せめて、国交省の発表資料にはあるかと、期待していたのですが。

高速走行時以外で死亡事故につながりかねない事故、しかもABSで防げそうな事態って、ちょっと想像するに、右直事故かしら? 直進してくるバイクの前に右折車が道を塞ぎ、急制動で車輪ロックしたバイクが転倒、ライダーが投げ出され、車に激突・・・とか。

ただ、考えないとならないのは、私たちは教習所でみな急制動を訓練していること。限定解除の試験にも、もちろんありました。課題は時速40キロで急制動をかけて、11メートル以内で車輪ロックすることなく停止すること。ちなみに、11メートルとは時速40kmで1秒間に進む距離です。実際の状況にたとえると、11メートル先の危険に気づいて急ブレーキをかければ手前で止まることができるが、危険の察知が遅れると、11メートルを越えてしまう、ということ。

教習所ならともかく、実際の公道では、時速40キロとはずいぶんノロい速度です。40キロ制限はおもに住宅街、都内は幹線でも50キロが普通。60キロで走れるのは郊外の一般道くらいですが、実際は都内の交差点を60キロで通過するのは珍しくありません。では、60キロからの急制動って、どのくらいの距離で停止することになるのでしょう?

運動エネルギーは速度の二乗に比例するので、40キロ・11Mと同じGのかかる制動をかけたとすると、60キロでは制動距離は25M。ざっと2倍以上の距離が必要になります。交差点に60キロで進入しかけているバイクの25M先に右折車が立ちふさがったとき、ABSはたしかに命の恩人になるかも知れません。

それならば、「交通事故死者数の削減のため」というからには、そもそも自動二輪事故死の件数の中で、ABSがあったら助かっていたかも知れないケースがどれほどあったのか、ふつうは言及するはずと思うのです。

ネット上では、「バイクのABS義務化は是か非か」という議論が見受けられますが、おかしなことに、ABSで重大事故を免れたという事実の証言がほとんどありません(「転倒」ならあるかも)。さらに、自分は事故ったけれど、ABSを装着していれば事故にはならなかった、とABS装着を強く訴えるライダーもまったく見つかりません。まさか、天国から訴えている人ばかりとも思えません。

そう、だれもが、ABSは安全のために有効だから、という机上の議論で肯定しているのです。もちろんABSは安全補助装置ではあります。けれど、「安全」という錦の旗が掲げられると私たちはそこで思考停止するものだと、気づかされたばかりです。「安全神話」とは安全であると信じることでもありますが、それは原発に限った話。安全とは何なのか、危険とは何なのかを「考えなくなること」― それが安全神話だと思うのです。



 (2015/2/2) 
「バイク市場復活の兆し」キャンペーンの裏事情 その4(最終回)― 成熟社会のバイク需要とは

成熟社会では二輪需要も成熟安定している

自動二輪の新車販売は、一時の落ち込みからいくらか持ち直しの傾向が見られますが、それはとくべつに「市場の回復」と騒ぐほどのこともない単なる変動幅でしかありません。これからも、世界のどこかでバブルがはじける度に、日本もまた不況に見舞われて、新車販売も一時的に下降するでしょう。ひょっとしたら中国バブルやユーロ通貨危機ではなくて、この国のアベ・バブルが先にはじけることだってありえます。

それでも、自動二輪免許の新規取得者数、とくに大型二輪は大きな変動幅を見せません。しかも1997年以前は限定解除試験合格者が3万人程度だったのが、教習所での教習が始まると一挙に9万人に跳ね上がって、そのまま安定した数字となっています。つまり、押さえ込まれていた潜在需要が一気に顔を出したことになります。突如として日本に大型バイクの市場が現れた、とも言えます。これで思い出すのが、DVD再生機能を持たせたプレステ2の登場。発売時に一気に200万(と記憶するが)台が売れたことで、DVDムービーの巨大市場が出現しました。まだDVD化された映画が少なかった中で、発売されたばかりの「マトリックス」がずいぶんと売れたことは記憶に新しい。ハーレーはさしずめマトリックスというところか。

この安定した二輪需要は、ETC装着数にも見て取れます。図8は2014年3月末までの二輪ETC装着台数の推移です。(ORSE「平成26年版 ETC便覧」の統計から作成) 21年度まで毎年増加して累計26万に達したあと、一段落ついた様子でその後は変動はあるものの新規セットアップ数は安定しています。


このグラフから2つのことが読み取れます。ひとつは、二輪ETCの「初期導入ユーザー数」をかつて私は20万と予測しましたが、それがぴったり予測どおりになったこと。それは、私が計算の根拠とした事実と仮定が正しかったことを裏付けています。どうしてこんな自慢めいたことを敢えて持ち出すかと言うと、実はORSEも、従ってメーカーも、いったい二輪ETCの需要がどれほどあるものか、事前に予測できていなかったフシがあります。そこで、私がでしゃばって、20万という数字を、その論拠とともに、提示したわけです。

