筒井順覚(つつい・じゅんかく) ?〜1434

大和国興福寺の衆徒で、一乗院に勤仕する官符衆徒。大和国添下郡筒井郷を本拠とした。筒井順弘(成身院)光宣筒井順永の父とされる。
生年は不詳であるが、至徳2:元中2年(1385)には『西大寺文書』に名が見え、至徳3:元中3年(1386)には古市胤賢らとともに官符衆徒の地位にあったことがわかる。
応永11年(1404)7月、同じく官符衆徒であった箸尾為妙と争い、幕府から調停の使者が派遣されたが解決せず、紛争は応永16年(1409)まで続いている。
正長元年(1428)11月に大和国で土一揆が蜂起すると、筒井勢が出動して鎮圧にあたっているが、これは順覚あるいは順覚の下知を受けた者であろう。しかし結果的には興福寺が徳政令を出すことで和睦している。
正長2年(=永享元年:1429)4月、前月に室町幕府6代将軍に就任した足利義教に謁し、翌永享2年(1430)8月には、将軍から興福寺領の摂津河上五ヶ関代官職を宛行われた。
大和国では正長2年より大和永享の乱と称される内乱が起こり、筒井氏は端緒となった井戸氏と頓所坊・豊田中坊の抗争に際して井戸氏に味方し、豊田中坊を支援する越智・箸尾氏と戦ったが、永享6年(1434)8月に越智氏との戦いで敗死した。