後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の政治のしくみについて
【後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の政治について】
1333年5月に鎌倉幕府(かまくらばくふ)をほろぼした後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、朝廷(ちょうてい)、天皇中心の政治にしくみを大幅に変えた。摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)の位をおくことをやめ、天皇が直接政治の指示を出すしくみにしたのである。
また、天皇をやめた上皇(じょうこう)が院政(いんせい)をしたり、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)が幕府(ばくふ)を開いて、政治を行うことも禁止した。このような天皇中心の政治を建武の新政(けんむのしんせい)という。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は北条氏の土地を取り上げ、天皇や皇子、貴族たちの領地として分け与えた。武士の中では、足利高氏(あしかがたかうじ)の功績を一番とし、天皇の名の「尊治(たかはる)」の「尊」の字を与えて、尊氏(たかうじ)と名のらせた。足利尊氏(あしかがたかうじ)が望んだ征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の位は与えなかった。
〈 建武の新政のしくみ 〉
武者所(むしゃどころ)
皇居(こうきょ)の警備と警察の役割
恩賞方(おんしょうがた)
人々の手がらや功績を調べ、ほうびを決める役割
雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)
土地などのあらそいごとの裁判(さいばん)をする役割
記録所(きろくじょ)
政治をする役割
国司・守護
地方の国の政治を行う役割
武士を守護に任命し、貴族を国司に任命した。
鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)
関東の政治を行う役割
成良親王(なりよししんのう)をたてて、関東を治めさせた。
陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)
東北地方の政治を行う役割
義良親王(のりながしんのう)をたてて、東北を治めさせた。
【後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の政治の失敗】
後醍醐天皇
(ごだいごてんのう)
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の天皇中心の政治はわずか2年でくずれさった。その原因は、
1 世の中の大きな動きを読めなかった点
● 武士が力を持っているのに、天皇や貴族が栄えた時代にもどそう
としたこと。
● 武士は、自分たちがもつ武力の大きさに気づいていた。
刀の前に、天皇や貴族はいいなりになるしかないことをすでに知って
いた。
2 恩賞(おんしょう)が不公平であった点
● 北条氏をほろぼし、手がらをたてたのは武士であるのに、戦いも
しなかった皇子や貴族に領地を与えたため、武士たちの不満が高
まった。
3 社会の乱れがおさまっていないのに大内裏(だいだいり)の建設を始
めた点
● 大内裏(だいだいり)の建設の費用を地方の国に割り当てたため、
武士や農民の負担(ふたん)がふえ、不満が高まった。
※ 大内裏(だいだいり)
天皇が住む内裏(だいり)と政治を行う役所がある場所のこと
このような状況の中で、不満をもつ武士たちは、足利尊氏(あしかがたかうじ)のもとに集まるようになり、やがて、足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に対して反乱をおこすことになる。