島津家臣・梅北国兼が中心となって起こした反乱。
天正20年(=文禄元年:1592)6月15日、梅北国兼らが文禄の役に出征するために薩摩国から肥前国に向かう際、謀計を用いて加藤清正の属城である肥後国葦北郡の佐敷城を奪取した。ここに国兼の呼びかけに同調した、または国兼の口上に乗せられた島津勢の他の小部隊、さらには佐敷の庄屋や町人・百姓らまでもが佐敷城に入城したために小勢力となり、翌16日には小西行長領の肥後国八代郡麦島城をも奪取しようとする動きさえ見せたのである。
この反乱は、加藤・小西は軍勢を率いて文禄の役に出征していたために国元の防備は手薄になっているうえ、両者とも天正15年(1587)の九州征伐ののちに入部した「占領軍的な」領主であること、さらには羽柴秀吉の号令による朝鮮への出兵など、支配体制への反発や不満を背景として国兼らが挙兵に及んだものとみられる。
しかし佐敷の留守居衆たちは17日の朝に陣中見舞いと称して城を訪ね、隙を見て国兼を殺害した。また、佐敷留守居衆らの要請を受けた相良氏の援軍や葦北郡の土豪らによって一揆の残党も討ち取られ、反乱はこの日のうちに鎮圧されたのである。
こののち、一揆参加者の中に家臣が多くいたという理由で、島津歳久が連座して自刃を命じられている。