トップページ > 社会の部屋 > 歴史で知りたいテーマ > 守護大名と将軍の関係について


守護大名(しゅごだいみょう)と将軍の関係について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【守護大名(しゅごだいみょう)と御家人(ごけにん)との関係について】

 鎌倉時代(かまくらじだい)の守護(しゅご)は、地方の国内の御家人(ごけにん)の統率と管理を行う役目は持っていたが、御家人と主従(しゅじゅう ご恩と奉公の関係のこと)の関係にはなかった。主従(しゅじゅう)の関係にあったのは、将軍と御家人(ごけにん)の間であった。

 ところが、元寇(げんこう)の後、鎌倉幕府(かまくらばくふ)は功績(こうせき)のあった御家人にご恩である領地などをあたえることができず、将軍と御家人(ごけにん)との主従(しゅじゅう)の関係はしだいにうすれていった。これにかわって、御家人(ごけにん)に土地を与えることができた守護(しゅご)との間に主従(しゅじゅう)の関係が生まれ、しだいに深まっていった。


      


 これにより、守護(しゅご)は地方の御家人(ごけにん)を従え、将軍にかわって支配するようになってきた。
 
 室町時代になると、室町幕府(むろまちばくふ)は、南北朝のあらそいで、守護(しゅご)を幕府(ばくふ)の味方につけるために、地方の国の荘園(しょうえん)からの年貢(ねんぐ 収穫した米の税のこと)の半分をその国の守護(しゅご)に与えることになった。これを半済(はんぜい)という。このことから、守護(しゅご)は、御家人の力と半済(はんぜい)の富を得ることになり、幕府から半ば独立したような立場となった。

 富と力を得た守護(しゅご)は、だんだん室町幕府(むろまちばくふ)の将軍の命令を聞かなくなり、任命された地方の国を自分の領地としていった。もともと守護(しゅご)を任命したり、やめさせたりする命令は将軍が行っていたが、これもできなくなっていった。

 任命された地方の国を自分の領地にしていった守護(しゅご)は、やがて、
幕府の任命を受けていない自分の子供たちに領地をゆずるようになっていった。結局、地方の国は守護の子孫たちが支配するようになった。このように、地方の国を支配するようになった守護を守護大名(しゅごだいみょう)という。


    



   
【守護大名(しゅごだいみょう)の山名氏(やまなし)と大内氏(おおうちし)】
 
 守護大名(しゅごだいみょう)の中でも、将軍を上まわる勢力を持っていたのが、山名氏(やまなし)と大内氏(おおうちし)である。
 
 山名氏(やまなし)は、最も勢力があったときには、丹波(たんば)、丹後(たんご)、但馬(たじま)、因幡(いなば)、美作(みまさか)、伯耆(ほうき)、出雲(いずも)、備後(びんご)、隠岐(おき)、紀伊(きい)、堺(さかい)の11か国の守護(しゅご)をかね、支配した。山名氏(やまなし)は日本の66か国の6分の1を支配していたことになる。そのため、山名氏(やまなし)は、六分一殿(ろくぶいちどの)と呼ばれるほどであった。

     




 また、大内氏(おおうちし)は、最も勢力のあったときには、岩見(いわみ)、長門(ながと)、周防(すおう)、豊前(ぶぜん)、紀伊(きい)、堺(さかい)の6か国の守護をかね、支配した。その上、朝鮮(ちょうせん)や中国に近い地理を利用して、貿易を行い巨大な富を蓄えた。

          


【守護大名(しゅごだいみょう)と将軍】
 
 守護大名(しゅごだいみょう)の勢力が強くなることは、室町幕府(むろまちばく)や将軍にとって大変都合が悪かった。


 3代将軍 足利義満(あしかがよしみつ)は、細川氏(ほそかわし)の力をかりて、1391年に守護大名(しゅごだいみょう)の山名氏(やまなし)を討った。これを明徳の乱(めいとくのらん)という。ついで、1399年には守護大名の大内氏(おおうちし)を討った。これを応永の乱(おうえいのらん)という。守護大名の2大勢力を討ったため、しばらくの間は、守護大名(しゅごだいみょう)も室町幕府(むろまちばくふ)や将軍の命令に従うようになった。また、日明貿易(にちみんぼうえき)を通じて巨大な富を得ることで、3代将軍 足利義満(あしかがよしみつ)は守護大名(しゅごだいみょう)を圧倒することができた。このころが室町幕府(むろまちばくふ)が最も栄えた時期となった。4代将軍の足利義持(あしかがよしもち)も守護大名をおさえる政策をとったため、表面上は将軍と守護大名の間は平和を保っていた。

 6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)は、激しい性格の持ち主で、将軍の勢力をいっそう強めようとした。鎌倉府(かまくらふ)をほろぼしたり、守護(しゅご)を殺害したりし、将軍の力を見せつけた。しかし、かえって守護の反感を買い、1414年に守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)によって殺害されてしまった。これを嘉吉の乱(かきつのらん)という。これにより、室町幕府(むろまちばくふ)と将軍の力は弱まることになった。

 8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)は、政治をおこたり、自分だけぜいたくなくらしをした。風流な文化に熱中し、日本風の庭園造りをしたり、能を舞う生活を送った。このころ、世の中は、米不足になり、病気も流行していた。飢(う)え苦しんだ農民や町人は、京都の町で一揆(いっき)を起こした。足利義政(あしかがよしまさ)は13回も徳政令(とくせいれい)を出したが、まったく効果がなく、人々の不安や不満をしずめることができなかった。その上、あとつぎの9代将軍の問題で
応仁の乱(おうにんのらん)おこると、この乱をうまくおさえることができず、室町幕府(むろまちばくふ)と将軍の権威(けんい)はまったくなくなってしまった。


 ※ 徳政令(とくせいれい)
     災害やききんがおこったときに、民衆の苦しみを軽くするために、
    税をおさめなくてもよいという法律