川中島(かわなかじま)の合戦:第1回

信濃国葛尾城主・村上義清、中野城主・高梨政頼、井上城主・井上清政、須田城主・須田満親、長沼城主・島津忠直ら信濃国北部の諸将は、甲斐国の武田信玄の度重なる侵攻によって所領を蚕食され、かねてより越後国の上杉謙信に援けを求めていた。とくに高梨政頼は、妻が謙信の叔母にあたるという姻戚関係でもある。
天文22年(1553)4月9日には村上義清の葛尾城が陥落、この報を受けた謙信は5千の軍勢と北信諸将を率いて4月22日に信濃国へと出陣し、千曲川西岸の八幡宮付近に布陣して合戦に及んだ。このときの戦いでは上杉勢が武田勢を破り、葛尾城を奪還したのちに小県方面を攻撃して引きあげた。これが上杉と武田、最初の衝突であった。

この上杉勢の侵攻に対して信玄は全軍を退去させ、一旦帰国したのちの7月25日に5千の軍勢を率いて甲府を出陣。佐久方面から内山城・望月城を落としつつ侵攻し、8月1日には上杉・北信諸将連合の拠点となっていた和田城、4日には高鳥城、さらには内村城を攻撃して陥落させた。
8月5日には村上義清の拠城・塩田城も陥落し、義清は越後国に逃れた。義清逐電ののち、信玄は猛攻によって塩田平一帯に設けられた16ヶ所の要害を落として小県郡を奪還し、一挙に戦線を川中島南部にまで押し戻したのである。
この武田方の動きを見た上杉勢は8千の軍勢で川中島に向けて出陣し、8月下旬には布施、ついで9月1日には八幡で武田勢を破って東筑摩に進出し、荒砥城・虚空蔵城などを攻略。これに対する信玄は本陣とした塩田城に籠もり、小勢を繰り出しては放火させるなどして撹乱を謀り、直接の決戦を避けている。
謙信は上洛を間近に控えていたため深追いはせず、9月20日に陣を払って退去した。

これらの戦いに謙信自ら出陣したかということは不明とされているが、謙信と信玄という両雄が初めて対峙することとなったこの戦いは主として川中島南部の更埴の谷を中心にしたもので、主力同士の大きな衝突はなかったが、この後10年以上に亘って北信濃をめぐる争いを演じることになる。