山名豊国(やまな・とよくに) 1548〜1626

因幡守護・山名豊定の三男。母は管領・細川高国の女。初名は元豊。中務少輔・従五位下。入道して禅高と号す。
永禄3年(1560)に父・豊定が没すると兄の豊数が跡を継いだので豊国は因幡国岩井城主となり、のちに但馬国八束に移った。しかし豊数が居城の鳥取城を家臣の武田高信らに奪われたために豊国がこれを討伐、城を奪回して自ら因幡守護の地位についた。
天正8年(1580)、中国地方に侵攻してきた織田家武将・羽柴秀吉に攻囲されて降伏、因幡国内に2郡を与えられたが国人に逐われ、但馬・摂津などに移った。のち但馬国村岡に移り、ついで上京して秀吉の御咄衆となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では徳川家康に供奉し、戦後に但馬国村岡6千7百石を給されて交代寄合として連歌・茶の湯の相手を務め、家康の没後は息・秀忠の御咄衆となった。
寛永3年(1626)4月に致仕、この年の10月7日に死去。79歳。