茶の湯(ちゃのゆ)、生け花、水墨画(すいぼくが)について
【茶の湯(ちゃのゆ)、茶道(さどう)ついて】
付書院
茶を飲むことは9世紀の中ごろ中国から伝わり、貴族の間で行われていたが、途中から行われなくなっていた。中国の宋(そう)に留学していた禅宗(ぜんしゅう)の栄西(えいさい)が、茶の種を持ち帰ったことから、禅宗(ぜんしゅう)の寺院で茶を飲むことが広まり、再びさかんになった。
室町時代(むろまちじだい)の8代将軍 足利義政(あしかがよしまさ)のころになると、禅(ぜん)の精神を取り入れた「書院の茶(しょいんのちゃ)」と呼ばれる茶会が開かれるようになった。ただ、これは豪華(ごうか)な道具を使い、芸術品を鑑賞(かんしょう)しながら茶を飲むという貴族的なものであった。
一方で、作法も簡単で、茶を味わい、書画を心静かに鑑賞(かんしょう)しながら主人と客人がなごみあおうとする「わび茶」の精神をもつ茶会も始められた。武野紹鴎(たけのじょうおう)は、この「わび茶」の精神をおしすすめ、茶室のかざりや道具を最小限にした。この「わび茶」が室町時代の末のころになると、公家(くげ)や武家、大商人の間に広まっていった。
この「わび茶」を純粋(じゅんすい)なものとし、最高の芸術にまで仕上げたのが千利休(せんのりきゅう)である。
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↓ 千利休(せんのりきゅう)
【生け花、華道(かどう)について】
武士の屋敷(やしき)に書院造(しょいんづくり)がいきわたると、床の間(とこのま)に花を置く生け花が行われるようになった。
花を立てる専門家(せんもんか)もあらわれ、茶の湯の発達につれて、自然の草花を生かそうとする傾向もあらわれてきた。さらに、室町時代(むろまちじだい)の末ごろから安土桃山時代(あづちももやまじだい)にかけて、池ノ坊(いけのぼう)などの流派を中心に生け花がさかんになった。
【水墨画(すいぼくが)、墨絵(すみえ)について】
水墨画(すいぼくが)は、墨(すみ)の濃淡(のうたん)をいかして描く、東洋独特の画法である。ものの明暗(めいあん)や凹凸(おうとつ)、立体感などを墨(すみ)のぼかしを加えてあらわしたものが多い。山水(さんすい)の風景を描くことが多いため、山水画(さんすいが)ともいう。
この画法は中国の宋(そう)や元(げん)の時代に発達し、日本へは禅宗(ぜんしゅう)とともに鎌倉時代(かまくらじだい)に伝わった。はじめは禅僧(ぜんそう)たちが描いていたが、貴族や武士に喜ばれるようになると、水墨画(すいぼくが)を専門に描く画僧(がそう)もあらわれた。
水墨画(すいぼくが)のさきがけとして登場したのは、室町時代(むろまちじだい)の明兆(みんちょう)、如拙(じょせつ)、周分(しゅうぶん)である。この3人は将軍おかかえの画僧であった。
明兆(みんちょう)は京都の東福寺(とうふくじ)に入り、宋(そう)や元(げん)の画法を研究し、仏画(ぶつが)を描くのに優れていた。
如拙(じょせつ)は相国寺(しょうこくじ)に入り、宋(そう)や元(げん)の画法を研究し、水墨画(すいぼくが)の新様式を開いた。
周分(しゅうぶん)は、如拙(じょせつ)の弟子で、相国寺(しょうこくじ)に入り、朝鮮にわたり、宋(そう)や元(げん)の画法を研究した。
そして、水墨画(すいぼくが)の最盛期にあらわれたのが、雪舟(せっしゅう)である。雪舟(せっしゅう)は、相国寺(しょうこくじ)に入り、宋(そう)や元(げん)の画法を研究した。中国の明(みん)に渡り、帰国してからは守護大名(しゅごだいみょう)の大内氏(おおうちし)のもとで水墨画(すいぼくが)を描いた。大内氏(おおうちし)がほろんだ後は、雪舟(せっしゅう)の水墨画(すいぼくが)は毛利氏(もうりし)に受けつがれた。
↑ 秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)
〜 雪舟(せっしゅう)の代表的な水墨画
(すいぼくが)である。
↑ 雪舟(せっしゅう)