名作「源氏物語」の作者

  紫式部 (むらさきしきぶ)
● 活やくした時代   973年?〜1014年?
                平安時代(へいあんじだい)

● 活やくしたこと

   973年? 紫式部が藤原為時(ふじわらのためとき)の次女として生まれる。
          生まれた年は、この他に970年、978年の2つの説がある。
         
           紫式部が幼いころ、父の藤原為時(ふじわらのためとき)が紫式部の
          兄の藤原惟規(ふじわらののぶのり)に「史記(しき)」を教えていました。
          すると、側で聞いていた紫式部の方が兄の惟規(のぶのり)よりも先に
          覚えてしまったそうです。父の藤原為時は、「この子が男の子だったら、
          将来立派な学者になるだろうに・・・。」と残念がったそうです。
         

   996年 父の藤原為時(ふじわらのためとき)が越前守(えちぜんのかみ 福井県
         の国主)になっため、紫式部もいっしょについていく。

   998年 紫式部が一人で福井県から京都に帰る。
         紫式部が藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚する。

   999年 紫式部が娘の賢子(けんし)を出産する。
             ↓
         夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)との仲が悪くなる。
             ↓
  1001年 夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)が病死する。
         このころから、さびしさをまぎらわせるために紫式部が「源氏物語」
         書き始める。
             ↓
         「源氏物語」が評判になり、左大臣の藤原道長(ふじわらのみちなが)
         の耳にも達する。
             ↓
         藤原道長が紫式部の文学的な才能を高く評価する。

  1005年 紫式部が藤原道長の娘で一条天皇(いちじょうてんのう)のきさきの
         彰子(しょうし)に仕える。

             ↓
         宮廷生活の体験をもとに、源氏物語を書き続け、いっそう紫式部の評判が
         高くなる。

  1010年 紫式部の書いた日記
「紫式部日記(むらさきしきぶにっき)」ができる。
         このころ、
「源氏物語」も完成する。(完成までに10年あまりの歳月がかかった)

  1011年 父の藤原為時が越後守(えちごのかみ 新潟県の国主)になる。

  1013年 紫式部が宮仕え(みやづかえ)をやめる。
             ↓
         紫式部の老後はさびしいもので、救いは立派に成長した娘の賢子(けんし)が側に
         いてくれたことである。
             ↓
  1014年 この年の2月に死去? 


● 人 物 評

  紫式部と清少納言(せいしょうなごん)はライバルであったようである。紫式部と清少納言が宮仕え(みやづかえ)をした時期は違っているため、お互いが顔をあわせることはなかったと思われる。しかし、紫式部の書いた紫式部日記には「清少納言は、大変りこうそうな顔をして漢字を書いているが、その文章を見ると、そう上手とは言えない。」などと書いている。顔は知らなくても、お互いライバルとして争っていたのであろう。ただ、宮中でははなやかだった二人も、お互いにさびしい老後をむかえているのはなんとも皮肉である。だが、二人とも未来に自分の名前を残すことができた。「ペンは剣よりも強し」
とはこのことであろうか?


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