★☆2★☆
目の前で座り込んだまま、酷く怯えた表情で自分を見つめている少女に、エリオはなかなか手を差し伸べられずにいた。
ノースランド国において禁術の施行は重罪であり、教会側にそれが発覚すれば単なる永久追放処分だけではすまない。
悲惨な事件の影響もあって、禁術に対する国民感情も非常に悪く、国が定める法では最大で流刑である。まず社会復帰は絶望的と言っても良いだろう。エリオ自身も禁術に対する嫌悪感は強かった。
だが目の前の少女に対してはどうだろう? 不思議なことに全く嫌悪感が沸かなかった。
どちらかといえば、この状況に対する興味の方が圧倒的に勝っている。だが現実は大問題であり、どうするべきか迷っていた。彼女を告発するのは簡単だが、はたしてそれで良いのだろうか?
エリオはひとまず保留し、助祭試験の勉強中に学んだ禁術に関する知識を掘り起こしてみる。
禁術と世間では呼ばれてはいるが、原理は通常の法術となんら変わらず、ある理由があって、それに該当する法術を禁術と呼んでいる。
その理由とは倫理上、安全上、と様々だが、決定的な違いは、術式に求める結果と対応した「代償」を組み込む点にある。
通常法術は、もともと備わっている力に作用して増減や変化を起こさせたりといった程度のものでしかない。ところが代償を使うことによって生み出せる結果は未知数となり、何も無いところから炎を呼び出したり、生物を根本的に化け物に変えてしまえるなど、より混沌とした結果を導き出すことができる。
こうなると、もはや法術というより、おとぎ話しに出てくる魔法である。
エリオが知っている知識はこの程度の大雑把な物だった。
当然彼女は、エリオが知っている程度のことを知らないわけがない。
彼女が酷く怯えているのも、このことが発覚すればどうなるのかを理解しているからだろう。
理解して尚、たかだか就任一ヶ月の自分に、このような危険なことを打ち明けたのは何故か? 黙っていれば分からなかっただろう。罪の意識からくる自白にしても、その相手が自分である理由が全く分からない。
考えを巡らせるうち、エリオの脳裏に、先ほどの彼女の言葉がひっかかる。
確かこう言った――
(通常の法術では分からない真実?)
やはり何も確かめないまま、この事を告発するというわけにはいかない。エリオは考えをまとめてから口を開く。
「クレネスト様、僕は今すぐあなたをどうこうしようとは思いません。ただ……ちゃんと、どういうことなのかは説明して頂けますね?」
そう言って、エリオはクレネストの目の前まで歩み寄り、ようやく手を差し伸べた。少女をこれ以上怯えさせないように、できる限り優しく。
クレネストは一瞬驚いたような表情を浮かべた。
翠緑の瞳が切なく揺れている。
すがるようにエリオを見つめながら、震える指先でその手に触れた。
多少ふらつきながらも懸命に立ち上がり、
「あ……」
まだ足に力が入らないのか、クレネストは倒れそうになった。
素早く支えるエリオ。
「すいません……その……椅子に座らせてくださいませんか?」
そう言って恥ずかしげに、彼女は口元を押さえる。
腕の中で支える彼女の体は、軽くて弱々しい。
それでも、乾いていた瞳に光が戻りつつあるのを見て、内心エリオはほっとしていた。
今まで溜め込んでいたことを告白できて、緊張の糸が切れたのだろう。
クレネストを椅子に座らせると、彼女は少し落ち着いてきたのか、またいつもの眠そうな表情に戻る。
何かを考えるように上を向いて――
エリオは彼女の心の整理がつくまで待つことにした。
数秒の間――
クレネストは目線をおろして、机の上の物を見る。
「さきほど、これらがなんなのかと聞かれましたよね?」
「……あ、はい」
そういえばそんなことを聞いていた。
「これはある仮説を証明するための実験に使う道具です」
「仮説? 証明?」
エリオは首を傾げる。
盆の上に盛られた土、カップ、短剣、小石、何かの星動機。これで一体何をしようというのか?
