●世界観B創世記・星の終わりの神様少女2

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 エリオは困った顔で、四つん這いになっている少女を見ていた。スカートをもぞもぞとさせて、いかにも動き難そうだ。

「クレネスト様、掃除は僕がやっておきますから、どうかお休みになってください」

「いいえ、二人でやれば早く終わります」

 そう言ってせわしなく、汚れた床を雑巾で拭いているクレネスト。その姿は、なんだか妙に落ち着かないようでもあった。

 田舎の教会宿舎だけあって、あまり掃除が行き届いていない。それ故、泊まる部屋は自分達で掃除する必要があったのだが。

「それはそうですが、クレネスト様はその……相当お疲れになってるでしょう?」

 エリオがそう言うと、彼女の動きがぴたりと止まった。雑巾を脇においてその場に座り込み、こちらをじっと見つめてくる。

 なにを言うでもなくじーっと――

 結局、根負けしてエリオは溜息をつく。

「わかりました。わかりましたから、どうかご無理だけはなさらないでください。床は僕がやりますので、クレネスト様は窓の方をお願いします」

 法術で回復を早めているとは言え、彼女は血液を抜いているのだ。心配にもなろうというもの。加えて法術による回復速度上昇は、それなりに体力も使うはず。ここはできるだけ効率よく働いて、少しでも彼女の負担を軽くしたいところだ。

 クレネストは一応納得したのか、無言で頷く。バケツの水で雑巾を絞ってから、部屋の隅に置いてある椅子を、窓の手前に運んだ。

「エリオ君、明日からの予定ですが」

「え? ……ああ、はい」

「マーティルカント村へ向かいます」

 そう言って椅子の上に登り、せっせと窓を拭き始めるクレネスト。

 ポッカ島の地理に疎い彼には、マーティルカント村が何処なのかは分からない。名前の響きはいかにもマーティルの大樹に関係ありそうな感じはするのだが。

 後で地図を確認しておかなければなと考えていると、

「……昼間いらしたあの女性ですが、あの方が迎えに来られるそうです」

「ええっ! あの娘がですかぁ?」

 なにをどうしてそうなったのやら、あまりに意外な展開に、エリオは思わず素っ頓狂な声を上げる。

「はい。まぁ、こうなったのも……そのですね……」

 ――昼間、エリオと別れたあと何があったのか、クレネストが語り始めた。

 サイシャが主張するポッカ島の成立ち。マーティルの大樹の衰弱により異変が起きているという話。そして、昔からこの島を研究しているという彼女の父親のこと。

「そういうわけで、その資料というのを見せて頂けることになりまして」

 そう言って、窓を拭き終わったクレネストは椅子から降り、それを元の位置に戻す。雑巾を絞ってから、今度は部屋に置いてある棚を拭き始めた。

 エリオの方も床は拭き終わり、今は埃が積もっているベッドを念入りに拭いている。

「なるほどそうでしたか。それで、クレネスト様としてはどのようにお考えなのでしょう?」

「私達の目的は決まってます。たとえ事実であったとしても、それは変わりません」

 決意に全くの揺らぎを見せず、ただその声だけが重い。エリオは言おうとした言葉をあえて飲み込んだ。

 マーティルの大樹が島を形成する要であるとしたら、それを代償とする世界の柱を施行すればどうなるのか想像に難くない。

 それは当然、言わずとも彼女は理解しているのだろうから。

「ですが、あの娘の話に信憑性はあるのでしょうかね?」

「さて、どうでしょうね、少なくとも嘘は……」

 そこで突然言葉が途切れ、クレネストの息を呑む声が聞こえた。怪訝に思ったエリオは手を止め、彼女の様子をうかがう。

 一体どうしたのだろうか? 彼女は雑巾を床に落とし、ジリジリと後退していた。

 エリオは首を捻り、とりあえず声をかけようとした次の瞬間。クレネストは物凄い速さでエリオの元へ駆け寄ると、その胸に飛び込んだ。

「ちょっ、ちょっとクレネスト様ぁ!?」

 彼のシャツをがっちり掴んで放さない彼女に、エリオは酷く困惑する。

「落ち着いてください! 何がどうしたんですか?」

 彼女の両肩に手を置き、彼がそう言うと、クレネストはゆっくりと棚の下あたりを指差す。

 なにもない……と思ったのはつかの間、棚の影から這い出てきたそれに、エリオは足のつま先から頭のてっぺんまで、寒気の波が突き抜けていった。

 大きさは大人の手の平ほど、胴体は細長く平べったい。無数の蠢く細長い足に、異様に長い触角。音も無く、物凄い速さで移動するそれは、一匹の虫だった。全てが人間に嫌がらせするために生まれてきたのか、と思えるほどの強烈な姿である。

「ななななななんですかあれ! なんですかあれ!」

「ポッカオオゲジ……です」

 さすがのクレネストも相当に声が上擦り、エリオもエリオで、始めて見る衝撃的な虫相手に寒気が止まらない。

「エリオ君、一応益虫だそうですので、殺さずに追い払ってください」

(マジですかークレネスト様!)

 心の中で弱音を吐くも、怯える少女の手前、恐れをなしていては男がすたる。精神的には不意打ちを食らって先手を取られたが、クレネスト様のお役に立てるならばと勇気を奮い起こすエリオ。

「お、おまかせください」と言って彼女を宥め、その身をゆっくりと離した。部屋の隅に立て掛けてあったホウキを手にし、部屋のドアを開けておく。そこへ追い出す作戦だ。

 大胆不敵にも壁によじ登り、堂々と休息しているポッカオオゲジを、エリオの鋭い視線が捕捉する。ゆっくりと目標の少し上あたりにホウキの先を近づけ、狙いを定めた。

(よし!)

