永禄9年(1566)10月、越後国の上杉謙信は越山して上野国に軍勢を進めた。相模国の北条氏康に従属した由良成繁・国繁父子の拠る新田金山城を攻めるためだったと思われる。しかし12月に至り、武蔵国方面への拠点として重要視していた厩橋城を預かる北条高広が北条・武田方へと通じ、さらには館林城主の足利長尾当長までもが北条氏に降ったため、上杉軍は後退を余儀なくされたのである(越山:その7)。
上杉軍はそれまで上野国の沼田から厩橋を経て関東平野へ出ていたが、厩橋が使えなくなったことで、新たな進軍路として沼田から桐生を経て下野国の佐野へと至る道程を用いるようになった。しかし、上杉勢の関東への進出を阻みたい北条氏は、この佐野にも圧迫を加えることになる。
佐野の唐沢山城(佐野城)主の佐野昌綱は、上杉氏と北条氏の勢力圏の狭間に在って、上杉勢が越山して来れば降り、上杉軍が去って北条勢が押し返してくるとこれに従うという、叛服常なしといった態度であった。そのためか、唐沢山城は永禄7年(1564)2月に上杉軍に攻められて降って上杉方に服属し(越山:その4)、のちには上杉氏が梃入れして大規模な普請を施すとともに上杉家臣が在番することとなり、上杉方の重要な戦略拠点として維持が図られていた。
唐沢山城はその後も北条勢から断続的に攻撃を受けており、永禄10年(1567)5月頃にも攻められているが撃退したようであり、謙信は6月に在城衆に対して感状を発して戦功を賞している。
この頃の城主は昌綱の嗣子・虎房丸であり、それを上杉氏家臣が補佐(実質的には運営)する体制が取られていたのであろう。昌綱は他の城(藤岡城か)へ移っていたようである。
この昌綱が、北条氏と結んで唐沢山城の奪還を企てたのである。謙信は8月に太田資正宛の書状で今月中に佐野へ出馬する旨を伝えているからその動きを察知したのはこのとき以前のことで、5月頃の攻防戦から未だ続いていた可能性もある。昌綱はおそらくは佐野氏家臣であろう、城内に内応者を作るとともに北条氏援軍の先鋒隊を迎えて唐沢山城を攻撃した。
謙信が実際に出陣したのは10月になってからで、10月24日に上野国沼田に至り、翌日には佐野へ向かうために北条方の勢力圏となっていた上野国の厩橋・新田、下野国の足利などを押し通ったという。
このとき佐野昌綱への援軍として出陣していた北条氏政が館林領の赤岩で船橋を架けて利根川を越えようとしていたため、上杉軍はこの船橋を切り落として北条勢を撃退し、援軍を断ったうえで攻城軍を攻撃して27日には鎮圧した。昌綱は藤岡城に、北条軍は武蔵国の岩付城に敗走した。
しかし謙信はこの後、奪還した唐沢山城を昌綱に預け、その代わりに虎房丸らを人質として預かり、唐沢山城に詰めていた在番衆らとともに帰国したという。唐沢山城の保持を断念しての事であろうか。
謙信は、越後国には12月21日に到着している。