大内弘世(おおうち・ひろよ) ?〜1380

大内弘幸の子。通称は孫太郎。周防権介・大内介。従五位上・修理大夫。周防・長門・石見守護。
南北朝時代の初期頃の大内氏一族は大内弘幸の父・大内重弘の弟で、鷲頭家を継いでいた大内(鷲頭)長弘が足利尊氏より周防守護に任じられて大内氏惣領の地位に在ったが、中央政権における足利尊氏と足利直義直冬との抗争(観応の擾乱)に際し、惣領権の奪還を企図して鷲頭氏へ対抗し、観応3(=文和元):正平7年(1352)2月頃までには直冬陣営に与した。
この鷲頭氏との抗争は、弘世が宇野氏や問田氏といった大内一族の多くから支持を得て優位に進め、文和3:正平9年(1354)頃には鷲頭氏を屈服させたようである。
この間、直冬との連携の関係から南朝に帰順し、隣国・長門国の守護で北朝方の厚東氏と文和4:正平10年(1355)頃より抗争を構え、延文3:正平13年(1358)1月に厚東氏を豊前国へと逐った。
貞治2:正平18年(1363)頃、2代将軍・足利義詮の腹心である細川頼之の調停を受けて幕府方に転じ、周防・長門の守護に任じられた。この翌年に弘世は上洛して将軍の義詮に謁し、莫大な銭貨と舶来品を献じたという。
貞治5:正平21年(1366)に石見守護に任じられ、同年7月には石見国に出陣して南朝勢力を平定。さらに安芸国に進んで勢力を扶植した。
応安4:建徳2年(1371)12月、前年に九州探題に任じられた今川了俊を支援して北九州に出陣、九州探題軍は翌年8月に九州経営の中心地となる大宰府を陥れたが、のちに了俊と不仲になった弘世は手勢を率いて帰国。永和元:天授元年(1375)、水島の陣での了俊の失策によって九州探題軍が戦況不利になった際、弘世は幕府からその救援を命じられているが、これを拒否している。
さらに弘世は前年7月頃より安芸国毛利氏の分裂抗争に乗じ、九州探題軍として出陣中であった毛利元春領へと侵攻していたこともあり、これらの行動を反幕的行為と見なされて永和2:天授2年(1376)4月頃に石見守護職を没収されたが、間もなく安芸・石見国から軍勢を撤退させたため、周防・長門国の守護職は安堵されている。
康暦2:天授6年(1380)11月15日に死没。法名は正寿院玄峰道階。