クレネストは鞘に収まった短剣を手に取り、それを見つめる。
「これから見せるものは禁術を使いますので、大袈裟に驚かないようお願いしますね」
いきなりのとんでもない宣言に、エリオが一瞬戸惑う。
許されない行為が、目の前で展開されようとしている。
その畏怖から、拒絶反応を覚え、体が震えた。
だが、実際に禁術が見られると聞いては、信仰心や倫理観だけで好奇心を抑えきれるほど、彼は歳をとっていなかった。
加えて彼は臆病でもない。体の震えはすぐに止まった。
ゆっくりと……
彼女の口から異国の賛美歌のようなものが発せられ、手先も鮮やかな動きで印を切り始める。
空間に複雑な術式が刻まれ、その帯が白銀の円陣となって、幾重にも彼女を取り囲んだ。
通常の法術では起こらない現象。
そのあまりに美しい光景に、エリオは軽い感動を覚える。
が、それもつかの間――
突然クレネストが立ち上がり、用意していた短剣を手に取った。
鞘から抜き放たれ、刃が術式の光を反射して閃く。
彼女は、ためらいの欠片も見せずに、それを振り下ろした。
自身の右手首に……
当然、彼女の手首から多量の赤い血が流れ出る。
感動に緩んでいたエリオの顔が、一瞬にして凍りついてしまった。
彼女は、残った左手で印を結び続ける。血液が光の粒子へと変化し、術式に加わるのが見えた。
(そうか、これが代償なんだ)
度肝を抜かれながらも、その光景に納得するエリオ。
クレネストが小石に手をかざすと、式に流れるステラが答えを導き、その結果、小石が宙に浮かび上がった。円陣が消え、術がどうやら完成したようである。
しかし、これがなんなのだろうか? とエリオが思ってると、
「って、クレネスト様! 何やってるんですか!」
流れ出る自分の血液を、カップの中に注いでいるクレネストを見てエリオはぎょっとした。
「何って? 何度も手首を斬るのはさすがに嫌ですので、もう少し採っておかないと」
言い放つクレネストにエリオは唖然とし、なんだか自分の手首までむず痒くなってきて、手首をしきりにさすった。
結局カップ一杯になるまで血液を採ると、クレネストは何事もなかったかのように、普通の法術で自分の手首の傷を治した。ほっと息を漏らす。
「では、この盆の上に乗っている物を、その浮いている小石に近づけてください」
言いながら、クレネストが指で小石を軽く弾くと、小石はその場でくるくると回転しだす。
なんだかなぁと思いつつ、言われたとおりにエリオは、土が乗った盆を、宙に浮かぶ小石へと近づけてみた。
すると……土が小石に吸い寄せられていく。
「な、なんですこれ?」
「極小規模にした実験版ですが、私独自の禁術で『世界の柱』といいます。術式を保持して複雑な機能を持たせることもできますが、これはステラを固定化するだけの物です。小規模の実験ですので、再現のために重力制御も同時に行っていますが、このように土が引き寄せられるのは……ようするにこの星が形作られた原理と一緒ですね」
しばらくすると、土の球体が出来上がる。大きさはおおよそ大人の頭くらいだった。
「通常のステラを空間へ放出すると、即座に星に吸収されてしまいます。また、星の結合力に負けてしまいますので、この部屋には特殊な結界が張られています。これによって、ステラは星に吸収されず、この部屋の中では核化している小石へと優先的に吸収されます」
ステラの固定化と結界の仕組みは、人間の体と同じ理屈と説明する。
「つまりこれは、この星のあり方を再現したものということですか?」
「ええ、そのとおりです」
エリオはこれが、禁術の産物であることも忘れて感動した。
それを尻目に、クレネストは小さな星動機を手に取る。
「それはなんです?」
「小型のステラ採取兼、星動力変換施設、とでも言っておきましょうか」
そう言ってクレネストは、スイッチらしきものを入れる。机の上で回転している小さな星にそれを取り付けた。すると、装置の中央部分が青白く発光し始めた。
「さてエリオ君、星動機によって消費された星動力は、どのような状態になると習いましたか?」
クレネストの問に、エリオは学校で習ったことを思い出す。
「確か星動機によって消費された星動力はステラの状態に戻り、再び星に吸収されてしまうと習いました」
クレネストは満足げに頷く。
「この星動機は、この小さな星からステラを吸い取って星動力に変換し、発光することで消費します。ですけども、それが……」
と、クレネストの言葉半ばで、コップをスプーンで叩いたような甲高い音が聞こえ始める。
見れば星の模型は次第に形が歪み、崩れ始めていた。
「へ?」
エリオが間の抜けた声を漏らす。
二人の目の前で小さな星は崩壊しつづけ、ついには崩れた土くれが、バラバラと宙を漂っているだけとなった。取り付けた星動機は机の上に落ちて転がっている。
「それが正しいなら、星動力を消費し続けても、星の結合は維持されるはずなのですが、ご覧の結果です」
エリオは、彼女が一瞬何を言っているのか分からなかった。というより、感情が拒否したかった。
(――でも、これはまさか……いや、そんなことは)
ある予感と共に、彼の体に寒気が走る。
顔色の変ったエリオを一瞥してから、クレネストが手をかざすと、崩れた土くれが盆の上へ戻った。
「ク、クレネスト様はつまり、星動力はステラには戻らないとお考えなのですか?」
「ええ、むしろ消費された星動力が都合よくステラに戻る、などという考えが常識化していることの方が不思議ですよ」
エリオは一瞬目の前が真っ暗になりかけた。素直に信じる気にはなれない。もし、それが本当ならこの世界は、星はどうなってしまうのか?
