肥後国阿蘇社の大宮司。宇治惟時とも称す。阿蘇惟国の子。
正慶2:元弘3年(1333)に阿蘇大宮司の職を子・惟直に譲る。
同年からの後醍醐天皇と鎌倉幕府の武力闘争(元弘の乱)において、当初は幕府軍として楠木正成の拠る河内国千早城を攻めていたが、同年4月末に足利尊氏が後醍醐天皇方として決起するとこれに応じ、六波羅探題への攻撃に従軍した。
その後も畿内に駐留して建武政権に出仕しており、建武2年(1335)に中先代の乱を鎮圧した尊氏が鎌倉に留まったまま建武政権から離脱して後醍醐天皇に叛くと、この征討軍の大将となった新田義貞に属して関東に出征し、箱根・竹ノ下の合戦などに従軍している。また、建武3:延元元年(1336)5月の湊川の合戦に際して後醍醐天皇が比叡山に移った際にも供奉しているが、同年中に帰国したようである。
しかしこの間、建武3:延元元年3月の筑前国多々良浜の合戦で子の惟直・惟成兄弟が敗死し、一族の坂梨孫熊丸が足利尊氏から大宮司職に任じられために阿蘇一族は北朝方(武家方)と南朝方(宮方)に分裂した。
しかし、一貫して南朝方であった娘婿の阿蘇(恵良)惟澄が康永元:興国3年(1342)に坂梨孫熊丸を討ち取り、同年6月には惟時が南朝から大宮司職を安堵されるとともに薩摩守護に任じられるなどの厚遇を受け、南朝より恃みとされていたことが窺えるが、康永2:興国4年(1343)5月には足利尊氏の勧誘に応じて北朝に与するなど、惟時は曖昧な態度を示し続けた。このためか、阿蘇に入部するとも目されていた征西将軍宮・懐良親王が貞和4:正平3年(1348)1月に肥後国に入国し、このときに惟時も拝謁を果たしたが、懐良親王は阿蘇ではなく菊池氏のもとに赴いている。
以後の動静は不詳であるが、貞和5:正平4年(1349)に懐良親王に帰順して南朝方となり、観応2:正平6年(1351)2月に惟澄の子である阿蘇惟村に大宮司職を譲ったとされる。
文和2:正平8年(1353)に死去した。