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                               目次           
            「時は過ぎる、さらばジャンボ!」
           「本場のバーバーショップを見る」  
           「ヨーロッパ・アルプスのマッターホルンをイタリア側から見る」
           「イギリスの世界遺産・ストーンヘンジ」
           「航空エンジンの発達史」 「アンネ・フランクが住んだ街」
            「ソ連からロシアの時代」  「歴史が替わった日」
              「続:世界の旅シリーズ、ベニス」
            
「想い出の街・サンフランシスコ」
           
講演「私の航空人生」・資料
             「東京湾横断ヨットクルーズ」  「早春の八ヶ岳」
               「世界一美しいお城」  「ロマン溢れる航空の時代」

            「花と鳥の季節」       
            「キングス・シンガースの故郷を訪ねる」
          
  「日米貿易摩擦とナンセンスソング」
              
ザルツブルグの思い出  グランドキャニオンの思い出    
                    
涼しい写真        暑さを忘れる写真 
           チョーチョ島       モスクワの想い出






                               
                            
写真にクリックを当てると拡大します。    

 「時は過ぎる、さらばジャンボ!」   2016年11月14日   写真と文  境 孝彦

 
2次大戦後、急速に発達した国際間の民間航空ですが、長距離を飛べるのはプロペラ4発機のでした。
乗客は最大60名程度、ジェット時代のダグラスDC8やボーイング707が登場すると乗客も倍以上の150名は運べるようになりました。
飛行機雲を引いて飛ぶ 離陸するー400 モーゼスレークのー400
   飛行機雲を引いて飛ぶ    離陸するー400   モーゼスレークのー400 
 
この時代でも海外旅行をする人は限られていました。
これらのジェット旅客機は燃料消費が大きくて、日本からアメリカ東海岸やヨーロッパの主要都市までノンストップで飛べないので途中で着陸して給油する必要がありました。
飛行機の性能は一にも二にもエンジンの性能にかかっていて、大型のファン・エンジンが出来るようになると、
まず米軍が大型貨物輸送機の購入をメーカーに提示して、これにロッキードC−5ギャラクシーとボーイング747が応募し、米軍はロッキードC-5を採用することにしたのです。
  ジャンボのシミュレーター   ロッキードC5輸送機 ジャンボ貨物機の機首
 
競争に破れたボーイングは747を旅客機として設計し直すことにして、ダグラスDC8やボーイング707の倍以上の乗客を運べるジャンボ機が誕生したのです。
海外旅行が気楽に誰でも出来るようになったのはジャンボ機の功績でしょう。
 
ボーイング747はエンジンの性能向上に合わせて、−100、−200、−300、−400と大まかにタイプがあり、
−100、−200、−300までのジャンボ機は在来ジャンボ、クラシック・ジャンボなどと呼ばれ、乗員は機長、副操縦士、航空機関士の3名でしたが、
−400は航空機関士の仕事「燃料、与圧など」をコンピューターを使って出来るようになったので乗員は機長、副操縦士の2名のみで飛べるようになり
別名ハイテクジャンボとも呼ばれます。
 
  大きさが分かるジャンボのエンジン   −400の操縦席   クラシック・ジャンボの操縦席
外観は同じように見えても中身は全く別物、新旧ジャンボの操縦計器をよく見ればその違いが分かります。
−400は従来のアナログ計器からグラスコクピットと呼ばれる複合計器があるので、計器の数は少なくても計器の指示を見るために視線を左右に動かす必要がなく状況判断に要する時間が速くなりました。
クラシックジャンボとハイテクジャンボ機に20年間お世話になった小生ですが、
大型双発機「ボーイング777や787」の性能がジャンボと変わりないくらいに進歩すると燃料費や整備費で圧倒的に有利な双発大型機が長距離を飛ぶようになって、
旅客型のジャンボはJALが2011年3月に,ANAは2014年3月にすべて退役し、現在は日本貨物航空がジャンボの最新型である747−8を運航するのみです。
  ジャンボ貨物機の内部   シベリアを飛ぶ政府専用機   −400の2マンコクピット
 
日本の政府専用機も現在はー400を航空自衛隊が運用していますが、近い将来は双発のボーイング777に機種変更する予定で、時代は双発機が主流であることを示しています。
アメリカの大統領専用機は現在のジャンボ機が退役後は旅客最新型の747−8を購入するようです。
 
誕生して半世紀にわたり世界最大のスペックを誇ったジャンボ機も現在はヨーロッパ・エアバス社のA-380にその座を譲り、A-380はオールエコノミーだと最大800名の乗客を運べるようです。



「本場のバーバーショップを見る」               12'8/6
 
この記事をご覧の皆さんはタイトルの 「バーバーショップを見る」 とは????何だろう??と思われたことでしょう。
 
確かに日本では本格的な音楽教育を受けた方でも知名度が低いのが現実です。バーバーショップはプロ音楽家の世界ではないから、知名度が低いのも当然かもしれません。   
 
ところがアカペラ・ハーモニーに関心がある者にとってこんなに魅力がある音楽はありません。
 
それではまず、バーバーショップなるもののガイダンスから始めましょう。
 
バーバーショップとは文字どうり、床屋さんです。19世紀末の頃が発祥だと言われていますが、当時のアメリカでラジオも他に娯楽が少なかった時代の床屋さんは音楽好きの集会所でもあり、のど自慢が歌うと簡単なハーモニーを付けてコーラスが始まったのです。アメリカにはヨーロッパからの移民、奴隷としてアフリカから大陸に連れてこられた民族の音楽がミックスされてバーバーショップ・ハーモニーが生まれました。有名なミルス・ブラザースやGolde Gate Quartetはプロ歌手として売り出す前はバーバーショッパーでした。
 
時代は変わり、娯楽の種類が多種になるとバーバーショップ愛好者が減少する時期があり、アメリカ発祥の音楽を保存、発展させようと1938年にSPEBSQSA [Society for the Preservation and Encouragement of Barber Shop Quartet Singing in America] なる組織が誕生し、その後、愛好者が世界中に広まり、何よりも長ったらしい名前だったので最近になってBHS [Barbershop Harmony Society] という会員数が30000人の組織に生まれ変わりました。
 
そのBHSは7月4日のアメリカ独立記念日のある週に、北米の都市で大会を開くことにしており、2012年度はオレゴン州のポートランドで7月1日から7日まで朝から日によっては夜まで密度の濃い行事が組まれています。大会会場の良い席を予約するには前年から席を抑えないとダメと言われていたので、人気ぶりが分かります。どうしても見たい番組が1日に連続していると食事の時間がないくらいです。
 
大会中に3っのコンテストがあり、それらは「大学生のカルテット」、「一般カルテット」、「大人数でのコーラス」部門で世界中に分布する地区予選を勝ち抜いたグループがポートランドに集結するのです。世界中といっても広大なアメリカからの出場者が殆どで、州ごとではなく、州をまとめてDistrictに代表し、例えばSunshine Districtはフロリダ、Rocky Mountain Distirictはコロラド、ワイオミング、ニューメキシコ、ユタ、アイダホ、カンサス、モンタナ、ネブラスカの一部、Far Western Districtはカリフォルニア、アリゾナ、ネバダ、ハワイ・・・・・といった具合です。アメリカ以外ではカナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、北欧のスエーデンがBHSに所属国で、残念ながら日本はメンバー国ではありません。
   
1:ポートランドの街中心部にある広場、2:ポートランドと札幌は緯度が同じで姉妹都市
 
バーバーショップ・コンテストが始まる前にポートランドの街について説明しましょう。アメリカ西海岸にはシアトル、サンフランシスコ、ロスアンジェルスといった大都市があるので、初めて訪れたポートランドはこじんまりとした清潔な印象で大きな観光施設もなく、人々もフレンドリーでとても感じの良い街です。バラの栽培に適した土地で、実際「Rose City」が愛称となっています。Barbershop Conventionと呼ばれる大会はRose Garden Arinaという大きくて広いイベント会場とConvention Centerというこれも清潔で広大な建物の2つを使って行われ、日によっては2つの会場を徒歩で行き来することになります。
3:バーバーショップ歓迎幕 4:入場前に登録する 5:Registration会場
 
今年の大会では大学生部門のカルテットチャンピオンにスエーデンからLemon Squeezyが一般カルテット部門では今までの歴史にはなかった、初めてアメリカ以外の国からチャンピオンが誕生したのです。チャンピオンが誕生する前にはクオーター・ファイナル、セミ・ファイナル、そしてファンナルの3つの関門があり、それぞれのコンテストで2曲「同じ曲は認められない」歌うので、今回のコンテストで51組のカルテットの中から選ばれたチャンピオンのレベルの高さが想像できるでしょうか。
6:アリーナ全景  8:Ladies Hospitalityはさすがアメリカ 9:過去にチャンピオンになったカルテットメンバーによる合唱練習
10:集まればハーモニー チャンピオンの中で部外者がパートに加わって歌う 50周年の記念Gala Lads
 
