小笠原信嶺(おがさわら・のぶみね) 1547〜1598

信濃守護の小笠原氏の一流で、松尾小笠原氏を称す。信濃国伊那郡松尾城主。小笠原信貴の長男。妻は甲斐国武田氏・武田信廉の娘。
松尾小笠原氏は応永32年(1425)から信濃守護を務めた小笠原政康の流れを汲む小笠原氏の惣領家であったが、信嶺の祖父・貞忠の時代に府中(深志)小笠原氏との抗争で退勢を余儀なくされ、天文3年(1534)に至って没落して甲斐国の武田氏を頼った。
信嶺は元亀4年(=天正元年:1573)7月、武田領であった三河国長篠城が徳川軍の来襲を受けると、その援軍として出陣している。
天正3年(1575)6月下旬に伊那郡飯田城主の坂西氏が武田氏に叛くと、武田勝頼からその鎮圧を命じられてこれを果たし、翌月にはその功績を賞されて坂西氏の旧領を与えられている。
天正10年(1582)2月に織田氏が武田征伐に動くと、織田軍に降って信濃国侵攻を手引きした。これによって伊那郡の武田氏属城は連鎖的に瓦解している。
その後の高遠城攻撃(高遠城の戦い:その2)には案内者として織田軍の先陣に従軍している。しかし高遠城が陥落した3月2日、甲府に在った信嶺の母が自害している。信嶺が織田軍の先鋒となって高遠城を攻めたことが理由であろうか。
武田征伐後の3月20日、織田信長に出仕。しかし6月に本能寺の変が勃発して信長が横死すると信濃国に入り、信濃・甲斐国をめぐって徳川氏と北条氏が抗争すると徳川家康に属した。
天正11年(1583)には同じく伊那郡に所領を安堵されていた吉岡城主の下条頼安と抗争し、娘を頼安の妻とすることで和議を結んだが、翌天正12年(1584)1月に頼安が年始の挨拶に松尾城を訪れたところを捕えて殺害した。
天正18年(1590)、徳川氏の関東入部において武蔵国児玉郡1万石を与えられ、本庄城主となる。
慶長3年(1598)2月19日に死去した。墓所は本庄の開善寺。