●世界観B創世記・星の終わりの神様少女1

三章・白鳳と大蛇の紋章

 薄暗い沐浴場に、一つの人影が動いている。

 白を基調とした壁と床。左右対称に拘って建築されたこの場所は――装飾も絢爛ではあるが、伝統的芸術性と相まって、普段であれば聖域のような厳かさを感じる。

 ただ今は、地震によって装飾がところどころ破損し、星動機も全く動かない。当然ながら浴槽は空っぽで灯りもつかず。

 平常時であれば沐浴に訪れる者も多いのだが、この状況でわざわざ訪れる酔狂な者はいないはずだった。

 朝日が十分に昇り、天窓から差し込む陽の光が人影を照らした。

 少女の姿態が、光の中に浮かび上がる。

 たおやかな曲線に女性を象徴する清楚な双丘。青みがかった長い銀髪が美しい天上の光輪を作り、白い肌を伝う水滴が幾百もの朝日を映し輝く。

 両膝を床につき、流麗な動きで柔らかなその身を清めているのはクレネストだった。

 彼女は陽が差し込んできたことに気がつくとその場に立ち上がり、眩しそうに手をかざしながら天窓を見上げる。

 陽に照らされるその裸身は、夢幻の如く光の中にとけ消えそうなほどに小さく儚い。

(ついに、ここともお別れですね)

 連れてこられて七年――おそらくは、もう戻ってくることはないだろうと思うと、彼女とて感傷に浸りたくはなってしまう。

 今日、出発前に沐浴をわざわざここで行ったのも、その心情の表れではないだろうか?

 彼女は目をつぶり、両手を胸に重ねて、教会で過ごした七年の歳月を思い起こす。

(あの森の中で終わるかもしれなかったこの命)

 アルトネシア大司教の大きな手が、自分をこの教会まで引っ張ってきた。 

 二年間教会の孤児院で過ごし、自分を救ってくれたアルトネシア大司教の恩に報いるため、随分と必死に勉強もした。

 そのかいもあって、十歳になると学力と法術能力を見込まれ、当時まだ司祭だったパトリック司教の元で助祭を務めることになった。

 そして、その半年後には巡礼の旅へと連れて行かれることになる。

 その頃、各地で頻繁に起きていた災害から人々を救い、滅亡主義者の怪しげな活動を未然に阻止したりと、かなりの功績に恵まれた。

 巡礼を終えた翌年、十二にして司祭への昇格が決まり、同行していたパトリックも司教となった。

(そして忘れもしない……就任日に届いたあの手紙……)

 司祭に就任したその日、クレネストの元へ一通の手紙が届く。それは刑が執行された二年前に、獄中より彼女に宛てた、父親からの手紙だった。

 彼女は大きな衝撃を受けたが、その内容もまた非常に不可解で、

 私の愛する娘リーベルへ、私は自身の枯渇したステラを得るために沢山の子供を殺めた。星動機の炉にくべられる子供達の生贄で、星の餌食になり崩壊していく様子が頭に焼き付いて離れない。秘密裏に行っていたあの日の禁術が教会でさぐられて、捕まった私はこれから刑に処される。お前が奴等に捕まらず、無事に生きてこの手紙を読んでいるなら、これほど喜ばしいことはない。私は約束を守ってくれたあの大司教に感謝するだろう。しかし、お前はお前の自身の手で、社会の枠組みだけに囚われず、常に何が真実なのかを見極めて生きていきなさい。それがお父さんにできる最後の助言だ。お前に生きていてもらいたい。幸せでいてもらいたい。さようなら、私の娘リーベル。

 このような内容だったが、やや支離滅裂である。

 これを他人が読んでも、死刑への恐怖から錯乱状態にあったのだろうと思われてしまうだけだろう。

(私でなければ、気がつかなかったでしょうね)

 封書の中には「奥歯」が入っていた。おそらく父の物と思われる。

 最初は遺骨のつもりで渡したのだろうと考えたが、その時ある一つの禁術を彼女は思い出した。

 どうしても父の真意が知りたかった彼女は、このとき初めて父の歯を代償に禁術を使ってしまう。

 手紙にかけられていた隠蔽術が解除され、不要な文字が消える。断片的な単語で、父が最後に伝えたかった言葉が浮かび上がった。

 私の愛する娘リーベルへ、……枯渇……ステラ……星動機……で……星の……崩壊……秘密……禁術……でさぐ……れ……

 その内容を読んだ彼女は苦笑した。苦笑しながら涙が滲んだ。あまりに単純極まりない手法の隠しメッセージ。

 別に禁術じゃなくてもできることだが、禁術を使えてなおかつ、それを使う胆力がなければ、単なる遺書と遺骨のまま、この星と共に消えたのだろう。

(私はとても愛されていた)

 今でもそれを思うと彼女は切なくて、胸が苦しくなった。

 エリオにはああ言ったが、父は滅亡主義者ではなかったと彼女は信じている。

 ただ自分の娘を世界の破滅から守りたくて、必死に禁術書を集めていたのではないだろうか?