審査は「Misic」、「Singing」、「Presentation」に関する採点を各項目専門の審査員5人がいて計15人の採点で得点を競います。この一般カルテットチャンピオンは学生部門と同じ出身のスエーデン・ストックホルム大学のRingmastersで大会最終日のチャンピオン発表の際は観衆全員がスタンディング・オベーションで祝いました。コーラス部門では今年6月に東京で来日コンサートを開いたCrossroadsカルテットのベースを歌っていたJim Henry指揮する Ambassdors of Harmony がこれまた感激のチャンピオンになりました。アリーナを訪れた観客はバーバーショップ愛好者ばかりなので、番組の合間に舞台からの指揮で全員が歌う、Barberpole Cat Songという共通の曲をパートに分かれて歌うと広い会場にバーバーショップ・ハーモニーが響き渡り、涙が出るくらい感動しました。その他,休憩時間には見知らぬ者どうしが至る所でハーモニーをつけて歌っている場面を目にしました。
オリジナルGala Ladsメンバーが二人 2011年のチャンピオンOLd School 25周年のInterstate Rivalsのメンバー。左2人がテナーKipp Buckner,リードJoe Connely 
Ambassdors of Harmonyのチャンピオン表彰,指揮者Jim Henryも感激して涙 カルテットチャンピオンのRingmasters  総員スタンディング・オベーション
Barberpole Cat Song バーバーショップ愛好者であれば誰でも知っている愛唱歌
 



「ヨーロッパ・アルプスのマッターホルンをイタリア側から見る」     12'4/14
 
4月も半ばになって春らしい季節になりました。サクラも今が見ごろで、至る所でお花見をする人が目につきます。吾輩も気分はウキウキで編集長の南アフリカ旅行記に刺激を受けてパソコンに向かって記事を作る気持ちになりました。我が編集長もかってイタリアに留学されていたのですが、まさかここには行かれていないでしょうね?
他社便客室から撮ったマッターホルン 標高4478mのCervino Cervinoイタリア側はスキー場
 
今回紹介するのは一般の旅行者が殆ど訪れることがない場所ではないでしょうか?・・・・・・・・といっても別に価値ある場所とも思えない、イタリアのいわゆる一つの田舎町ですが「長嶋茂雄調でしゃべれば雰囲気がでますよ」・・・・・・・・・
 
切っ掛けはヨーロッパ内を他社便で移動する際に客室から見えた標高4478mのマッターホルンです。マッターホルンはスイスとイタリアの境界に位置する周辺の山から飛びぬけて尖った山です。傾斜が激しいので斜面には雪が積もらず、氷雪が僅かに残っています。アルピニストも山に登るのは命がけで苦労するような形をしています。
Chivasso駅 Chivassoの通り Chivassoの商店街
Chivassoの教会
 
マッターホルンはスイス側のツェルマットから見ると午前中は逆光なので、イタリア側からだと綺麗に見えるはずだと思いました。ミラノに宿泊しているときに列車を調べてみると、ミラノからトリノ行きの急行に乗り、途中Chivasso「キバッソ」でローカル線に乗り換えてChatillon「シャティロン」で下車すればイタリア側からマッターホルンが拝めそうです。マッターホルンはイタリアではCervino「チェルビノ」と呼ばれています。
Chvassoの町 ミラノからChivassoまでの列車 観光客とは無縁の町 山裾はブドウ畑
 
Chivassoで待ち時間があったので小さな町をぶらぶら散歩してみました。イタリアの田舎町はまるでクリント・イーストウッド主演のマカロニウエスタンに出てくるような雰囲気で、のんびりした気分に浸れました。何という事がないこの町で食べたスパゲッティの味は中々のものでした。イタリアの北部はもうアルプスの南側になり、山の斜面には至る所にブドウ畑が見えます。イタリアのワインはフランス産のものより値段が安くて然も美味しいのでテーブルワインにはうってつけです。さて、Chivassoでの待ち時間が過ぎて、いよいよローカル線に乗ってChatillonに向かいます。Chatillon駅で下車すると何もない殺風景な様子で、Cervinoに行くにはバスかタクシーしか手段がなく、バスは1時間に一本しかなく、然も既に出てしまったので、仕方なく個人タクシーを呼ぶ羽目になりました。Cervinoは確かに順光でみると圧倒される美しさでしたが、周辺はスキー場としてのリゾート地でした。山の写真を撮った後、同じ個人タクシーでChatillon駅に向かいました。この時の女性ドライバーは山を見るだけのために乗った日本からの客に驚いていました。料金は確か?小一万円でしたから。
イタリアの北 Chatillon駅 Chatillon駅を通過する列車 Chatillon駅前の風景



「イギリスの世界遺産・ストーンヘンジ」             12'3/25 

イギリスといえば皆さんはどんなイメージをお持ちですか?古くて伝統を重んじるといった硬いイメージが主だと思いますが、ミニスカートの発祥地でもあり、音楽の分野でもビートルズやエルトンジョンの歌は世界を魅了しました。小生にとりイギリスは古きも新しきも両面を大事にする国といったイメージです。
 
今回、取り上げた原稿は一般的な観光では余程の事がない限り訪れることがない場所ではないでしょうか?
こんな複葉機が2次大戦で大活躍した ハンガーでボランティアの手で整備中のプロペラ機 ハリアー
 
かく言う私も本当はロンドンから西に約200キロ離れたソールスベリーにあるイギリス海軍基地で2次大戦の使用機をボランティアの手で飛行可能な状態に整備しているのを見るのが目的でした。ソールスベリーにはイギリスが長年、根気よく開発して実用化した垂直離着陸機ハリアーの基地があり、基地内のハンガーで50年以上も前に作られた飛行機が現在も飛べるようにボランティアの手によって整備されているのです。そして終戦記念日や何か国家行事がある際に飛行するのです。古い機体ですから実際の所、危険もあるのでしょうが、こんな所は我が国と違いますね。クラシックな複葉機「ソードフィシュ」は如何にも時代遅れのように見えますが、2次大戦でドイツの誇る大戦艦ビスマルクを魚雷で沈めたことで有名です。
ストーンヘンジの説明文
ストーンヘンジを訪れた観光客 ストーンヘンジ周辺はのどかな牧場 どうやって石を持ち上げたのか
 
前置きが長くなってしまいました。今回の記事はソールスベリーに行く途中にある「ストーンヘンジStonehenge」という遺跡です。「天に架かる石」とも呼ばれていてストーンヘンジのある環境は如何にもイギリスの郊外といった牧歌的な雰囲気で見渡す限りの牧草にはヒツジがのんびり群れています。そんな所に写真でご覧のような大きな石が何やら意味ありげな配置で存在しています。観光客と比べると石の大きさが分かります。この遺跡の目的は太陽崇拝の祭祀場とか古代の天文台だとかケルト民族の礼拝堂とか諸説あり、本当のところはよく分かっていません。インディジョーンズ教授にでも鑑定してもらう必要があるかもしれません。
この遺跡は1986年に世界遺産に登録されています。
見れば見るほど謎 石の配列にも理由があるのか? 羊とカラス


「航空エンジンの発達史」           3月8日  文と写真  境 孝彦
  
天気の移り変わりが早くなってきました。これは季節の変わり目で春近しの証拠ですね。我がHPへの記事も季節の変わり目に合わせて何時もとは変わった話題を取り上げてみました。題して、飛行機の性能の鍵を握るエンジンの話です。
2次大戦でイギリスを救った傑作エンジン・マーリン 2次大戦中に実用化したドイツのメッサーシュミット、ジェット機 1941年イギリスの試作ジェットエンジン 2000馬力クラスのイギリス製エンジン
人類が空を飛べるようになった歴史を調べてみると、まずドイツのオットー・リリエンタールが丘から動力のないグライダーで滑空して空力の理論を確立し、有名なアメリカのライト兄弟がついにエンジン付きの飛行機で人類初の動力飛行に成功したのが1903年12月、その時のライトフライアーのエンジンは12馬力でした。
2000馬力グリフォン搭載のスピットファイア 2000馬力のエンジンを2基組み合わせ BMW4000馬力液令エンジン BMWハイパワーエンジン
第一次大戦で航空機が戦争にも役に立つのが分かると性能の鍵を握るエンジンが急速に進歩しました。1927年にはチャールス・リンドバーグが大西洋を33時間余りかかって無着陸で横断飛行に成功し、その時のスピリットオブセントルイス号のエンジンは空冷星形9気筒の220馬力でした。
イギリス製のダガー「左」とグリフォン「右」 オットー・リリエンタールがグライダーで飛行テスト ジェットエンジンのテスト中 ジャンボ機のジェットエンジン
そして第2次世界大戦が始まると、プロペラ航空エンジンの発達はピークに達し、従来のレシプロエンジンというピストンの往復運動を回転運動に変えるのでは構造が複雑になり過ぎて馬力の向上が限界になり、この頃からドイツとイギリスでジェットエンジンの研究が始まったのです。レシプロエンジンの極致はアメリカの3400馬力級の空冷星形18気筒エンジンやイギリスの液令H型2000馬力を超える24気筒エンジン、ドイツBMWの2000馬力エンジンを2基組み合わせた2重反転4000馬力エンジンでしょう。メカ好きの小生にとり、これらのエンジンはまるで芸術品のような美しさです。
ダガーは液令H型24気筒エンジン 星形空冷9気筒エンジン マーリンエンジンをアメリカでライセンス生産 液令直列6気筒エンジン
 ジェットエンジンは構造がピストンエンジンのような往復運動ではなく、回転運動なので構造が複雑ではないものの耐久性のある耐熱金属がなくて、研究者は苦労したようです。ドイツが2次大戦後半に実用化したメッサーシュミットME-262戦闘機はジェットエンジンの寿命が余りにも短いので、離陸前に滑走路に入ってからエンジンをかけたという話もあります。超高速回転するジェットエンジンのブレードがテスト中に飛散、爆発した記録もあります。これらの経験を経て現代の大型ジェットエンジンは耐久性があり、しかも高出力のものが実用化されているのです。エアバス380という世界最大の旅客機にはジャンボ機より大型のジェットエンジンが搭載されていて、エンジンメーカーもイギリス製とアメリカ製の中から選べるようになっています。航空エンジンは熱帯の砂漠から極寒の極地、地上から成層圏までのあらゆる気象条件下で安定した運転が保障されなければ使用されないので、長年にわたる蓄積された経験と技術がなければ作ることが出来ない現実があります。この説明文のあとに改めて写真を見ると、それぞれの時代で活躍した航空エンジンが愛おしくなりませんか?
空冷星形18気筒エンジン 芸術品のような空冷エンジン 構造が余りにも複雑
 
