筒井順弘(つつい・じゅんこう) ?〜1443

大和国興福寺の官符衆徒筒井順覚の子。(成身院)光宣筒井順永の兄。
はじめ西大寺の僧であったが、永享6年(1434)8月に筒井氏惣領であった父・順覚が越智氏を攻めて敗死したことを受けて弟の光宣に擁立され、翌年4月に上洛して幕府から筒井氏惣領と認められて還俗した。
当時の大和国は大和永享の乱と称される筒井氏と越智・箸尾氏らを両極とする対立抗争の最中であり、この乱は永享11年(1439)春に筒井方を支援する幕府軍が越智・箸尾氏らを攻めて没落させたことによって終息したが、嘉吉元年(1441)6月の嘉吉の変で将軍・足利義教が討たれ、その後に義教によって更迭された者を以前の所職に戻すという恩赦の方針が打ち出されたことによって、越智氏をはじめとする敵対勢力が再び台頭してくるとその圧迫を受け、同年閏9月には筒井城を没落したうえに、光宣が相国寺の僧となっていた弟・筒井順永を擁立して背いたため更迭され、縁者の立野氏を頼って落ち延びた。
その後は越智・古市ら反筒井勢力や興福寺大乗院門主への復帰を目論む僧・経覚らと結んで光宣・順永陣営に抗戦し、嘉吉2年(1442)11月に眉間寺に光宣と戦って敗れるも、嘉吉3年(1443)1月には越智家栄の助力を得て筒井城に復帰した。
しかし翌2月の下旬には一族や縁者に背かれ、筒井城にて殺害された。