「で、ですが、なんの検証もなく今までそういう風に言われてきたとは思えません。それに計測器を使えばステラを測定できますよね? それで調べればわかることなはず」
エリオの言うとおりステラは目に見えず、触れることはできないが、現在では星動機によってその密度を測定できるようになっている。
だがクレネストは、そんな反論など予想済みなのか、人差し指を左右に振って否定する。
「反論の前にそうですね……。では、ステラを可視化して見せましょうか?」
「ス、ステラの可視化ですって?」
さらりとまた、とんでもないことを言うクレネストに、エリオは度肝を抜かれっぱなしである。この人なら何が起きてもおかしくはないという、そんな奇妙な説得力さえ芽生え始めていた。
クレネストは頷き、髪の毛を一本抜いてから術式を組み始める。
髪の毛と、さきほど採血した血液もまた、光の粒子となって術式の中に組み込まれ、量が半分ほどに減っていた。
「さて、エリオ君。なにか法術を使ってみてください」
「は、はぁ……?」
突然のリクエストに戸惑うエリオ。
(使ってみてくださいと言われてもなぁ……)
とりあえず適当に思い浮かんだ術式を組んでみるが、その時、エリオは自分の手元に違和感を感じた。
印を切るたびに緑色の光が、術式と同じ形を一瞬刻んでは消える。
(こ……れは……)
かくて術が完成すると、術式が緑の光りを帯びて輝きだし、部屋の中に涼やかな風が吹いた。
術式が消え去ると同時に、そこから漏れ出した緑色の光が、浮いていた小石に向かって集束する。
「そういえば部屋が非常に暑かったですね」
長い髪をなびかせて、クレネストが真顔で感心している。
「いえ、それはいいんですけど、この緑色の光がステラですか?」
「正解です。この部屋の中でのみ、今は見える状態になっています。それでですが、ご覧の通り法術の場合、ステラは消費されることなく空間へと放出され、通常は瞬間的に星に吸収されます。その速度はこんな小さな石とは比べ物になりません。先ほどの答えですが、瞬間的に星に吸収されるものを計測器で測定できるものでしょうか? 古い時代、禁術がまだ禁術ではなかった頃なら、この事がわかったのかもしれませんがね」
言われてエリオは言葉を返すことができない。
クレネストはおもむろに手をかざし、自分の保持しているステラを放出する。
即座に小石へとステラが集束し、その大きさと輝きを増していくが、さきほど崩れた球体と、同程度の大きさまで成長したところで集束が止まる。いや、むしろ反発するように流れだし、放出されたステラはスジを引いて書斎を漂い始めた。
緑の光が織り成す幻想的な光景に、エリオは思わず放心しそうになる。
そこでクレネストはステラの放出を止めた。
「これが飽和状態です。ステラは無限に星の核に集束するわけではありません。そうなった場合、余剰分のステラは反発をおこして外側へ放出してしまいます。こんな小さな石ころではこの程度が限度ですね」
そう言ってクレネストは盆を持ち上げ、小石へと近づける。
先ほどと同じように、小石へ向かって土が引き寄せられ、球体を形成し始めた。
「この星も、かつては長い年月、多くの生物の死によってステラが星に蓄えられ、飽和している状態にありました」
再び小さな星が完成すると、クレネストは星動機を取り付ける。
エリオが息を呑んだ。
部屋を漂っていた緑色の光が急速に小さな星へと集束され始めたのだ。
ついには書斎に漂っていた全ての光が消える。
収束していた緑色の光も徐々に萎んでゆき、小さな星の「地面」に埋まって見えなくなってしまった。
「星動力がステラに戻るという常識の裏には、なんらかの実験ミスか、それとも隠蔽されているのか、それは私にもわかりません」
先ほどと同じく、小さな星が崩れ去る。
それを見届けてから、クレネストは崩れた土を盆の上に戻した。
浮いている小石には、少しだけ緑色の光が残っている。
「でも現実はこの通りです……」
ただの山になった土くれを眺める二人。