添付した写真はロンドン郊外にある王立空軍博物館、ミュンヘンのドイツ博物館で撮影しました。




 
「アンネ・フランクが住んだ街」     文と写真: 境 孝彦     12'1/10
 
2012年がスタートして皆様も新たな気持ちで新年を迎えられたと思います。このHPに記事を投稿する切っ掛けになったのは夕食後、青春時代に見た映画のDVD版「アンネの日記」です。世界中の人が知っているようにアンネ一家はヨーロッパ2次大戦中にナチスの人種差別でドイツから当初、中立国であったオランダのアムステルダムに移住している内に、ドイツに占領され、仕方なく、中央駅から遠くない隠れ家に8人のユダヤ人が暮らしたというのが映画のストーリーです。 
スキポール空港 外海から守る堤防 水門
 
映画の舞台になっている隠れ家は1階が倉庫、2階が事務所で3階と4階が倉庫として使われていて、上映時間1時間半を飽きさせないで隠れ家だけで展開するのは見事です。実際、1959年度のアカデミー賞3部門を受賞しています。良い映画ですよ。機会があれば皆様にもお勧めします。
それではまず、隠れ家から説明しましょう。アムステルダム中央駅前から徒歩で15分くらいの運河沿いにある細長いビルはどこでもあるような建物でかって都市計画で取り壊されそうになりましたが、アンネ・フランク財団が保存と一般公開を目的として家の所有権を買い取り、博物館として街の名所になっています。
雪の運河 中央駅 よく見ると傾いたビル 駅前の大通りは雪
 
ではオランダについて説明しましょう。国土の殆どが堤防に囲まれた低地で、4分の一が干拓地となっています。実際に中央駅やスキーポール空港も海抜以下の低湿帯に作られています。
マニュアルによればスキポール空港の標高はマイナス12ftとなっています。オランダは小さな国にも拘わらず、空港は40年以上も前からスケールの大きな立派な空港で滑走路も5本あり、その内4本が国際線には必要な3000m以上の長さがある滑走路が4本あり、乗客の利便の良さでも有名です。ターミナルビル内にはカジノまであります。クルーのための専門のビルがあって税関の出入国検査も一般乗客とは全く別のルートなので待ち時間がなく好評です。
オランダといえば風車 上空からみた中央駅付近 春の運河 風車の回転で粉を挽く
 
オランダといえば風車が有名ですが、今や動力源としての意味はなく観光資源として僅かに保存、整備されています。添付写真はアムステルダムから郊外電車で30分にあるザーンセスカンスで撮りました。
アンネの隠れ家 訪れた観光客 訪問客の長い列
 
アンネ・フランクはフランクフルト生まれ、父親は銀行員でしたが、世界的な不況でアムステルダムにジャム製造の会社を経営していました。映画の中でも父親は立派な人物として描かれていて、アンネの信頼も厚かったようです。アンネは1929年生まれ、1945年に強制収容所で劣悪な環境で病死したとされています。有名なアンネの日記は2年間の隠れ家での生活を日記に書いています。戦争も終結近い1944年8月4日にゲシュタポに隠れ処を発見され、日記の中にある1944年7月15日付で書かれた言葉には胸を打たれます。
 
「たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと」  16歳の少女のこの言葉には涙が出ました。
アンネ・フランクの銅像 アンネ・ハウスの標識




「ソ連からロシアの時代」        11'11/28筆
 
アルバート通りの歩行者天国
エリツィン大統領が執務した建物
グムデパート
クレムリンの城壁
コスモスホテル前の市電
ホテルの外はマイナス10度
マクドナルドは高級レストラン

今の時代、日本からヨーロッパの主要都市に行くにはまず余程時間とお金の余裕がある人以外、飛行機で旅するはずです。それも広大な国土を持つロシア経由で・・・・・・・・・
 
歴史的な変遷からすると旅客機の航続性能が現在のように12時間以上はなかった上に、2次大戦後、冷戦時代のソ連は自国上空を外国の飛行機が飛ぶなんてことは考えられませんでした。
 
1960年代に日本からアラスカのアンカレッジで給油して北極回りのルートが開設され、その他に南回りの各駅停車ともいうべきルートの二つがありました。北極回りのルートは航法の基本である磁気コンパスが極付近では使えないので、北欧3国の航空会社SASがグリッドナビゲーションという航法を開発して以来、ヨーロッパへのメインルートになり、アラスカのアンカレッジは途中の給油地として活況を呈したのです。
 
シベリア経由のルートは時間短縮になるのは分かっていても、ソ連は簡単に認めようとしません。そこで、日本航空は最初、ソ連の国営航空会社エアロフロートの機材を使って、共同運航という形で1967年4月17日より羽田ーモスクワ間の定期便を開始しました。その時の操縦士は勿論、ロシア人でしたが、日本から航空士が同乗して航法の経験を積んだのです。日ソ航空協定で1970年3月28日には自主運航が認められ、当時副操縦士だった小生もシベリアルートを経験しました。当時、民間の飛行機が定期便として運航するためには地上の航行援助施設なしでは飛べません。地上から発射された電波をたどって航空路を飛行するわけですから、ソ連も多額の費用をかけて航空路を開設したに違いありません。
 
飛行中の撮影は厳禁で、共同運航の時は要所、要所で客室の窓にシェードをかけたという話を聞いたことがあります。人工衛星が地球上空を飛び回る時代になるとこんな話は全くナンセンスですね。
 
自主運航を始めた頃の使用機材はDC−8という初期のジェットで、日本からモスクワの直行がギリギリという性能でした。ジャンボ機になって初めてモスクワで給油せずにロンドン、パリまで直行できるようになったのです。
 
ソ連時代のモスクワはパリパリの社会主義国だったので、およそサービスとは無縁の国民性で、フライトの後、食事をするためにレストランに行っても、注文した品がテーブルに来るまで一時間はかかるのは当たり前。そこで、入国時の検査が厳しくないのが分かると、日本から食材を持って行き、ホテルの部屋で自炊するのが通例になり、フライトの前日にはスーパーで豆腐やレトルトカレーなどを買ったものです。ソ連はアメリカと軍事競争していたので、国家予算のかなりの部分を軍事、兵器産業に投入していたはずで、そのため庶民の生活は質素そのもの。街中での撮影は鉄道や橋は禁止という説明はありました。勿論、空港も撮影禁止で、時代が変わり、ソ連が崩壊してロシアになってからも写真撮影は何か悪いことをしているような感覚でした。実際には全く、制限がありませんでしたが・・・
 
ソ連崩壊当時の日本の新聞報道を思い出すと、何しろ流通がマヒしているので生活物資が不足しているというので日本からあらゆるものを持ってゆきましたが、実際は店の前で買い物客が列を作っているのは何時の時代もソ連、ロシアでは当たり前の風景で、実際、そんな不自由さはありませんでした。モスクワっ子は人が並んでいれば何を買うかは別にして、とにかく並ぶという考えだそうです。エリツィン大統領がロシア連邦の大統領に就任したのが1991年7月、あれからもう20年が経つのですね。我ながら年をとったものです。


モスクワ市民のアパート レーニン廟の衛兵 レーニン廟を訪れる人々 街の要所に立つ銅像
国立歴史博物館 自主運航当時のホテル 地下に吸い込まれるようなエスカレーター 地下鉄駅は美術館のよう
肉売り場で並ぶ買い物客 自由市場 若者の結婚式 赤の広場と聖ワリシ寺院



