島津忠直(しまづ・ただなお) ?〜1604

信濃国の国人領主。島津長忠の子。淡路守。昔忠・月下斎と称す。信濃国水内郡長沼城主。
この信濃国の島津氏は九州の一大勢力となった島津氏の祖・島津忠久の子(三男か)である島津忠直の流れを汲むとされ、その忠直の曽孫にあたる島津光忠が信濃国水内郡長沼郷の地頭職に補任されている。
他に信濃国に移住した島津氏として、神代郷・津野郷の地頭となった系統や赤沼郷地頭となった系統もある。
甲斐国の武田信玄が信濃国北部にまで勢力を伸ばしてくると、弘治3年(1557)頃に本貫地の長沼城から撤退して大倉城へと移ったが、のちには上杉謙信を頼って越後国に逃れた。
永禄4年(1561)の川中島の合戦(第4回)に、旧信濃国人衆の村上義清高梨政頼らとともに上杉勢の先陣として出陣したが、旧領への復帰は叶わなかった。
天正6年(1578)3月に上杉謙信が急死したことで勃発した上杉氏の内訌(御館の乱)には、子の義忠とともに上杉景勝方に与して戦功を挙げ、3度の感状を受けたという。
天正10年(1582)6月の本能寺の変ののちに上杉氏が信濃国川中島4郡を制圧すると、忠直は長沼城主に復帰し、慶長3年(1598)まで在城した。文禄3年(1594)時点において忠直の知行定納高は6千余石、軍役負担は371人。
慶長3年の上杉氏の陸奥国会津への移封に従い、岩瀬郡長沼城7000石の城代となった。また同年4月、嫡男の義忠を病気で亡くしたため、岩井信能の二男である利忠を養子に迎えている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役において上杉氏が出羽国米沢への移封になると、忠直もこれに従って米沢に移住した。
慶長9年(1604)8月1日死去。