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室町時代(むろまちじだい)の文化について

   
(北山文化(きたやまぶんか)、東山文化(ひがしやまぶんか)





歴史で知りたいテーマのいちらん

【北山文化(きたやまぶんか)と東山文化(ひがしやまぶんか)について】
文化名 北山文化(きたやまぶんか) 東山文化(ひがしやまぶんか)
年 代
1400年ごろ


15世紀世紀後半

将 軍
足利義満(あしかがよしみつ)


足利義政(あしかがよしまさ)


特 徴 公家の文化と武家の文化がまじりあったはなやかな文化

禅宗(ぜんしゅう)の影響(えいきょう)を受け簡素(かんそ)で深みのある文化
内 容 @ 能が大成(たいせい)された。
A 水墨画(すいぼくが)が発達した。
B 金閣寺(きんかくじ)が建てられ
 た。


@ 狂言(きょうげん)が大成された。
A 水墨画(すいぼくが)が大成され
 た。
B 銀閣寺(ぎんかくじ)が建てられ
 た。
C 連歌(れんが)、茶の湯、生け花
 が広まった。
【金閣寺(きんかくじ)について】

 金閣寺(きんかくじ)は、1397年に足利義満(あしかがよしみつ)が北山(きたやま)に建てた山荘(さんそう)である。建物全体に金ぱくがはられていることから、金閣(きんかく)と呼ばれている。1950(昭和25)年に焼け落ちるが、1955(昭和30)年に建て直された。

 金閣寺(きんかくじ)の第1層には阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)がおかれ、平安時代の貴族の
寝殿造(しんでんづくり)となっている。第2層は観音像(かんのうぞう)がおかれ、武士の武家造(ぶけづくり)になっている。第3層は、仏舎利(ぶっしゃり 釈迦の骨のころ)をおさめた仏堂(ぶつどう)になっている。金閣寺(きんかくじ)には、あの世の極楽浄土(ごくらくじょうど)をこの世に移した別世界の意味もあった。

 この金閣寺(きんかくじ)の建設は、守護大名の大きな負担となり、多くの農民もかり出された。完成までには100万貫(まんがん)、今のお金で約600億円がかかったとされる。


【銀閣寺(ぎんかくじ)について】
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銀閣寺(ぎんかくじ)
東求堂(とうぐどう)

 銀閣寺(ぎんかくじ)は、足利義政(あしかがよしまさ)が、1482年に京都の東山(ひがしやま)に建て始め、1489年に完成した山荘(さんそう)である。足利義満(あしかがよしみつ)が北山の金閣寺(きんかくじ)で政治をとり続けたのに比べ、銀閣寺(ぎんかくじ)は、足利義政(あしかがよしまさ)が政治と縁(えん)を切るための住居であった。

 10年におよぶ応仁の乱(おうにんのらん)で将軍の権威(けんい)はなくなり、この銀閣寺(ぎんかくじ)の建設に費用を出す守護大名はほとんどいなかった。また、屋根などにはる銀ぱくは、費用がかかるため、手に入れることができなった。銀閣寺(ぎんかくじ)と呼ばれながら、銀色ではないのは、室町幕府(むろまちばくふ)の力がなくなり、経済的なゆとりがなかったためであるとされている。だが、もともと、銀ぱくをはる計画はなかったとされる説もある。

 銀閣寺(ぎんかくじ)は観音殿(かんのんでん)とよばれ、1階は武士の書院風(しょいんふう)、2階は仏堂風(ぶつどうふう)に作られ、静かな雰囲気(ふんいき)をただよわせている。


 武士の屋敷(やしき)のつくりを、書院造(しょいんづくり)という。

 上の写真は銀閣寺(ぎんかくじ)の東求堂(とうぐどう)の様子である。たたみ、ふすま、障子(しょうじ)、付書院(つけしょいん)、床の間(とこのま)、ちがい棚(だな)がある。

 現在の日本の和室のつくりのもととなった。


障子
ちがい棚
ふすま
たたみ
内部の拡大
   〜「書院造(しょいんづくり)
東求堂(とうぐどう)の内部
付書院
付書院