「歴史が替わった日」                  11'11/9筆
 
最近の電気製品は日進月歩で性能が良くなり、価格も国際競争で手頃になるのは有難いことですが、反面、古い周辺機器が使えなくなるのは困ったものです。現役時代にはデジタルカメラがなかったので、フィルム・カメラで旅先を記録するのが楽しみでした。スライドフィルムで撮った写真をプロジェクターでスクリーンに映写すると臨場感があり、何年も写真を撮り続けるとフィルムのストックは膨大な量になりました。このフィルムをデジタル化するには専用のスキャナーを使用しますが、最新のパソコンには対応していないので、古いパソコンが故障して使えなくなる前にと時間がある限り作業しています。その中からヨーロッパ路線で仕事をしている頃の貴重な写真がありましたので、この度のHP容量アップを記念して原稿を書きました。
  
ヨーロッパでの2次大戦が終わると、米英を中心とした西側勢力とソ連を中心とした東側の勢力が冷戦状態になりました。ドイツは2大勢力の狭間で東西に分かれ、ベルリンが首都だったので、図らずも周囲を東ドイツに囲まれた西ベルリンが存在したのです。冷戦状態が激しくなるとソ連は1948年6月に突然、西ベルリンに通じる全ての鉄道、道路を封鎖して、孤立を狙ったのです。但し、協定で空路だけは封鎖せず、米英は当時利用できる輸送機を集めるだけ集め、西ベルリン市民のための大空輸作戦を実施したのです。この頃の主力機はDC-4。日本航空でも自社運航を開始した当時使用していました。最大乗客数が60名ですから、西ベルリン市民200万といわれた生活物資を空輸のみで支えたというのは大変なことです。
ターミナル構内 テンペルホフターミナルビル テンペルホフ空港のターンテーブル
 
この時に使用された西ベルリンの飛行場がテンペルホフ。ヒトラーの命により改修を受けた空港ターミナルビルは落ち着いた雰囲気で、ビル入り口からボーディングまで一直線で済むような機能的な構造になっています。空港ビルの側にベルリン航空管制本部があって1949年5月に封鎖が解除されるまで西側の大空輸作戦に使用する輸送機の管制にあたりました。 
3本の航空路を意味するモニュメントの周りに空輸作戦で殉職した乗員の名前が刻まれています。現在のフランクフルト国際空港ターミナルビルとは滑走路を挟んで反対側にあるNATO軍ラインマイン空港にも同じモニュメントがあります。天候が悪い日にはGCA [Ground Controlled Approach] と呼ばれる地上に設置した精密レーダーによって誘導されました。現在の航空輸送システムの原点はこの時代に確立されたといって良いでしょう。 
ブランデンブルグ門 ベルリンの壁 ベルリン管制本部のシンボル ポイントC
 
1年足らずでベルリン封鎖は解除されましたが、1961年8月にソ連は東ベルリンから西への住民流失を防ぐため壁を作りました。写真を見ると分かるように、壁自体は鉄筋が入った薄いコンクリート製で高さは3mはあるので、この壁を乗り越えるのは困難だったのに違いありません。その壁もソ連の弱体化で1989年11月に崩壊。
 
ブランデンブルグ門は東西ベルリンの関所で、興味あるのは東側から西ベルリンを見ると太陽光線の関係で西が明るく見え、逆に西側から東ベルリンをみると暗く見えるのです。西側にある神父さんの銅像は「こっちは自由だよ!」と呼びかけています。ブランデンブルグ門とは別に壁が崩壊する前は主に軍関係者の行き来のためにポイントCと呼ばれた関所があり、国境のない日本人にとっては緊張します。
ポイントCの遮断機 空港の隅にある空輸作戦米軍機 人と比べて壁の高さが分かる 西ベルリン側から呼びかける神父さん
 
東西ドイツが統一後、東ドイツ製の「トラバント」と呼ばれた国民車を見た、西側市民は驚きます。フォルクスワーゲン、ベンツ、BMW、ポルシェといった優れたクルマを生産する西に対して、このトラバントは排気量600cc、自動車では珍しい2サイクル2気筒エンジンで一部の部品にはプラスチックにボール紙を混ぜていたからです。日本でトヨタ自動車が昭和30年代後半に国民車として作っていた排気量800ccのパブリカ」にスタイルが似ていますね。
東ドイツ製のトラバント 壁自体は薄い 夜間はこんな感じ
ベルリン封鎖時の3本の航空路を意味するモニュメント
 
この原稿を書くために資料を調べてみると、大空輸作戦の舞台となったテンペルホフ空港は街中にあって滑走路の拡張が出来ないので、東ドイツにあったシェーネフェルト空港を大幅拡張して、その名もブランデンブルグ国際空港として2012年6月完成予定だそうです。そして歴史上、連合軍による空輸のみのよって西ベルリン市民の生活を支えた記録すべきテンペルホフ空港は2008年10月に閉鎖されたのです。



「続:世界の旅シリーズ、ベニス」             11'10/10筆
 
10月になってあの夏の猛暑がウソのような爽やかな日で何をするにもやる気が出てきます。人間の頭は暑いと細かい事が出来なくなるような構造になっている気がします。
 
そこで、俄然、やる気が出てきたところで世界の旅紹介の続編として今回は誰でも知っているイタリアのベニスを取り上げてみました。
 
我がHPの編集長もかってイタリアに留学されていて優秀な成績で帰国されたという話なので、この原稿は編集長の日頃のご苦労に応えるつもりで作りました。
イタリアの駅は皆フラットな形 サンジョルジョ・マッジョーレ島 サンマルコ大聖堂 ベニスの観光案内によく使われる橋
 
ベニスはイタリアではVeneziaと呼ばれているのでベネチアの方が発音としては正しいかもしれません。英語ではVeniceです。例によってインターネットで調べた知識によれば、ベニスは「アドリア海の女王」や「アドリア海の真珠」だとか「水の都」とあります。ベニス全体は小さな島から出来ていて、クルマが走るような道路がなく、交通手段は運河を走る水上バスやフェリーに頼っています。アドリア海は普段は静かな海ですが、大潮で海が荒れると街全体が浸水してしまう位、海面からギリギリの高さにあり、サンマルコ大聖堂前の広場は真っ先に水害で水没してしまいます。
 
古い時代に干潟を埋めて作られた街なので水害、地盤沈下、水の汚染、建物の老朽化、それに地球温暖化による海面水位上昇で将来が心配されるところです。1987年には世界遺産として登録されています。
ベニス名物のゴンドラ ミラノから乗った列車 ミラノ中央駅 ユーモアおじさんが水上バスに手を振る
 
それでは写真をご覧ください。ヨーロッパの街は何処にレンズを向けても絵になるようなたたずまいなのですが、ベニスは運河が縦横に巡らされていて、写真が上手くなったかのような気分になります。建物の風情もさることながら風景を台無しにするセンスが悪い広告がないのも関係あるのでしょう。イタリアを旅行された方はご存じのように建物は茶色を基調とした色に統一されていて、何処かの国のように色盲検査のようなバラバラな色彩の建物とは別世界です。ベニスは古い街なのでよく見ると建物は決して綺麗ではありませんが、落ち着いた雰囲気なのに感心します。とにかく、クルマが全く走ることがない島をのんびり歩くのは贅沢で良いものです。
よく見ると決して綺麗ではない建物 運河が道路代わり 運河を挟んで撮る 何処で撮っても絵になる
 
水上バスに向かって手を振っている木製ワーゲンに乗ったオジサンには笑ってしまいます。これは大人のジョークですね。最後にベニスにはミラノから列車で行きました。ヨーロッパの長距離列車はコンパートメントスタイルで6人掛けの部屋で片言の会話ができるのも旅の想い出です。駅のデザインは各国特徴があり、イタリアの駅は四角い建物がフラットな形が多いなか、ミラノ中央駅は外観からはとても駅には見えないくらい堂々としています。小生の旅は殆どが思い立ったら一人で動きます。慣れない旅で失敗は常にありますが、想い出としては失敗も悪くないものです。
海面すれすれの建物 広場は常に海水下になる恐れ 冬の日差しを浴びてノンビリ



「想い出の街、サンフランシスコ」                 11'9/30筆
 
今年の夏も記録的な猛暑でしたが、皆さん、お変わりありませんか?我が10期が誇る編集長から何か外国の旅行記をどうですか?という砂糖より甘い誘いに負けて、フイルムカメラで撮ったサンフランシスコの写真を探してみました。
 
現在はデジカメの時代で、撮った写真はそのままがデジタル画像なのですが、フィルムカメラで撮った写真はフィルムスキャナーにかけてデジタル化しなければならないので、舞台裏では実は大変な時間が要るのですよ。・・・・・・と自分で値打ちを付けたところで、写真の紹介に移りましょう。カメラにうるさい方はフィルムカメラならではの発色に注意してください。
 
サンフランシスコは日本人好みの街で、坂あり、霧あり、親しみのある街ではないでしょうか?最近、夕食後に、かって青春時代に見た懐かしい映画のDVD版を自宅の大型テレビスクリーンで見るのが楽しみで、ヒッチコックのスリラー映画に「めまい」や「鳥」などサンフランシスコを舞台とした作品があり、場面、場面で見たことがある通り、建物が見つかるとつい見入ってしまいます。
SFOカルフォルニアライン SFOは坂の街 ケーブルカーのターンテーブル
 