 父が言わんとしていることは、禁術を前提にしてしまえば確かめることも容易であった。

 それからの彼女は、教会の目を盗んで秘密裏に術の研究を繰り返し、ステラ固定化と制御を行う独自の禁術「世界の柱」を作り上げた。

 当初の計画では、星が形状を維持できる分のステラを固定化し、星動力として変換できないよう強力な「くさび」を打ち込むつもりだった。

 しかし、数々の実験と自然現象の情報から検証したところ、もはや修復不能なほどに星が病んでいるということが判明する。

 ようするに、あの「鐘の音」が聞こえた時点で、もうそれは手遅れだったのだと彼女は悟った。

 そこで方針転換して生まれたのが、小さな新しい世界を創るという「世界観B」計画である。

 計画をまとめ、新世界へ安全に移行できる禁術「ゆりかご」が完成したのが数ヶ月前。あとは協力者を見つけるだけだった。

(そこへ、私にとって最初で最後の助祭になるでしょう。あの子が来た……)

 横においてあった大きめの桶を持ち上げると、中に残っている湯を首筋から流す。

 湯が自分の体を伝っていくその感触を、両目を閉じてかみ締める。

 しばらくしてクレネストは目を開くと、桶を持って沐浴場の出入り口から脱衣所へと戻って行った。

 衣類を収納する棚が置いてあるだけの簡素な空間。ここへ来たときは、暗くてなにも見えなかった。今は沐浴場から反射してくる光のおかげで薄暗い程度。

 クレネストは、その隅に置いてある大鏡の前に立ち、厚手の布で体と髪を丹念に拭く。

 星動機が使えないので法術の風使って髪を乾かすと、籠に入れておいた衣類の中から下着を取り出し、両手でつまんでしげしげと眺めた。

(そういえば、こういうのをはくのは何年ぶりでしょう?)

 真顔でそんな妙なことを考えながら、他の衣類も身に着けていく。

 彼女の頭髪に合わせたような薄い水色の服に、下は厚手のスカート。腰の辺りには、入れ物をぶら下げておくことができる金具が付いた革ベルトが一本斜めにかかっている。

 マントを羽織ると、彼女は背面側を鏡に映し、おかしなところがないか確かめた。よれている部分を正すと再び正面を向く。鏡に映っているのは、いつもの法衣姿ではなく旅装束だった。

 そんな自分の姿を見ていると、やや開けている胸元に気がついて、恥ずかしそうに両手で隠す。

 谷間ができるほどありもしないのだが――

(やはりなんというか……ですね)

