原虎胤(はら・とらたね) 1497〜1564

武田家臣。虎種とも。原友胤の子。美濃守。武田信虎信玄の2代に仕えた。
虎胤の出自はもとは総州千葉氏の一族で、上総国臼井の小弓城主だった原氏の末裔だが、永正の頃に父・友胤と共に武田信虎を頼って随身した。
信玄誕生の頃には武田家中でも若手武将として活躍しており、信玄が自立した頃には老臣の地位に就いていた。
大永元年(1521)の甲斐国飯田河原の合戦で、今川氏の将・福島正成の軍勢を破るという功績を挙げる。
天文22年(1553)、武田家中で浄土宗と日蓮宗の法論があり、日蓮宗を信仰する虎胤が法度に背いて日蓮宗の寺を見舞ったことが知られ、改宗を迫られた虎胤はこれを拒否。武田家を出て北条氏康に仕えたが、北条家はこの無類の勇者を大歓迎した。しかしこの翌年(1554)、北条家と武田家の間に賀島の合戦が起こり、はからずも旧主や僚友と敵対することになったが、合戦場では「甲州は縁につながる故(戦いたくないので向かってくるな)」と大声で叫んだという。のち、再び武田家へと身を置くことになった。
信玄が剃髪したときにはこれに倣い、清岩と号した。
永禄4年(1561)の信越国境の割ヶ嶽城の攻略戦で負傷したため、同年9月の川中島の合戦:第4回には参陣できず、その3年後の永禄7年(1564)1月28日に68歳で没した。信玄は虎胤の死を悼み、大いに嘆息したという。
合戦に望むこと38度、受けた傷は53箇所とといい、通称を『甲斐の鬼美濃』、『夜叉美濃』と呼ばれて畏怖された猛将であるが、ある合戦の最中に傷ついて動けなくなっていた敵方の老将に肩を貸して敵陣まで送り届け、「元気な姿で再び合戦場で相まみえようぞ」といたわった逸話が残るなど、剛勇を誇るだけではなく、情けを知る武将でもあった。