サンフランシスコといえばまずケーブルカーでしょう。マーケットストリートを起点とする場所にはケーブルカーの方向転換をするためのターンテーブルがあり、運転手一人だけでなく、乗客が手助けして手動で押しています。運転手は大柄なアメリカ人でしか動かせないような重そうなレバーを体全体を使って操作しています。1873年から運行していると言いますから、世界最古のケーブルカーの整備・保守は大変でしょうが、街を象徴する意味でも大事に扱われています。経済優先では維持できないでしょうが、そこは存在価値を認めるアメリカならではの世界ですね。私が初めてアメリカに行ったのが1966年で、羽田からホノルルを経由して降り立った街がサンフランシスコという想い出の街ですから、その時の印象はよく覚えています。その時の料金は確か?25セント。現在は6ドル。
コイトタワー コイトタワーから見る景色 マーケットストリートのターンテーブル 優雅なフェアモントホテル

 フェアモントホテルは当時から勿論ありました。優雅な外観でヒッチコックの映画「めまい」にも登場します。坂の多い街ですが、コイトタワーと呼ばれるタワーに上ると街全体が見渡せます。フィシャーマンウオーフからアルカトラス島、対岸にある大きなヨットハーバー、サウサリト、写真にはありませんが、ゴールデンゲートブリッジも見えます。サンフランシスコの外海は太平洋で、寒流が流れているので内陸の気温が高いとよく霧が発生します。そのため一年中同じような気温で、夏でも寒い日があります。さすがにダウンタウンから郊外に行くと夏は半そで、街中はオーバーコートが必要となり、不思議な気がします。ゴールデンゲートブリッジは有料で道路全体では5車線あり、時間帯で片側が3車線になるようコントロールされています。ダウンタウンからゴールデンブリッジを渡って車で30分も走れば、もうそこは自然豊かな世界です。週末になればサウサリトでヨットクルーズを楽しみ、シーフードレストランで食事をするのは特別な人達だけとは思えません。橋を渡り、海岸線沿いに走る国道1号線はくねくねした道で景色抜群です。一時間ほど走ると西部劇に出てくるような木造作りの小さな町が所々にあり、都会のビルが立ち並ぶような雰囲気とは正反対のゆったりした気分に浸れます。映画「鳥」は野鳥が人を襲うという怖い映画でしたが、その舞台になっているのがボデガベイ[Bodega Bay]でダウンタウンから2時間ちょっとで行くことができます。ここまで来るとアメリカでもド田舎という感じで建物はすべて木造の平屋ということになります。日本では余程地方の山に行かなければお目にかかれないイヌワシを初めて見たのはマーシャル牧場と呼ばれるポイントです。そう、アメリカではイヌワシは山の鳥ではなく牧場のような平地で見られるのです。

ゴールデンゲートブリッジ ゴールデンゲートブリッジを走る 対岸から街を見る
サンフランシスコ郊外の教会
 
旅行の楽しみ方は人それぞれでしょうが、ダウンタウンのビル街は時代と共に変化してゆく可能性があり、郊外のド田舎は何時までもド田舎であって欲しいですね。





講演「私の航空人生」・資料

       1)  「日本航空20年史より抜粋」 
      (2)  私の航空人生「思い出のフライト」
      3)   「航空会社における安全の取り組み」
      (4)   「座席ベルトの重要性」


 (1)  「日本航空20年史より抜粋」       (2010年2月16日筆)

1903「明治36」12月17日、ライト兄弟世界初動力飛行
1926年「大正」9月13日、日本航空、大阪―大連営業開始、日本初の海外定期航空
1927年「昭和2」5月20日、リンドバーグ世界初大西洋単独横断飛行
1931年2月、日本航空輸送、日本初のエアガール採用
1938年、大日本航空設立
1945年、9月、GHQ、羽田飛行場を出入国空港指定

1950年、10月、航空交通管制官1期生、米へ派遣、 
      朝鮮戦争1950年から1953年

1951年8月1日、日本航空「株」設立、 10月25日NW委託により戦後初の定期便、もくせい号
1955年10月17日、DC−4の乗員全員日本人となる
1955年12月7日、日本人初の国際線機長「DC−6B資格取得」
1958年3月15日、伊丹飛行場、大阪空港と改称、大阪国際空港1959年
1960年8月12日、DC−8、サンフランシスコ線就航
1964年10月1日、東京オリンピック
1965年8月1日、ボーイングB727国内線就航、ベトナム戦争、
1965年から1975年サイゴン陥落

1966年2月4日、ANAのB−727、東京湾に墜落、3月4日、CPのDC−8羽田で墜落、
            BOACのB−707富士山麓の墜落「乱気流が原因」
    
この頃、伊丹―羽田、飛行時間27分の記録あり、御堂筋−銀座が100分というコマーシャル
1970年4月22日、ボーイングB−747シアトルで受領、7月1日、太平洋線に就航、
             
この年に3000m滑走路完成、大阪万博
1975年12月12日から騒音規制で07:00から21:00の使用制限
1978年成田国際空港オープン、1994年関西国際空港オープン

航空経歴

1966年3月22日、陸上単発、陸上多発「23歳」
1967年10月23日、B727副操縦士「24歳」
1968年9月27日、DC−8 副操縦士「25歳」
1974年8月、DC8−61 機長「31歳」
1981年、11月6日、B747 機長「39歳」
1999年、8月3日、B747−400 機長「56歳」
2002年7月1日日本航空定年退職時の飛行時間 19087時間
 

 (2)  私の航空人生「思い出のフライト」

航空大学入学後、一ヶ月余りかけて航空適正検査が行われた。
一般大学では考えられない厳しい面を思い知らされた。
その結果、11期前期として入学した15名の内、3名が適正なしと判定され、元の大学に戻っていった。

1: パイロットとして一生忘れることがない一番の思い出は初めてのソロフライト。
  何時もは後席に操縦教官が乗っているのが、この日はおもりの鉛が載せられた。野鳥の巣立ちか?

2: B727の国家試験に合格し、訓練生から副操縦士の資格を得たとき、給料が4倍以上になった。
  金ぴかの肩章、胸章が眩しかった。

3: 連続事故の影響で機長昇格訓練が一年以上になり、長い訓練後が総て終了し、初めて機長として国内線を乗務した。訓練が厳しく、長かったので不安は全くなし。

4: 初めての国際線は北米と北周り欧州線の貨物路線。アンカレッジ、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ハンブルグ、フランクフルトを飛んだ。北極上空でみた空からのオーロラは一生の思い出。
貨物便はキャビンアテンダントがいないので、食事はおしぼりオーブンで暖める。

5: 忌まわしい御巣鷹山のジャンボ事故当日、123便の次の便、125便を操縦教官として乗務していた。この事故が契機になり、CRM導入。「ヒューマンエラーを防ぐ方法」

6: 成田国際空港が開港し、乗務した成田―クアラルンプールの貨物便が開港前の試験飛行ではありえない騒音が測定され、翌日の新聞で大きく取り上げられた。「注:試験飛行は軽い状態で行われるが、貨物の定期便は最大離陸重量近いので、騒音が大きくなるのは自明」

7: 初めて側でみるジャンボ機の大きさ。シミュレータ訓練のお陰で実機の操縦はそれ程苦労しなかった。  操縦はすべて油圧なので、力は要らない。

8: 欧州路線室長時代にソ連からロシアに変わる歴史の移りを現地で体験できた。
  同様に東西ドイツがひとつになり、ベルリンの壁やブランデルク門を境にして余りにも東西の街が違うこと。

 9: 日本が高度成長時代に色々な路線開発に立ち会えたこと。

    ベルリン、ミュンヘン線開設は欧州路線室長時代。
    宮沢総理のミュンヘンサミットではロンドンーミュンヘン特別便機長を務めた。
    ミュンヘン空港に着陸した最初の便は密かな誇り。

 10: 56歳でB747在来型からB747−400の機種移行を希望し、モーゼスレークでの国家試験を終    えたとき、これで訓練から開放されたと思った。
     外観は同じでもー400はパイロット2人で運航するハイテク機。
     アナログ計器からデジタル表示になり、高度計が縦になったのには戸惑った。
     反面、複合計器は目線を左右に動かす必要がなくて楽。


 3)   「航空会社における安全の取り組み」

航空会社の運航ポリシーは長い間「安全」、「快適」、「定時」であったのが、オイルショック後の燃料費上昇を契機としてそれらに「経済性」が加わった。これらの項目を少し掘り下げてみると、経営者は、特に経営が苦しくなると、経済性を最優先として安全、定時、快適性にも配慮するというのが本音だろうし、乗客にとって安全は当然、それより定時、快適性を優先して、チケットが安くてサービスの良い航空会社を望むであろう。しかし、これらの項目を同列には考えられないというのが運航を直接担当する現場部門の本音であり、安全こそ最優先でなければならないと思います。事故が起きて安全の重要性が社会的にも認知されるが、安全はタダでは維持できない。表面には出てこない分野で日常努力が行われている事を忘れてはならない。

航空運送事業が始まった当初は航空事故を防ぐには乗員個人のスキルを上げることによりある程度の効果があがったが、航空の発達とともに事故原因が複雑になってもはや個人の技量による事故原因は総体的に少なく、機材そのものの故障が原因ではなくヒューマンエラーによる事故原因が80パーセントを占めるようになった。