彼女が何を言いたいのか、それは分かっている。
だが、この実験と現実の世界には、決定的な相違点があるということにエリオは気がついた。
それを口にしようとしたが、
「エリオ君。今、あなたは生物の死などによって得られるステラについてはどうなのか? と考えているのでしょうね」
そんなことはお見通しとばかりに先手を打たれ、エリオは思わずドキッとする。
「確かに昔のように星動機が少ない時代なら、ステラを絶やさない程度の循環はできたでしょうが、人は便利を追及し続けた結果、いまや星動機は全世界で普及しています。そんな状態では、生物の死による還元などではとてもじゃないですが足りません。たとえ節約を訴えたとしても、この国の利権にまみれたお偉い方々が耳を貸すと思いますか?」
希望を打ち砕かれ、エリオの顔が青ざめる。
「ということは……」
「ステラが足りなくなった星は結合力を失い、自らの重さで潰れて粉々になります」
滅亡主義者……。
エリオの脳裏にそんな言葉がよぎった。
とはいえ、クレネストの説明はこの上なく論理的で、一般的な倫理観がないというわけでもない。
滅亡論に酔いしれるだけの馬鹿者共と同じようには見えない。見えないが……。
「クレネスト様の理屈はわかりました。しかしその言動はどれもこれも教会の教義に反しております。失礼ながら、その言動は滅亡主義的と取られ……ても……」
そこでエリオは言葉が出なくなってしまった。
クレネストの眉がつりあがり歯を剥いて、凄まじい怒りの形相になっている。
この娘にして、この表情だけは絶対に有り得ない。そう思っていただけにエリオは面食らう。
「あ・ん・な・人・達・と! 私を一緒にしないでください!」
「……はい……すいませんでした」
この顔で十分な説得力があったが、こっぴどく怒られてエリオはなんだかしょぼんとした。
どうやら彼女は、滅亡主義者に対して並々ならぬ嫌悪感を抱いているようである。
それによく考えてみれば、このままでは星が壊れるということを説明しただけであって、別に滅びを望んでいると言っているわけではない。
当のクレネストは、思わず激怒してしまったことが恥ずかしかったのか、顔を赤らめてコホンと咳払いをする。
「ま、まぁ、三年前に、アルトネシア大司教様に禁術抜きでそれとなく遠まわしに言ってみましたら、同じようなことを言われて、謹慎処分と反省文を書かされてしまったこともありましたけども……」
「クレネスト様、それはまずいですよ~」
クレネストは誤魔化すようにエリオに背を向ける。
「ですが、なんで僕みたいな、就任一ヶ月の新米なんかにそのような重大な話をなさるのですか? それに僕は禁術のことを告発するかもしれませんよ?」
エリオは少々意地悪だったかな? と思いつつ、そう聞いてみると、クレネストは少し寂しそうな目で背中越しにエリオを見る。
「教会で私は浮いてますから、それに時間もあまりないのです」
言われてエリオは、少しだけ心が痛むのを感じた。
考えてみれば、史上最年少で司祭になった彼女には、同じ階級の者は皆、かなりの年上ばかり。
同年代くらいの子は助祭か学生で、対等の付き合いは難しいだろう。
萎縮されるか嫉妬されるかのどちらかではないだろうか?
こんなことを話せるほど心許せる相手に巡り合えなかったのだろう。
「一ヶ月前、あなたはあの『鐘の音』が聞こえたと言ってましたよね?」
そう言ってクレネストは振り返り、椅子の背もたれに手を掛ける。
「さきほどの実験で、小さな星が崩れる際に甲高い音が聞こえませんでしたか?」
「え、ええ、確かに聞こえましたが、まさか」
「おそらく私とあなたにしか聞こえない音でしょう。いえ、広い世界ですから聞こえる人は他にもいるのかもしれませんが、これは星の悲鳴とでも言うべきでしょうか? 聞こえる理屈については、残念ながら私にもよくわかりません。仮説だけなら一種の共鳴ではないのか? とは考えていますが」
星の悲鳴。滅びの運命を伝える意思なのだろうか?
