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下剋上(げこくじょう)について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【下剋上(げこくじょうとは】

 守護大名の多くは、京都に屋敷(やしき)をもち、京都で生活をし、領国の支配は守護代(しゅごだい)や土豪(どごう)にまかせることが多かった。特に11年およぶに応仁の乱(おうにんのらん)では守護大名の多くは京都を中心に戦いを行い、領国にもどるゆとりはなかった。そのため、領国の支配は実質的に守護代(しゅごだい)が行うようになり、これにより、守護代(しゅごだい)や土豪(どごう)が力をつけていった。

 力をつけた守護代(しゅごだい)や土豪(どごう)の中には、主君である守護大名の領国を奪いとったり、殺したり、追い出したりして自分が主君にとってかわる者もあらわれた。このように下の者が上の者にとってかわることを
「下剋上(げこくじょう)」という。

 管領(かんれい)として力をふるった細川家(ほそかわけ)では、あとつぎ争いをきっかけに2つに分裂し、家宰(かさい 主人をたすけて家の全般をとりしきる役職)であった三好長慶(みよしながよし)にとってかわられた。その三好長慶(みよしながよし)は、家宰(かさい)である松永久秀(まつながひさひで)にとってかわられた。

 この他にも、
   ア 大内家(おおうちけ)は陶家(すえけ)にとってかわられ、その陶家
    (すえけ)は毛利元就(もうりもとなり)にとってかわられた。
   イ 赤松家(あかまつけ)は浦上家(うらがみけ)にとってかわられた。
   ウ 越前(えちぜん 福井県)の斯波家(しばけ)は朝倉家(あさくらけ)
    にとってかわられた。
   オ 尾張(おわり 愛知県のこと)の斯波家(しばけ)は織田家にとって
    かわられた。
   カ 土岐家(ときけ)は斎藤道三(さいとうどうさん)にとってかわられた。


 応仁の乱(おうにんのらん)が終わるころには、下剋上(げこくじょう)によって、ほとんどの守護大名が姿を消していった。守護大名のなかで生き残ったのは、薩摩(さつま 鹿児島県)の島津家(しまづけ)、豊後(ぶんご 大分県)の大友家(おおともけ)、甲斐(かい 山梨県)の武田家(たけだけ)、駿河(するが 静岡県)の今川家(いまがわけ)くらいであった。