そこで、個人のスキル維持、向上のために従来は6ヶ月毎に技量審査をする、所謂6Monthチェックを一年に一回にし、後の6ヶ月はヒューマンエラーを防ぐ目的で人の行動パターンを自身で認識し、シミュレーターを使用した飛行の場で予期しない時に思わぬトラブルが発生したときにCrewがあらゆる情報を利用して安全に飛行するCRM「Cockpit Resource Management」訓練が定期訓練に加わった。

6Month技量審査は試験官により成績がつけられるが、CRM訓練は失敗から学ぶという考えから評価は行われない。CRMの思想はアメリカのNASAから始まり、全米の主な定期航空会社が取り入れるようになった。シミュレーターのフライトシナリオは予め数種類が準備されていて、同じ内容のシナリオは二度使わないようになっている。

シナリオの一例を挙げると、悪天候の羽田を離陸した直後、脚が上がらなくなるトラブルが発生、関東エリアの天候は何処も着陸できない。かといって目的地の大阪までは脚を出したままでは燃料が足りない。どうする?といった内容でシミュレーターを使って実際に飛行するのである。燃料が足りなくなって失敗しても成績評価はなく、代わりにビデオで録画した映像を訓練後に見ながら自身で評価、反省する仕組みになっています。

以上は個人を対象とした安全取り組みだが、会社組織としては、社長直属の安全推進室を設け、世界中の航空会社と事故やトラブル情報を交換して安全対策に役立てている。定期便にはAIDS[Aircraft Integrated Data System]という飛行記録装置が搭載されていれ異常な運航をした場合などはデータを解析し、搭乗クルーからも事情聴取して事故防止に役立てている。

安全対策は一度で終わりではなく、常に見直し、繰り返し行わなければ効果が上がらない上に実際に効果が上がったのか測定が難しい面があり、これからも試行錯誤することになるでしょう。


 (4)   「座席ベルトの重要性」

飛行中、突然の乱気流に備える唯一の安全対策は着席時には常にシートベルトをしっかり締めることです。

座席をリクライニングして休む時も毛布の上からベルトをしっかり締めることが重要です。

飛行中の乱気流は、レーダーにより事前に把握可能な積乱雲のような反射エコーが強い雲がある場合は、回避する前に余裕をもって機内アナウンスで乗客に注意喚起することが可能ですが、晴天乱流と呼ばれるレーダーでは把握できない乱気流の場合は突然、大きな揺れに遭遇した場合にシートベルトをしっかり締めていない乗客や、作業中の客室乗務員が怪我をする場合があります。ジャンボ機のような大きな飛行機でも所詮は空中に浮いている訳ですから、機体が一瞬にして数百メートルも沈められると、体は天井にたたきつけられるのです。ジェット時代になってからは、プロペラ機に比べ速度が速いので、一般に言われているエアポケットとは呼ばず、乱気流、タービュランス或いはCAT「クリア・エア・タービュランス」と呼んでいます。

シートベルトをしっかり締めていて乱気流で怪我をした人は皆無です。客室乗務員がシートベルトは例えベルトサインが消灯しても常に締めるよう案内するのは、突然の乱気流に対する安全策なのですが、あまり強調し過ぎると、航空会社としては乗客の不安を招くので比較的あっさりとアナウンスしています。

飛行機が怖いといっている人ほどシートベルトには無頓着な傾向がありますが、離着陸時の事故に備えた緊急脱出経路なども搭乗時に把握して、突然の出来事にも落ち着いて行動できる準備をしておくことが大事でしょう。不幸にして突然の事故が発生した場合の客室乗務員の最初の仕事は乗客のパニックコントロールです。乗客がうろたえ、パニックになる前に大声で「落ち着いて!!、大丈夫!!!!」ということになっています。

 



「東京湾横断ヨットクルーズ」                09'5/17
    

  アクアラインの下を通過    マリーナに停泊中のヨット      メインキャビン

今年も大型連休が終わり、世の中の人々がまた活動を始めた頃合いを見計らって思い掛けない知らせが飛び込んできました。
何年か前に東京皐城会の10期生常連メンバーでもあるリッチュことミスターKから退職後の趣味としてヨットを楽しんでいるという話は聞いたことがあります。その時はヨットといっても遊園地で池に浮かんでいるタライ桶のような小型ヨットだと勝手に予想して、「それは良いな〜!」程度の会話で終わっていました。ミスターK、すみません。失礼しました。

去年の秋に在京附高メンバーと千葉の保田で会食した際に、食後の散歩中、港に停泊していた大型ヨットを見ていて、ミスターKのヨットの大きさを尋ねたところビックリする答えが返ってきました。何と、その大型ヨットと変わらない大きさだというのです。ここで今まで勝手に想像していたヨットの大きさに気がついたのです。改めて失礼しました。

そこで高校のブログを通じてミスターKの所有するヨットに何時か乗せて貰いたいな〜、という話になったのです。冬のクルーズは寒いからということで、ミスターは暖かくなる季節を模索されていたと思います。

その日が5月の連休後に実現しました。全長12mの大型ヨットに初めてお目にかかったのは乗船の前日です。この日に稲毛ヨットハーバーから到着し、既に横浜ベイサイドマリーナのビジターピアに停泊していました。

   ヨットのオーナー    横浜ベイサイドマリーナ  横浜ベイサイドマリーナのシンボル灯台

クルーはミスターKを含め4名。大型ヨットは一人で操縦できないので気のあった面々で所有するのは合理的です。中古で家を一軒買える位のお値段だというので維持するだけでも大変です。

夕方は翌日乗船する附高3名のゲストに加え、在京の同士2人も同席してくれてクルーの方とマリーナで食事をしました。横浜ベイサイドマリーナはヨットや大型モーターボートが係留する他に、アウトレットショッピング店舗が隣接していてお洒落な観光名所でもあります。

   海からのアウトレット    海上から見たうみぼたる  接岸前に備えて帆を畳む

ヨットの定員は最大12名で装備から外洋もクルーズできます。キッチンの設備、冷蔵庫、ベッドルーム、トイレ、シャワーは勿論、ナビゲーション用のGPSを利用して外国まで行けるそうです。遊園地のヨットでは真似が出来ませんね・・・・・・・

ベイサイドマリーナから稲毛ヨットハーバーまで直線距離で約50キロあります。ヨットはハーバーを出航するとエンジンを止めて風を利用したセイルでクルーズするので出来るだけ風を利用できるようコースを判断します。ヨットマンの腕の見せ所ですね。

東京湾は名だたる交通量の多い海域なので操舵するクルーだけでなく数名のクルーによる見張りが大事です。船はユックリしているようで衝突防止は早めに判断しないと、直前に急な操作をしても手遅れだというのがよく分かりました。
今日のコースはアクアラインが丁度中間点です。うみぼたるや、橋が見えてきて揺れる船上で記念撮影です。

昼食時に揺れのためか?空アクビが出て船酔いの兆候がしたので、食事を止めて船尾で遠くの景色を見ている内に気分が戻りホッとしました。

 船首のアクアライン、うみぼたるが見える  停泊中に操舵の真似事  方向を変える際の緊張

どうも小生は空には強くても海と女性には弱いようです。下船する際はミスターKが逞しくみえました。ヨットは操舵に力が要らなくても、セイルの上げ下げや、方向転換時のロープ操作、接岸時の機敏な作業、外洋航海には気象判断など高度な能力が必要なことが分かりました。貴重な体験をさせてもらったミスターKに感謝です。これからも安全には充分過ぎる配慮をしてヨットを楽しんでください。ミスーターKに乾杯!!!!!





「早春の八ヶ岳」                 09'3/26 
           
3月も後半になると太陽の日差しが暖かく、サクラの開花の知らせもチラホラといった季節になりました。首都圏在住の10期同窓生も有志で4月上旬に千鳥が淵のサクラ見物をする計画です。
その前に快晴の八ヶ岳を撮影してきました。
関西の皆さんは八ヶ岳といっても馴染みがないと思いますが、八ヶ岳という山は存在せず、幾つかの山を総称して呼んでいます。

山の写真は富士見高原からと野辺山高原から撮りました。光線具合から午前中は野辺山側、午後は富士見側が向いています。これから本格的な春になると空気の透明感がなくなり今回紹介するような写真は撮れなくなります。3月下旬ともなると山の写真を撮るラストチャンスかもしれません。山はまだ冬景色でも下界は早春の雰囲気が写真からお分かりでしょうか?4月から5月の連休にかけて山で山菜採りが出来ます。採りたての山菜を天ぷらにして食べるのは最高ですね。