エリオは思わず身震いした。
「この大災害、そしてあの音が聞こえたあなたなら、話を聞いてもらえるかもしれないと思いました。これがおそらく最初で最後の機会」
クレネストは胸の中央で手を重ね一呼吸――
「もしあなたが、このことを告発すると言うのなら、もはや私にはどうすることもできません。星の終わりまで、見届ける気はありませんので……」
クレネストはそこで言いよどみ、両腕で自分の身体を抱くと、小さく身震いする。
(ああ、そっちの方だったのか……)
この少女は、最初から自分の命をこの場で賭けていたのだ。
告発すると言ったら、即座に自殺しかねない面持ちの少女を見て、エリオは誤解していたのだと思った。
だがちょっと待てよと、エリオは頭の中でひっかかる。
「クレネスト様の口ぶりでは、まるでなにか秘策がおありのように思えますが?」
エリオがそう言うと、クレネストは彼を見据えて力強く頷く。
「ここ数年で各地に見られた奇怪な自然現象。今回の大地震。鐘の音は、その全ての始まりの合図であり、星は既に形状を維持できる限界点を越え、崩壊が始まっています。ですが、現在首都が地震によって壊滅的被害を受けたので、奇しくも星動力の消費量が大幅に減っています。私の試算ではあと半年というところでしたが、改めて計算し直してみたところ、推定一年以内といったところです」
それでもエリオには十分衝撃的な話しだった。
あくまでそれは、星が崩れ去る時期であり、その前に訪れるであろう天変地異によって多くの命が失われることくらいは、彼にも容易に想像ができた。いや、というよりも既に失われている。
あまり時間がないという意味がようやく理解できた。
「もはや、星の崩壊そのものは避けられませんが、星に残されたステラはそれでも膨大です。それを利用して小さな世界を新たに創造することくらいなら可能です」
「そ、そんなことが……できるんですか?」
「世界の柱……」
クレネストがポツリと漏らした禁術の名前に、エリオは一瞬考えて、何かに気がつき、「あっ!」と声を上げる。
確か「極小規模の実験版」とクレネストは称していた。これの完成版というのは一体いかなるものなのか?
「それともう一つ、新世界に色々な生物を運ぶための『ゆりかご』という禁術も作り上げています。たとえ小さな世界を創ったとしても、創造段階で死滅してしまっては意味がありませんから」
クレネストは椅子に重く腰を掛け、苦悩するかのように頭を抱える。
「とはいえ、ゆりかごにも限界があります。人類に関しては数百万人を運ぶのがやっとでして、乗れなかった人々が生き残れるかどうかは祈るしかありません。また、これほどの大規模な禁術を使った計画は、多大な犠牲が必用になります。それこそかつての下衆のように、生贄や人柱のような真似をしなければならなくなるかもしれません」
エリオにはやはりという思いがあった。
ようするにクレネストは彼に、割り切ることができるのか? 非情に切り捨てることができるのか? と、聞いているのだろう。
だが、気がかりなのは、
「その、僕の家族は?」
そう――彼には家族がいた。両親は健在で、六つ下の妹が一人いる。
クレネストは少し考えて――
「わかりました。その時がきたら、優先的に助けるとお約束します」
エリオは沈黙し、目をつぶって考える。クレネストは黙って彼を見つめている。
そもそもが途方もない計画だ。倫理的なこと以前にこれはできることなのか? 彼女を信用してもよいのか? とはいえ、担がれていると考えるには動機が見えない。
彼はしばしの静寂の後、口を開く――
「それは……それ以外に、どうにかなるようなことではないのですか?」
「私は奇跡を起こしに行くのではありませんし、奇跡を起こせるわけでもありません。できないことはできませんし、できることをやるつもりです」
「僕には、それでも十分奇跡のように思えますが?」
「私一人ならそうでした。でも……貴方が協力してくれるのなら、そうではなくなります」
エリオはハッとして目を見開いた。
彼を見つめる彼女の翠緑の瞳はどこまでも深い。
(これは……どうするべきなのか?)
