陸奥蘆名氏第15代当主。蘆名盛高の子。蘆名盛滋の弟。遠江守。陸奥国会津郡黒川城主。会津守護と称される。
永正2年(1505)に家臣同士の対立から父の盛高と兄の盛滋が不和になって戦ったときは盛高陣営に在ったようで、これに敗れた盛滋は伊達氏を頼って出羽国長井に落ち延びているが、盛舜は蘆名氏の本拠である会津黒川に残っている。なお、この父子抗争は翌年に和睦し、盛滋も黒川に戻っている。
永正14年(1517)4月に盛高が死去すると、嫡男である盛滋が家督を相続したが、その盛滋も永正18年(=大永元年:1521)2月に治世わずか4年で嗣子なく死没したため、盛舜が家督を継承した。
この直後の4月に松本大学と藤左衛門、ついで長沼実国がそれぞれ反抗の姿勢を露わにし、6月には近隣の有力国人である猪苗代盛光が黒川城の攻撃に及んでいるが、いずれも鎮圧している。いずれも代替わり直後で体制の不安定な時期を狙ったものと思われるが、その後に大きな反抗はなかったようである。
享禄元年(1528)9月、伊達稙宗が桃生郡石巻城の葛西氏を攻めるにあたっては、伊達氏に援軍を出している。また天文3年(1534)、岩城重隆が娘と伊達稙宗の子・晴宗との縁組を拒否して白川氏に嫁がせようとしたため、伊達氏と岩城氏の抗争が起こった。これに際して盛舜は二階堂氏や石川氏らとともに伊達氏に協力し、岩城・白川氏と戦った。
天文7年(1538)、遠江守に任じられた。
この頃より蘆名家中の中心は嫡子の盛氏が担うようになっていくが、天文17年(1548)8月には幕府将軍・足利義輝から御内書を下され、武力抗争を続けている伊達稙宗・晴宗父子の和睦の斡旋を要請されている。
天文22年(1553)8月21日に没した。享年64。法名は雲松院殿慶峯善通大禅定門。