 身体の線が法衣の時よりもはっきりするので、どうにもこういう服装は気になった。

 だからといって、いつまでも、こうしていてもしょうがない。

 紋章入りの帽子を仕上げに被ると、ふぅっと短い息を漏らして、クレネストは脱衣所を出ていった。

 さほど長くもない廊下を歩き、四階分の広い階段を下る。それからまた廊下を歩き、寄宿舎の玄関口に到着した。

 小さな両手の平で、重たい扉を押して開く。

 暗い玄関に、暖かな光が広がっていき――

 彼女は降り注ぐ日差しの眩しさに、元々伏目がちな瞳をよりいっそう細めた。

 平坦になった街の向こうまで、雲ひとつない青空が広がっている。

 クレネストは、大聖堂正面にある噴水広場まで歩いていった。

 そこで立ち止まって振り返り、教会全体を感慨深げに眺める。

 朝の光に照らされる教会は白く輝き、鳥の群れが祝福するかのように教会の上を旋回していく。

「クレネスト様」

 名前を呼ばれて彼女が振り向くと、エリオがこちらへ走ってくるのが見えた。

 互いに「おはようございます」と言って、いつもと違うその姿を見つめ合う。

「変……ですかね?」

 クレネストは心配そうに、胸元で拳をつくって視線を横に反らした。

「い、いいえ、そんなことはないですよ。僕の方こそどうですかね?」

 エリオは黒のシャツとズボン、同じ色の青い線が入った薄手のローブを着ていた。

 クレネストは、そんな自分の助祭を満足げな顔で、

「立派な姿ですね。頼りにしていますよ」

「はい、おまかせください」

 互いに誓った本当の目的を視線で確認し合うと、二人は並んで正門へと歩いていく。

 正門前広場には一台の星動車が停めてあり、その傍らにはアリー、セイル、ゼフィス、パトリック司教の姿が見えた。

「みなさんおはようございます。おそろいでしたか……」

 クレネストはいつもどおり両手をそろえて恭しくお辞儀をする。

「今日はまた一段とお綺麗ですね! ですが! クレネスト様としばらくのお別れなんて僕は胸が張り裂けそうな思いです!」

 と――セイルが大袈裟に言って涙を拭う真似をする。

「あークレネスト様、このバカはとりあえずほっといてください。それよりも道中お気をつけて」

 そのセイルの首を絞めながらアリーが言う。

「アリー君、あんまり強く締めすぎると彼が死んでしまうからほどほどにしてくれよ。エリオ君もしっかりな」

 そう言って、エリオの肩をゼフィスがポンと叩く。

「クレネスト君は相変わらず気が早いと思うのだけどね。君と巡礼した時は随分と死にそうな目にあったものだが、あんまり危険なことはせず、エリオ君をちゃんと守ってやるんだぞ?」

 これはパトリックの言葉。

 クレネストは人差し指を立てて、横目でエリオを見ながら口を開いた。

「普通こういう場合は殿方が女性を守ってくれるもの……のような気もしますけどね」

 その言葉にパトリックは一瞬思案顔になると、「ちがいない」と言って笑う。横でそれを聞いていたエリオがなんだかどんよりとしていた。

 ゼフィスが「大変だろうが頑張れ」と言って、エリオに車の鍵を渡す。

 そうして出発予定の時間まで、皆は思い思いに他愛もないことを話していた。

 すると、そこへ体の大きい固太りの老人が、二人の司祭を伴って現れた。

「アルトネシア大司教様」

 クレネストがいち早く気がついて、声を上げる。

 全員が、階級ごとに整列し敬礼した。

「おはよう」

 重みのある低い声。

 白い立派な髭を蓄え、静かな威厳を保ちつつ柔和な表情。重厚たるその佇まいは、重たい物も難なく支えきる大黒柱のような人柄が感じられた。

 アルトネシアはクレネストの前に歩み寄ると、その顔をじっと見つめ、両手で頬のあたりを優しく包み込む。

 それを見つめ返すクレネストは、いつもの眠そうな表情ではなく、瞳の大きい年相応の少女のものであった。

「……早いな。気は変らんか? せめて、もう少し状況が落ち着いてから、というわけにはいかなかったのかね?」

 アルトネシアがそう口にすると、クレネストは心苦しそうに視線を落とす。

「セレストのみならず、各地で原因不明の災害が相次いでます。星の意思に耳を傾け、人々を助け導くのは、我々の使命ですから……これを期に、私の助祭に大事なことを学ばせたいのです」

 クレネストの決意に、アルトネシアは長く大きい息をつく。

 言葉の裏にはそれ以上の覚悟があった。

「……どうかあまり無茶なことはしてくれるなよ? ちゃんと無事に戻って、この老いぼれに、また元気な顔を見せておくれ」

 心を締め付ける罪悪感――

 思わずクレネストは、アルトネシアの大きな身体に抱きついた。

 広い胸に顔をうずめて、クレネストはこぼれそうになる涙を必死に堪える。

(アルトネシア大司教様……ごめんなさい……)

 それを知ってか知らずでか、アルトネシアはそんな大きくも小さな子の頭を撫でた。

 名残惜しそうに身体を離すと、クレネストは表情を改め、エリオと互いに視線を交わす。

 いよいよ出発の時間――

 エリオは先に、彼女を助手席に乗せてから自分も乗車すると、鍵を回して原動機を始動させた。

 クレネストが車の窓を下ろすと、その傍に皆が集まってくる。

「それではいってきます」

「いってらっしゃい」

 見送り手を振る人達に、クレネストは涼やかな微笑みを残し、助祭のエリオと共に星導教会を後にした。

 願わくば、皆無事に新世界で再会できることを、

 そしてどうか私のやり方が間違っていませんように――

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