彼女は本気だろう。冗談で、こんな馬鹿な真似をする人間はいない。
では、彼女は正常なのか? 普通ならただの狂人か、子供にありがちな痛い妄想としか思えないが、これほどの力を見せ付けられては、その一言では片付けられない。
たっぷりと時間を掛け、自問自答の果て、エリオは彼女に告げる――
「クレネスト様……できるできないではなく、結局は、やらなければならないことなんですよね?」
エリオが険しい表情でそう言うと、クレネストが伏目がちな目を精一杯開いて顔を上げる。おそらくは驚いているのだろう。
「僕はクレネスト様の助祭ですから、あなたに学び、あなたについていこうと思っています。ただ、まだあまりに信じ難いことで半信半疑ではありますが、とりあえずこの事は内密にしておきますから、今後具体的にどう行動するのかお聞かせください……って……」
クレネストの両目からボロボロと涙がこぼれていた。
「ク、クレネスト様?」
何か悪いことでも言ったのだろうかとエリオは慌てる。
「あっ……ご、ごめんなさい。でも、私嬉しくて……」
クレネストは涙を拭い、やっと微笑みを見せた。
エリオはそれを見て、安堵の表情を浮かべる。
「私はこれを、『世界観B』計画と呼称しています」
そう言って、なにやらまた術式を展開し始める。カップに残っていた血液は全て消えてなくなった。
術式が消えた後、机には十個ほど赤い杭が残る。
長さは大人の前腕ほどで、太さは小指を二本並べた程度の円柱形。
「助祭巡礼制度、知っていますよね? これを利用します。こういう状況ですから、随分と渋られましたけど、実はもう申請が通っています。出発は一週間後です」
助祭巡礼制度とは、助祭の研修を目的とした制度で、あらかじめ決められた巡礼路を通って旅をするというものだった。教会から資金物資の援助も受けられる。
「世界の柱は要となる地域に立てなければなりません。また、危険な旅になりますから、いざという時はこの杭をお使いください」
そう言って、クレネストは禁術で作り出した杭をエリオに渡す。
「これは『星痕杭』と同様に扱えるのですか?」
一本手に取り、しげしげと見つめるエリオ。
教会に所属する男子には古い習慣で、異端と戦うための戦闘訓練が義務付けられている。その際に使う主力武器として、「星痕杭」と呼ばれる特殊な星動機の杭が配給されていた。
この杭はどう見ても星動機ではないが、形も大きさも大体同じである。
とりあえず受け取ったものの、クレネストの血から造られたということで、あまり気分がよい物ではない。
「いいえ、式を組み込んで飛ばせるのと、飛ばし方は星痕杭と同様ですが、ステラを保持できる機能と、式の増幅力や飛行速度は星痕杭の数十倍に達しますので、扱いには気をつけてください」
彼女の警告にエリオは青ざめて、全身から嫌な汗が噴出す。
「それは凄く気をつけますけど……そういえば、この杭には名前はないんですか?」
「名前……ですか?」
クレネストは首を捻ってしばし考える。
「わたしの杭」
「却下です」
エリオは即答した。
「冗談です。それは私独自の術ではありません。禁術『原始の星槍』と言います」
彼女でも冗談を言うことがあるのかと、エリオは思った。
「……わかりました。これは大事に使わせてもらいます」
「さて、では」
エリオが杭を法衣の中に仕舞うのを見て、クレネストは部屋にかけられている術を全て解除する。
同時に雨が屋根を叩く音が聞こえ、宙に浮いてた石がぽとりと机の上に落ちた。
「あ、あれ?」
突然聞こえた雨の音に、エリオは不思議そうな顔で辺りを見回した。
さっきまでは全く聞こえなかったのだが――
戸惑いつつ目線を前に戻すと、いつの間に近づいたのか、目の前にクレネストがいた。
彼女は背伸びして、エリオの頭を両手で掴むと、自分の顔の方へ引き寄せる。
「ちょっ!」
エリオはあまりの事態に顔を赤くしてうろたえるが、当のクレネストはどうということもなしに、口をエリオの耳もとに近づける。
「外に聞こえてはまずい話しですから、法術で防音しておきました」
クレネストがそうささやいて、エリオはなにを勘違いしていたのかと、なおさら顔を赤くした。
それにしても、彼女は一体何種類の法術を同時に使用していたのだろうか? あれだけ大量の法術を使えるステラの保有力も尋常ではない。
「と、ところで、なんだか外から妙な音が聞こえませんか?」
「そうですね? 何かあったのでしょうか?」
と言ってクレネストは窓の方へ行くと、カーテンを開いてみる。
すると、正門付近で青白い光と赤い光が蠢いているのが見えた。
「こ、これは……」
「どうしたんですか?」
エリオも窓に駆け寄ると、外を見て絶句した。
青白い光が正門から進入し、赤い光が押されて下がる。
軍警察と教会の人間が、何かと必死に応戦しているようだった。
クレネストは素早く印を切り、法術をエリオにかける。
「あなたに強化法術をかけました。エリオ君は至急正門広場へ増援に向かってください。私はステラを補充してから向かいます」