もうひとつは、「初期導入ユーザー」にETCが行き渡ったあとでも、毎年7万前後という新規セットアップがあること。これは私の予想からはずれた。20万に達したあとは、毎年の新規装着はそれほど多くはなく、累計は漸増となって、せいぜい50万台くらいに収まっていくのではないか、と想像していました。この「新規セットアップ」は「再セットアップ」つまり、車載器を別のバイクに乗せ替えたり、バイクのオーナーが変わることでの登録変更を含まないので、車載器が搭載されたバイクの累計台数にかなり近いと思われます。おそらくは、新車で購入する際に、とくに大型バイクにETCを装着する率も高いのでしょう。

以上のふたつが示すことは、バイクの楽しみ方の大きな要素がツーリングだ、ということ。それは成熟社会であれば当然のことだけれど、バイクは若い人が乗り回して事故るもの、と思い込んでいる校長先生の理解を越えます。バイクのニュース種はやはり事故なので、マスコミ記者も最近は「中高年ライダー」の事故統計のネタに飛びついています。社会は成熟しても、それを映す鏡のはずのマスコミ記者の頭は、<若者=遊び、中年=仕事、熟年=遊び復帰>という図式から脱皮できない未熟のままかも。

ツーリングが目的ならば、ツーリング仕様のバイクが求められます。つまり、荷物を収容できるツアラー。私のバイクにはパニアケース(横にあまり張り出さない「シティーケース」)が付いていて、これに雨具も防寒着も、温泉入浴のためのタオルや着替えも入ります。しかも、すり抜けに支障がない。いちどパニアケースに慣れると、もう二度とパニアケースなしのバイクに乗ろうとは思いません。かつて日本のバイクデザインは、後部をテールカウルと長いマフラーで演出してきました。そろそろ、パニアケースの似合うバイクを二輪デザイナーに期待したいところです。

400ccというガラパゴス排気量カテゴリーが足かせに

大型二輪免許が教習所でとれるようになって、大型バイクが売れるようになった反面、売れなくなったのが400ccバイク。その昔、日本市場での上限排気量を750ccとしたとき、中型限定免許の上限排気量として400ccを設定しました。しかも、400という数字に合理的根拠はなかった。それでも、80年代の高度成長期は400ccバイク市場は活況でした。私のCBXも、そんな高揚期の中で生まれました。400ccという土俵を与えられて、その中で各メーカーは競争し、ライダーの支持を競ったものです。ある意味、750ccがあってこその400ccでした。

ところが、750ccという制限と区分が消滅すると、400ccというカテゴリーも存在意味を失いました。それは日本の特殊な免許制度下でのガラパゴス排気量となりました。いくら日本で売れても、その排気量では海外に市場はない。本来なら、日本のライダーに支持された日本のバイクが、世界にも輸出され愛されることで、それがジャパニーズバイクとして誇れるものになるのでしょうが、海外市場向けに製造された大型バイクは、メーカーが日本のものであっても、日本のバイク乗りの文化の香りがどこか希薄です。図9は自動二輪のクラスの中で、400ccの販売割合を示します。(全国軽自動車協会連合会の400cc統計は2003年8月で途切れている)


この連載のきっかけとなった新聞記事に、経産省が「国を挙げて、バイクの競争力向上に不可欠な国内需要を増やしていく方針だ」とありましたが、400ccというガラパゴス区分では国内需要は増える余地がありません。話は逆で、それは国内需要を抑制しているばかりか、メーカーの負担にもなっていることでしょう。日本メーカーの製品ラインアップを見るとよく分かります。400ccクラスは主力モデルが1、2点あるのみで、まったく活気がない。その一方で大型バイクはリッターマシンが中心となっている。つまり、400-750ccの中間排気量区分にぽっかりと穴が開いてしまっているのです。HONDAだけが、ここに最新モデルを多数投入していますが。

排気量制限と免許制度は産業の育成にも、衰退にも、どちらにも作用します。かつて400ccクラスを育てた制度は、いまでは足かせとなってしまいました。もしも国策として二輪産業を支援する気があるなら、今後日本で育てるべき排気量を提示すべきでしょう。たとえば、中免(今の普通二輪)で乗れる排気量上限を750まで伸ばす、とか。

自動二輪だけでなく、原付二種(51-125cc)市場も免許制度次第です。もっと簡単に免許がとれるように教習制度を改正すれば、一気に市場が広がる。つまり、潜在需要があります。成熟社会とは固定した社会ではなくて、潜在する需要、未発見の市場が掘り起こされていく社会でもあります。

経産省がそこまで考えてバイクの競争力向上の旗を振っているのならともかく、マスコミがたんに都合のいい数字を選んで「バイク市場復活の兆し」とは、政権が振りまく景気回復の幻想を、後方支援しているだけの記事にすぎません。それだから、マスコミはトヨタという一企業が過去最高益を出したというニュースは伝えても、そのトヨタを支える3万社近い下請け企業も同様に利益を出しているかどうかまで、言及はしないのです。



 (2015/1/5) 
旅はまだ終わらない



あけましておめでとうございます





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