江戸通雅(えど・みちまさ) ?〜?

佐竹氏重臣。常陸国江戸氏。江戸通房の子か。江戸通長の弟。但馬守。道徹と号す。常陸国水戸城主。
佐竹氏の宿老であるが独立性が強く、延徳2年(1490)に佐竹氏当主・佐竹義治が没してその嫡男・義舜が佐竹氏の家督を継承すると、父祖の代より佐竹氏宗家に反発していた山入義藤・氏義父子ら(山入一揆)が挙兵して義舜を孫根城(別称:大山城)へと逐ったが、通雅は山入一揆陣営に加担して義舜陣営諸将の所領を押領して勢力を拡大した。
山入義藤が没したのちの明応2年(1493)、佐竹氏を後援する岩城親隆・常隆父子が義舜と山入一揆の和睦の斡旋に動き出すと、これに応じて山入一揆陣営より離脱し、翌明応3年(1494)8月には起請文を提出して岩城氏と婚姻を結ぶことを約している。
永正元年(1504)には勢力を回復した義舜が山入一揆を滅ぼすが、その後も佐竹氏とは和戦両様ともいえる距離を保ち、永正3年(1506)より始まる足利政氏高基父子の抗争(永正の乱)において、主家である佐竹氏が政氏陣営に与したのに対し、江戸氏は高基陣営に属している。
永正7年(1510)12月には子・通泰とともに『一家同位』として扱う旨の起請文を義舜より与えられ、被官の地位にありながらも佐竹一族と同格の地位を認められた。