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執権政治(しっけんせいじ)について






歴史で知りたいテーマのいちらん

【北条氏が力をのばす】
 源頼朝(みなもとのよりとも)の次男である源実朝(みなもとのさねとも)は鎌倉幕府(かまくらばくふ)の3代将軍となるが、政治の実権は北条氏によってすでににぎられていた。そのため、源実朝(みなもとのさねとも)は朝廷での官位があがることと和歌をつくることにいきがいを見出した。源実朝(みなもとのさねとも)は金槐和歌集(きんかいわかしゅう)というりっぱな和歌集を残した。また、27才ときには、朝廷で右大臣(うだいじん)の地位までのぼりつめた。この右大臣になったことが源実朝に悲劇(ひげき)をまねくことになる。

 1219年の正月、源実朝は右大臣の位につく儀式を終えて、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の石段をおりてきたときに、2代将軍の子の公暁(くぎょう)によって刺し殺されるのである。この公暁(くのぎょう)もすぐに捕らえられて殺されることになった。これによって、源氏の本家の血筋(ちすじ)はとだえることになった。

【源氏がほろびる】
 鎌倉幕府(かまくらばくふ)の初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)は、相模川(さがみがわ)の橋の完成のお祝いの式に出席した帰り道に馬から落ちて1199年になくなった。しかし、源頼朝の長男の源頼家(みなもとのよりいえ)は18才であったため、武士たちを率いる力はまだなかった。

 そのため、母の北条政子(ほうじょうまさこ)とその父の北条時政(ほうじょうときまさ)が中心になって政治を行うようになった。これが北条氏中心の政治のきっかけとなった。これが気に入らなかった源頼家(みなもとのよりいえ)は、自分のお気に入りの部下を集めて自分の思い通りの政治を行おうとした。

 北条政子(ほうじょうまさこ)と北条時政(ほうじょうときまさ)は、計略を用いて、源頼家(みなもとのよりいえ)の部下である梶原景時(かじわらかげとき)や比企能員(ひきよしかず)などの有力な御家人を殺し、源頼家自身は修善寺(しゅぜんじ)に閉じこめた。そして1204年7月、入浴中に殺してしまった。源頼家はわずか23才であった。

 また、このころになると北条氏の勝手なふるまいに反感を持つ武士たちが増えてきていた。反感を持つ有力な武士の畠山重忠(はたけやましげただ)や和田義盛(わだよしもり)たちは北条氏をほろぼそうと計画を立てるが、逆に北条氏によってほろぼされた。これにより北条氏に対立する武士はいなくなり、北条氏の独裁(どくさい)ができあがった。

【北条氏と執権政治(しっけんせいじ)】
執権(しっけん)になった順番
〈 執権(しっけん)政治 〉
  
執権(しっけん)である北条氏が将軍(征夷大将軍)にかわって行った
  政治のこと。将軍(征夷大将軍)は形だけの存在となった。
   ※ 執権 … 鎌倉幕府(かまくらばくふ)全般の政治を行う役職。


初代執権 北条時政(ほうじょうときまさ)
  北条政子(ほうじょうまさこ)の父で、北条氏の執権(しっけん)政治の
  もとをつくる。

   
2代執権 北条義時(ほうじょうよしとき)
  
承久の乱(じょうきゅうのらん)がおこる。
  後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が指揮する朝廷(ちょうてい)軍をやぶる。
  鎌倉幕府(かまくらばくふ)と執権政治(しっけんせいじ)の基礎をつくる。


3代執権 北条泰時(ほうじょうやすとき)
  連署(れんしょ)や評定衆(ひょうじょうしゅう)をおき、北条氏による話合
  いで政治を行うしくみを整えた。
  
武士のルールである御成敗式目(ごせいばいしきもく)を決めた。


5代執権 北条時頼(ほうじょうときより)
  評定衆(ひょうじょうしゅう)の下に引付集(ひきつけしゅう)をおき、裁判
  (さいばん)がはやくうまくいくようなしくみに変えた。
  御家人を大切にした話が残る。


8代執権 北条時宗(ほうじょうときむね)
  モンゴル(元)が二度日本に攻めこんでくる。
(元寇 げんこう)
     
1274年 文永の役(ぶんえいのえき)
     1281年 弘安の役(こうあんのえき)

  台風によって元軍を打ち払うが、鎌倉幕府(かまくらばくふ)の財政
  (ざいせい)が苦しくなり、ほうびをもらえない御家人の不満も高まり、
  北条氏の政治がゆらぎはじめる。


14代執権 北条高時(ほうじょうたかとき)
  政治をおこたり、闘犬(とうけん 犬を戦わせるあそびのこと)などを
  して遊びほうけ、完全に御家人の北条氏への信用がなくなる。
  15代執権の北条貞顕(ほうじょうさだあき)にゆずるが、新田義貞(
  にったよしさだ)に鎌倉を攻められ、自殺する。
  鎌倉幕府がほろびる。 

〈 鉢(はなし)の木の話 〉

 ある大雪の夜に上野国(こうずけのくに 群馬県のこと)のみすぼらしい家に一人のお坊さんがおとずれ、一晩(ひとばん)とめてくれるようにたのみました。この家の主人は「こんなあばら屋ですから・・・。」と一度はことわりましたが、結局はとめることにしました。家の主人は、大切にしていた鉢(はち)植えの梅(うめ)・桜・松をたきぎとしていろりに入れて、部屋をあたたかくして、お坊さんをもてなしました。

 いろりにあたりながら、この家の主人は、「私は佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)といいます。一族に領地をうばい取られて、こんな貧乏(びんぼう)になってしまいましたが、鎌倉で一大事が起こったときには、このちぎれて、みすぼらしいよろいをきてでも、鎌倉に一番乗りするつもりです。」とお坊さんに話したのでした。お坊さんは、とめていただいたことを感謝しながら、次の日の朝に旅立っていきました。


 しばらくして、鎌倉の執権(しっけん)の北条時頼(ほうじょうときより)から関東の武士に集合がかかりました。佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)は取る物も取りあえず、鎌倉にかけつけました。執権の北条時頼(ほうじょうときより)とは、あの大雪の夜にとめたお坊さんでした。北条時頼(ほうじょうときより)は、佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の忠誠(ちゅうせい)をほめたたえ、一族にうばわれた領地をすべて取りもどして佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)に与えるだけでなく、大切にしていた鉢(はち)植えの梅(うめ)・桜・松の木のかわりとして、加賀(かが)の梅田(うめだ)、越中(えっちゅう)の桜田(さくらだ)、上野(こうずけ)の松井田(まついだ)の3つの領地をさらに与えたということである。

【名執権とご恩奉公(ごおんほうこう)】