吉川経家(きっかわ・つねいえ) 1547〜1581

毛利家臣。石見国福光城主・吉川経安の子。「毛利の両川」と称された吉川氏の分家筋にあたる。幼名は千熊丸。通称は小太郎。式部少輔と称す。
天正2年(1574)に父・経安のあとを継ぎ、吉川氏当主・吉川元春の麾下として名を馳せた。
天正8年(1580)5月、毛利氏の勢力下にあった因幡国鳥取城主の山名豊国は織田氏武将・羽柴秀吉に降ったが、依然として家老の中村春継・森下通与以下の城内の大勢は毛利氏になびいていており、同年9月に至って豊国が秀吉を頼って出奔したため、鳥取城は城主不在となった。
こうした事態から鳥取城兵は吉川元春に城将に相応しい人物の派遣を求め、その推薦を受けて天正9年(1581)3月18日に鳥取城に入部した。この入城にあたって経家は子息に遺言状を残し、決死の覚悟を決めて出立したという。
経家は鳥取城の攻防において鍵を握るのは兵糧だと見立てて入城後すぐに兵糧の調達に励んだが、同じ見解を持っていた秀吉が既に前年から因幡・伯耆国の米の買い占めや作毛を刈るなどして米の流通を減少させるという策を打っており、加えて天正9年7月より総軍2万といわれる大軍から厳重な包囲網を築かれて陸・海からの補給路を断たれたため、凄惨な籠城戦を余儀なくされた。
鳥取城では9月末頃には兵糧も尽きたようで、経家は自身の切腹と鳥取開城を条件に城兵の助命を願い出た。しかし秀吉は、経家は言わば雇われ城主であり一度は降った鳥取城が再び敵対することになったのは中村・森下らが原因であるとして、中村・森下こその処断を求めてこれを容れなかった。それでも経家は、自分こそが鳥取城の指揮者で、城兵たちは自分に従っただけと強く主張し、秀吉に先述の条件での開城を呑ませたのである(鳥取城の戦い)。
同年10月25日、鳥取城内の真教寺で自刃。享年35。法名は平等院前吏部寂輔空心大禅定門。秀吉からの、城兵を全て助命するとの誓書を確認したうえで自刃したという。