前田利大(まえだ・としおき) 1533?〜1605?

滝川益氏、あるいは滝川一益の子。名は利大だが、「慶次」や「慶次郎」の名の方が浸透している。宗兵衛・慶次(慶次郎)・利益・利治・利太とも呼ばれる。穀蔵院忽之斎と号す。戦国時代の『かぶき者』の代名詞。
前田利家の兄・利久の養子となり、永禄3年(1560)に尾張国の荒子城主となるべきところを織田信長の命によって利家に家督相続を譲り、浪人となる。
以後、拗ねた「かぶき者」として世を送り、天正11年(1583)に利久が客臣となって金沢城代になるに及んで、能登国松応村に僅かの知行を受けて利家に仕える。
天正13年(1585)に氷見阿屋城主・菊池武勝が前田氏に降ると城代となる。養父の死後は再び気ままな浪人となり、天正18年(1590)頃より、交友の厚かった直江兼続が属す上杉家の客将ともなった。
奇行を好み、ひょっと斎・咄然斎・不便斎・無苦庵と号した。茶や花に秀で、詩歌に長じ、兵法は群を抜くという、多様な才能の持ち主。
当時の気風には珍しい茶目っ気の多い武将で、数々の「悪戯」の逸話を残す。
晩年は大和国苅布に隠棲したという。慶長10年(1605)、73歳で大和国に没したともいうが、定かではない。