甲斐国の武田信玄は、天文24年(=弘治元年:1555)7月より犀川を隔てて越後国の上杉謙信との対陣を続けていたが、閏10月に和議を結んで双方とも撤兵に及んだ(川中島の合戦:第2回)。しかし信玄は善光寺平(川中島)周辺の征圧を諦めたわけではなく、再び北進を企てたのである。
信玄はその布石として弘治2年(1556)8月に善光寺平の南方に位置する上杉方の雨飾城を攻略、さらには弘治3年(1557)2月、雪のために越後勢が出兵できないことを見越したうえで善光寺の北西にある葛山城を攻撃した。この葛山城とは先の対陣において上杉方が拠点のひとつとした城であり、城には落合一族が籠もって抵抗したが、信玄の調略によって内部から崩され、城主・落合備中守をはじめとして城兵がことごとく討死し、ついには落城した(葛山城の戦い)。
葛山城を抜いたことによって善光寺平制圧に大きく前進した武田勢は、その勢いに乗じて越後国との国境に近い飯山城を目指して進軍、城将の高梨政頼は上杉謙信に援軍を要請した。政頼の妻は謙信の叔母にあたる。
この急報を受けた謙信は軍勢を催し、4月18日に信濃国に出陣。3度目となる今回の合戦において、謙信は知人への書状に「いかんとも武略をめぐらし晴信(信玄)を引き出し、一戦を遂ぐべき覚悟に候」と、信玄と決戦する決意を述べており、5月10日には野沢温泉に近い小菅の元隆寺へ願文を捧げ、「義をもって不義を誅する」戦いであると勝利を祈念している。
上杉軍は武田方の山田城・福島城・香坂城(のちの海津城)などを攻略しつつ進軍し、5月21日に善光寺に着陣した。25日には先の対陣のときに武田方が拠点とし、その後の和議によって破却された旭山(朝日山)城を修築し、これに兵を入れて拠点としている。
これに対して信玄は上杉軍との直接対決を避け、善光寺平から軍勢を退かせると板垣信安らに命じて安曇郡の小谷を攻め、上杉勢の背後を衝く作戦に出た。この後に軍勢を善光寺平付近に戻したようであり、8月29日には水内郡の上野原で両軍が衝突しているが、主力部隊同士の激突ではなかったようである。
その後、戦況に大きな進展もないままに対陣が続けられたというが詳細は不明であり、謙信は9月上旬頃、信玄は10月上旬頃に帰国したと伝わる。