   開拓記念碑      早春の八ヶ岳    南牧村から見る八ヶ岳


「世界一美しいお城」                   08'10/1
 
秋になり、これから寒くなるまでが何をするにも良い季節ですね。
 
今回は世界一美しいドイツのお城がテーマです。このHPをご覧の皆さんでドイツを旅行された方はよくご存知かと思いますが、かってJALで成田ーミュンヘン線を運航していたことがあります。
ドイツはフランクフルトがハブ空港として今でも航空の中心ですが、路線拡張として東西統一後のベルリン線、ミュンヘン線が成田からの直行便として開設されたことがあります。
両路線とも残念ながら、年間を通して旅客が採算に見合うだけ増えなくて、廃止されてしまいました。今はフランクフルトから他社便を乗り継ぐ必要がるので多少、不便になりましたが、機会があれば南ドイツの旅も捨て難い魅力があります。
 
世界一美しいお城を訪ねるにはこれから始まる秋のシーズンがお勧めです。添付写真は夏と秋の写真がありますが、一見で違いが分かります。ミュンヘンでは有名なオクトーバーフェストというビール祭りがありますが、これが終わった10月中旬ごろがベストでしょう。
ルードウ”ヒ2世がワグナーに傾倒して時のバイエルン州の予算を無視して作られた有名なノイシュウ”ァインシュタイン城はディズニーランドのお城のモデルとしても有名ですね。
絢爛豪華なお城の内部は撮影禁止ですから、実際に見た印象しか紹介できませんが、色鮮やかで豪華な王の寝室はハリウッドスターの超巨大なベッドを数倍大きくしたスペースで一般の人だったら落ち着いて寝るどころではないでしょうね。
 
お城の最上段には宴会ができる大広間があり、ここで秋にはワグナーのオペラが演奏され、予約はその年の正月にはもう一杯になるという話でした。ドイツにはこのお城の他にライン川沿いにある古城めぐりが有名ですが、お城自体は地味で今ではホテルとして利用されています。
 
どうですか?南ドイツを旅行されたら?ノイシュウ”インシュタイン城を撮影するには崖に架かったマリエン橋というつり橋からが向いていますが、高所恐怖症の人は下を見ないことです。
お城 お城 お城 ノイシュヴァインシュタイン




「ロマン溢れる航空の時代」              08'5/31

春になって新緑を楽しんでいたら、何時の間にか梅雨入り前のような天気が続きます。梅雨入りすると特に後半は毎日が高湿でジメジメして一年で一番嫌な季節ですね。首都圏では緑が濃くなってしまいましたが、北に行けばまだまだ明るい新緑が見られるので、撮影機材一式を積んで青森までクルマで行ってきました。野鳥撮影が目的なのですが、途中、三沢で県立航空博物館があるのを思い出し、途中下車して見て来ました。今回はロマン溢れる時代の話です。

青森県の三沢市とアメリカのワシントン州にあるウェナッチ「Wenatcheeという発音はワナッチと聞こえます」が姉妹都市で、その縁を結んだのは日本から太平洋を無着陸で横断飛行したミスビードル号というオレンジ色の飛行機なのです。ビードル号が見事に復元され展示されている県立航空博物館は5年間に開館しました。ミスビードル号が太平洋無着陸飛行の成功したのは1931年、有名なチャールス・リンドバーグが大西洋横断飛行したのが1927年。当時の飛行士が何か一丁ヤッタロー!!!と狙う時代でした。

ビードル号はもとは5人乗りの旅客機?だったのを2人乗りとし、余ったスペースはすべて燃料タンクに改造されました。ビードルという名前は、航空オイルを提供してくれた会社がVeedol Oil Companyが元です。飛行を支
えたエンジンは425馬力、このエンジンで41時間余り一瞬たりとも休まずに働き続けたのです。単発機はエンジンが止まってしまえば飛行は出来ないので正に命をかけた冒険飛行だったのですね。

三沢市にある淋代海岸は砂浜が長々とあるので選ばれました。とはいえ燃料を満載したビードルを離陸させるために傾斜をつけた台が作られ、坂の上からヨタヨタと加速し、1800m滑走してやっと離陸に成功しました。離陸後、空気抵抗を減らすために主輪とそれを支えるストラットは機体から切り離して落下させました。タイヤがないのでウェナッチには胴体着陸ですが、兎も角、太平洋を無着陸で横断し、朝日新聞社から出されていた懸賞金25000ドルを2人の飛行士が受け取りました。現代は日本からアメリカの太平洋岸まで9時間足らずで飛行します。与圧されて快適な客室で一眠りをすればもう着陸という恵まれた時代には考えられない話でした。

41時間余りの飛行を支えたエンジン ミスビードル号 青森県立三沢航空博物館前の飛行士
淋代海岸 淋代海岸に展示されているビードル号 綺麗に復元されたミスビードル号



「花と鳥の季節」               08'5/12

大型連休も終わり、自宅近所の新緑も次第に色濃くなりました。今回紹介するオランダのチューリップ公園は4月後半から5月上旬が見ごろなので、そろそろ人出も少なくなっているでしょう。Keukenhof [キューケンホフ」 が公園の名前です。かってオランダ貴族の領地であった広大な公園内は良く手入れされた花々が見事なまでの美しさを誇っています。チューリップの球根はオランダの重要な輸出資源にもなっているのですが、球根にするためには花を落とすそうで、美しい花を観賞するためにKeukenhofが選ばれたという訳です。

この季節、世界中から観光客が訪れて花を観賞しています。オランダの冬はヨーロッパ特有の低い雲に覆われ日が差すことは少なく、春になれば待っていました!!とばかりに植物が綺麗に輝きます。まるでカラー写真のために咲き誇る花の手入れはさぞかし大変でしょうが、みているとそれほど多いとは思われない人出で丁寧に庭園の手入れをしています。自分達が世界一のチューリップ公園を管理しているのだというプライドがあるのでしょうか?このHPを見て実際にKeukenhofに行ってみたい方は5月の連休前がベストシーズンです。今はデジカメの時代ですが、フィルムカメラの頃はフィルムを多めに持ってゆかないとすぐ足りなくなりますよ。

Keukenhof入り口 チューリップ-1 チューリップ-2 チューリップ-3
チューリップ-4 チューリップ-5 公園外のお花畑 良く手入れされた公園内



「キングス・シンガースの故郷を訪ねる」
 
        08'3/24      

音楽好きの方、特に合唱をやっている方にとってキングス・シンガースという男性6人の編成によるコーラスグループは有名です。今でこそ、アカペラのボーカルアンサンブルは日本でも何組か活躍していますが、10年以上も前は一般的ではありませんでした。アメリカではバーバーショップスタイルというカルテットによるアカペラコーラスが根ずいていて、年一回行われるコンテストでチャンピオンになったグループのCDを聴くと、とても人の声だけで生まれたハーモニーとは思えない素晴らしい音楽に進化しています。バーバーショップの発祥は娯楽施設がなかった頃に庶民の集会場でもあった床屋で音楽好きが集まって生まれたとされているので、現在のバーバーショップは最早、庶民の音楽ではなくなっている感があります。

話が飛びましたが、今回はイギリスを代表するといっても良いキングスシンガースの話です。ヨーロッパのコーラスは宗教音楽に由来しているので、キングスシンガースもイギリス・マドリガルを得意レパートリーにしています。メンバーはオリジナルの頃からかなり替わっていますが、クラシックからポピュラー、ジャズまで幅広いレパートリーは変化ありません。日本にも何度か来日してコンサートを開いています。驚いたことにアンコール曲で高音部のカウンターテナーが一番低音部のベースを歌ったことです。CDが普及していなかった頃に彼らの「ビートルズ・コレクション」というCDを見つけて、このCDを聴くために初めてCDプレーヤーを購入したのが20年以上も前の懐かしい思い出です。

メンバーの出身がケンブリッジ大学というので、どんな環境で彼らが音楽活動をしていたか興味があり、ある時に大学を訪ねたことがあります。前置きが長くなりましたが、今回はケンブリッジレポートです。ケンブリッジはロンドンの中心部キングスクロスから郊外電車で約1時間離れた如何にもイギリスの田園風景が見られる郊外にあります。日本では4年制の大学が「大学・University」 と呼ばれ、2年制の短期大学が[カレッジ・College」と呼ばれているようですが、イギリスではカレッジは総合大学の学部のような感じです。キングスカレッジはそれほど大きなキャンパスではなく、綺麗に手入れされた芝生の敷地にはゴシック建築の礼拝堂、教室、宿舎があります。この礼拝堂には有料で入る事が出来ます。堂内はまるでキングスカレッジ合唱団の歌声が聞こえてくるような雰囲気です。実際、彼らの歌を聴く事が出来ますが、このときは残念ながら夕方5時半からの演奏ということで時間の余裕がありませんでした。ガイドブックによればケンブリッジの街には大小30以上のカレッジがあり、学生向けの派手な娯楽施設は全く見当たりません。学生は皆、寮生活ということなので、キングスのメンバーは勉学の合間に礼拝堂や、芝生に座って歌の練習をしたことでしょう。

ケンブリッジ周辺を流れるケム川 キングスカレッジのコーラスは有料で公開されている キングスカレッジの礼拝堂横で ケンブリッジの中心商店街
ゴシック建築の礼拝堂 ロンドン市内のキングスクロス駅 学生寮 大学が点在する街の裏通り



