信濃国に侵出し、更なる勢力の伸張を目論む甲斐国の武田信玄の鋭鋒は越後・信濃の国境に近い川中島方面へも向けられた。一方で天文22年(1553)に信濃国の諸将の要請を受けた越後国の上杉謙信も川中島を戦略上の要衝と捉えて出陣し、武田勢を駆逐するべく合戦に及んだのである(川中島の合戦:第1回)。
この合戦では明確な勝敗が決しないままに両陣営共に主力部隊を退かせたが、信玄はその後も北信濃へ侵攻の構えを示しており、善光寺周辺にもその影響力が浸透しつつあった。
その善光寺において大御堂と小御堂の両派による内訌が起こった。大御堂派は上杉謙信を、小御堂派は武田信玄を恃んだため、これが新たな火種となって武田・上杉の緊張はさらに高まることとなったのである。
さらに信玄は上杉氏の重臣で越後国北条城主・北条高広を甘言で誘い、謙信に対して叛旗を翻させることに成功した。天文23年(1554)12月のことである。
これを知った謙信は翌天文24年(=弘治元年:1555)2月に自ら出陣、北条城を包囲した。高広は信玄に救援を求めたが援兵は派遣されなかったために高広は謙信の軍門に降ることになったが、領地という外面のみならず、家臣という内面にまで及んできた信玄の影を払拭するため、再び信玄と戦う決意を固めたのである。
8千の軍勢を率いて同年7月に川中島に着陣した謙信は、善光寺の東に隣接する横山城(城山)に布陣した。この上杉方の出陣の目的は善光寺平の制圧、もしくはそれ以上に南進して武田勢力の伸張に楔を打ち込むためと目されている。
これに対して信玄は善光寺小御堂別当・栗田鶴寿の籠もる犀川北岸の旭山(朝日山)城に精鋭3千人に加えて鉄砲3百、弓8百の援兵を送って支援し、自身は犀川南の大塚に陣を張って上杉勢の南下を牽制した。
この信玄の牽制策に、謙信は葛山城を付城として旭山城を攻める構えを見せたため、双方が牽制し合うという構図となって戦線は膠着した。両軍共に攻めるに苦しく、退けば善光寺平を制圧されるという局面となり、どちらも動くに動けなかったのである。両軍の主力は犀川を隔てて対峙を続け、その間には数度の小競り合い程度の戦闘があったが、戦局に大きな進展もないままに対陣は続けられた。
この間に謙信は従軍した諸将に「何年に及ぼうとも対陣を続ける」という旨の誓紙の提出を求めており、信玄の方でも今川義元に和議の斡旋を依頼していたことから、双方共に苦しい対陣だったことが窺える。
結局は今川義元の斡旋によって「旭山城を破却すること、お互いに他領を侵略しないこと」という条件で双方が合意したことで和議が成立し、閏10月15日に両軍は陣を引き払うに至った。