  
 「日米貿易摩擦とナンセンスソング」         07'6/11

 いつもの野鳥の話題ではなく、今回はちょっとお耳拝借の話です。

  かって、日本経済が好調で日米の貿易収支が圧倒的に日本が黒字の時代がありました。
業を煮やしたアメリカが盛んに日本に対して圧力をかけてきました。曰く、「もっとアメリカの商品を買ってくれ!!」と・・・・・まあ、今でも同じですが・・・・・「日本は言葉ではYes、Yesと言いながら実際の貿易はNo,Noで一方通行ではないか!!」というものでした。

  アメリカ側の強い要求に時の、日本語の新聞より英語新聞に目を通したというM総理大臣は、日米会談で「アメリカにも、言葉はYesでもNoという歌があるではないか!!」と、応酬したのが添付写真にある歌です。この会談の内容を伝えた当時の日本の新聞にも歌の題名までは紹介されていないので、これが本邦初公開かもしれません。

  歌の題名は 「Yes! We Have No Bananas] という、1923年代の歌で、資料によればFrank Silver とIrving Cohn共作のナンセンスソングは、実際にギリシャ人の果物屋さんがマーケットで叫んでいるのを耳にしたそうだ。歌詞を見ると、ギリシャ人の果物屋のおやじは客が何を聞いても Noと言わないという内容で、時のM総理がどこでこんな歌を知ったのか背景を知りたくなりました。
         

ナンセンスソング


  「ザルツブルグの思い出」

Trapp Family Singers コンサート風景 マリアを中心にファミリー ザルツブルグにあるTrapp大佐の住まい
 自宅の居間にバラバラに保存しているCDを整理していたら、珍しいCDを見つけました。
日本では1960年代に公開されたジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画「Sound of Music]は音楽好きでなくとも印象に残る名画だったと思います。

 ジュリー・アンドリュースのイメージピッタリの爽やかな歌の数々、2次大戦でナチスの台頭を嫌ってオーストリアから脱出するというストーリーも印象に残っています。

 「Sound of Music] が実話に基ずいて Richard Rodgers と Oscar Hammerstein のミュージカルコンビが作詞、作曲した作品だということはよく知られています。

 マリアやトラップ大佐はどんな感じの人だったのだろう?どんな歌を歌ったのだろう?そんな疑問がありませんか?
これから紹介する写真がその答えです。CDの説明によればTrapp大佐率いる家族合唱団は実際にヨーロッパを中心にしてアメリカまで演奏活動をしていました。大戦中に亡命したのではないのですね。
演奏曲はルネッサンス時代の合唱曲、賛美歌、マドリガル、フォークソングなどをアカペラで歌い、偶にリコーダーやビオラの伴奏も加えたとあります。実際にCDを聴いてみるとクラシック音楽の合唱を聴いているような感じで、アメリカを演奏活動している内に移住を決め、アメリカでオーストリア風のペンションを経営していてマリアは1987年に亡くなっています。

写真をみるとTrapp家の雰囲気が伝わってきませんか?ザルツブルグにあるTrapp 大佐の住まいは石造りの立派なものでザルツブルグ城から撮影しました。



「グランドキャニオンの思い出」
コロラド川が流れる渓谷 息を呑む光景 フーバーダム
コロラド川の水を貯めて出来たMead湖 ツインオッターの離陸 乗客19人乗りのツインオッター
 日本の気候は梅雨から夏の間が最も不快ですが、気温だけから言えばもっと暑い所を紹介します。

 気温40度以上のラスベガスは痛いくらいの暑さです。但し、湿度が殆どないのでベトベトした暑さとは別物です。
ネバダ州ラスベガスから空路1時間ちょっとで、隣の州アリゾナ州のグランドキャニオンに行くことができます。
レンタカーだと砂漠の中をガソリンの給油スタンドを気にしながらドライブして半日はかかるので飛行機は有り難いですね。

 この間はScenic Airlinesというコミューター機を使用した航空会社が運航していて、どこの座席に座っても乗客に地上の景色を見てもらうためにキャビンの上に翼がある高翼機を使用しています。写真の機体は19人乗りのカナダ製、ツインオッターで2名のパイロットはキャプテン、副操縦士とも女性でした。

 途中、航路上に大きな雷雲が発達していましたが、当然ながら落ち着いて回避していました。飛行方式は有視界飛行でしょうから、地形を良く知っていないと航路から回避できないでしょう。離陸の写真で両パイロットがスロットルレバーが離陸出力から戻らないように手で保持しています。

 離陸して間もなく、大きな湖が目に入ってきます。コロラド川をせき止めて出来たMead 湖です。湖の手前に有名なフーバーダムがあります。建設に長時間と多くの犠牲者を払って完成し、ラスベガスには安定した水と電力が供給されて巨大なギャンブルタウンが維持されています。Mead 湖をすぎると雄大な景色の連続です。コロラド川は地球の表面を侵食して気のままに流れているようです。
雄大なグランドキャニオンの渓谷は地上から見るに限ります。巨大な崖を眺めると一瞬息が止まるくらいです。

「涼しい写真」
ベーリング海の流氷 流氷の形は様々 雪解けの氷河 残雪が少なくなった真夏の山
 流氷の写真は長い長い冬が終わって初夏になり、やっとアラスカ州の西岸に張り付いていた流氷が形を変えながら融けてベーリング海を漂っているシーンです。
海岸に近い流氷は密度が濃く、形がビッシリしていてまるで大陸の延長のようですが、海岸から離れて行くに従って海に氷が浮いた状態になり、形が変化してゆきます。流氷の下はプランクトンが豊富なのできっと美味しそうなサケが泳いでいて、氷の上にはアザラシが休んでいる事でしょう。
 
  もう一つの写真はアラスカ州の氷河。今が夏の盛りで、さすがに山の雪は融けて岩肌が見えます。
夏のアラスカには至るところに湖があり、小型の水上自家用機を持っている人はクルマではとても行けない場所に、着水して大きな魚を釣り、その日の夕飯材料にするのです。自然って魅力ありますね。

 「暑さを忘れる写真」

アラスカの氷河合流点
谷間を移動する氷河 蛇行する自然な流れ 北緯65度付近のオビ川

  梅雨が明けたら本格的な暑さの夏が到来しました。この暑さを瞬間でも忘れさせる様な涼しい写真を紹介します。

 氷河の写真はアラスカ州とカナダの国境にまたがるもので、高度10000mから撮影しました。
空から撮った写真は青味の強い仕上がりになるのは紫外線の影響でしょうか?撮影日は8月上旬で山の上に積もった雪は融けて岩肌が見えます。
地理に興味がある方は世界地図をご覧ください。北米第二の高さであるローガン山付近から氷河はアラスカ湾に移動します。氷河は川の流れのように低い場所に僅かずつ移動して地面を削ります。
 
 もう一つの涼しい?写真は長くて厳しい冬が終わって春近しの5月にシベリア上空から撮った写真です。
日本から直行便でヨーロッパに飛ぶ場合、約12時間かかりますが、その内の4分の3はロシアを飛行します。大きな国ですね。北方領土なんかゴミみたいなものだから早く日本に返還すればと思いますが・・・・・それはとも角、完全に凍りついた川は北緯65度付近のオビ川です。地上気温は推定零下60度くらいでしょう。寒いのを通り越して人が住む環境ではないですね。湿地帯を流れる川も自然に任せて蛇行しています。何もかも雄大な自然。
 どうですか?暑さを忘れましたか?
 


  「チョーチョ島」   −2002.5.29−
       

南緯3度にある通称チョーチョ島[多分パプアニューギニアに所属 ]です。
チョーチョ島は日本からオーストラリアにゆく際にルート上にあるユニークな形をしたさんご礁ですが,いつも天気が安定せず、雲に覆われてみる事が出来ない所です。
こんな写真が取れるのは本当にラッキーなのです。


                 





  「モスクワの想い出」
       

「モスクワ大学」はモスクワ郊外の静かな台地にあって威厳あるゴシック建築で見る人を圧倒します。ソ連時代には国家を担うエリートを育てたこの偉大なキャンパスにたたずむと瞬間、何か力が湧き出てくるような不思議な気分になります。大学の正面玄関の左右にはいかにもといった顔つきの学生の銅像が置いてあり、周りの閑静な環境の中で学生達は勉学に励んだことだろう。自由世界の大学の場合、周辺には若者相手の店が点在しているものだが、ここには全くそのような店は存在しない。ソ連が崩壊しても学生たちは国を守って国のエリートとなるに違いない。

         


下.「大学構外・大学生・女学生」
               




「聖ワリシ寺院」はクレムリン宮殿、赤の広場に接したモスクワの中心部にあります。タマネギをデザイン化したこの美しい寺院は余りにも美しいので、時のロシア皇帝は二度と同じものが出来ないように設計者を殺してしまったという恐ろしい話があります。







  


「クレムリン















「KGB本部」はソ連の頃はとても正面から写真を撮らせてくれなかったでしょう。見るからに怖そうな建物です。建物の前にあったKGB創始者の銅像はソ連が崩壊した際に民衆によって壊されてしまいました。








「ボリショイ劇場」はやはり市の中央部にあり、ロシアが国の威信をかけて養成した芸術家が音楽、バレー、サーカスなどをここで見せてくれます。








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