 鋭くホウキの先端を滑らせ、ポッカオオゲジを壁から床へと叩き落とす。

 驚いたポッカオオゲジは、ひっくり返った我が身を素早く起こし、隠れ場所を探して部屋を徘徊し始めた。

 クレネストの方はちゃっかりとベッドの上へ退避している。

「このっ! 逃げるな!」

 襲いかかるエリオの猛攻に、虫の方も必死だ。左右で数十本はあろうかというその足を自在に操り、エリオを翻弄する。あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、その動きには一切の迷いがない。

 彼もなんとかして、部屋の出入り口まで誘導しようとするが、ポッカオオゲジは思い通りの方向へ逃げてくれなかった。

(くっそぅ、こうなったら!)

 エリオは走り周る虫の進路を見据えてホウキを構えると、上から押さえ込みにかかる。ホウキの先端はやわらかいし、潰してしまう心配はないだろう。

 押さえ込まれたポッカオオゲジは動けなくなり、触覚だけをわさわさと動かしている。

 その状態を維持しつつ足場だけを移動し、出入り口に狙いを定めた。意を決すると、エリオは一気にホウキで虫を掃う。が、その一瞬で虫が視界から消えていた。

「ど、何処いった?」

「エリオ君、ホウキです!」

 言われてホウキに視線を移したその瞬間、彼は寒気の極地に達し、わけのわからない叫び声を上げながら、ホウキを投げ捨てた。

 あろうことかホウキに取り付いたポッカオオゲジは、実にけしからん速度で持ち手の方へ迫ってきたのである。

「さっきあなたは逃げるなと言ったではありませんか!」

「それとこれとは話が別です!」

 しかしチャンスだ。ポッカオオゲジは今、ホウキに固執している。床に落ちているのにも関わらず、持ち手側の先端部分で動きを止めていた。

 エリオはゆっくりと、持ち手の下方を掴んで持ち上げる。ポッカオオゲジは動かない。

 胸に手を当て、それをハラハラした様子で見守るクレネスト。

 刺激しないようにゆっくりと、出入り口の方へ運んでいく。

(よーしよし、いい子だ、お願いだからそのままじっとしていてくれよ?) 

 奇妙な集中力で虫を凝視しながらも、なんとかエリオは、出入り口の手前までそれを運んだ。

 ポッカオオゲジは身体を丸め、何かを迷うようにモゾモゾとしている。

 このまま大人しくしてくれればよい。

 ――が、そう甘くはなかった。

「えっ?」

 まさかである。

 これが飛び跳ねるという発想はなかった。

 ポトリと腕の上に落ちてくる。

 エリオは思わず、付着したポッカオオゲジを振り払った。

 虫は放物線を描きつつ、ベッドの方に飛んでいく。クレネストの足元へ――

 クレネストの目線が下がり、ポッカオオゲジと目が合った。

 彼女の顔がみるみるうちに蒼白となり、逆流する息の音だけで悲鳴を上げる。

 エリオの方も別の意味で血の気が引いた。さすがにこれはまずかった。

 慌ててベッドの方へ駆け寄ろうとしたその時――

「なんだか騒々しいのう君達」

 かかった声に彼が振り返ると、背の低い老人が部屋の中を覗き込んでいた。

 ベッドの上で震えているクレネストと、ホウキを構えているエリオを交互に見て、不可解な面持ちで首をかしげる。

「こらこら、なにをやっておるのかね?」

「いえ、ちょっと虫が……」

 そう言ってエリオがクレネストの足元を指差す。途端にその老人は呆れ顔になった。

「なんだ、ただのポッカオオゲジではないか」

 そう言ってつかつかとベッドの方へ歩みよると、ポッカオオゲジを素手で無造作に掴み上げ、部屋の窓から外へと放り投げた。二人はその、あまりに気楽な手際にしばし唖然とする。

「やれやれ、いい男が虫ごときに腰が退けてるとは、情けないのぅ~ほっほっほ」

「面目次第もございません」

 軽やかに笑う老人に、しょげかえった表情で頭を下げるエリオ。自分の度胸のなさに、少々自己嫌悪気味である。

 クレネストの方もベッドから降りてきて、恭しくお辞儀した。

「その節はどうも、ライネス司教様、お騒がせしまして申し訳ございません」

「いやあいいんだよ~それよりもクレネストちゃん、見ないうちに随分なべっぴんさんになったのぉ」

「いえいえ、そちらこそお変わりなく、お元気そうでなによりです」

 ポッカ島、星導教会本部のライネス司教。どうやら、二人は顔見知りのようである。

「で、こっちのこの子はクレネストちゃんの彼氏かい?」

 老人のわざとらしい冗談に、エリオはあさっての方向を向いて咳払いをする。

 クレネストは、少々恥ずかしげに口元を手で覆うと、

「いいえ、残念ながら違います。私の助祭のエリオ君ですよ」

 そう答え、困り顔で頬を掻いている彼の、その背中に手の平を軽く当てる。

 自己紹介をしなさいという催促だろう。

 エリオは表情を改め、服と姿勢を正してから口を開く。

「申し遅れました、クレネスト司祭様の助祭を勤めさせてもらっている、エリオと申します」

「ほうほう、わっしはライネスだ、この教会の司教を勤めておる」

 そう言うなり老人は、値踏みするかのように、彼の全身をくまなく観察しだした。

 彼の周囲を「ふむふむ」と漏らしながら一周すると、今度は腕や足腰をぺたくたと触り始める。

(え、えーっと?)

 お世辞にも気持ちの良いものではない。正直に言えばおぞましい。とはいえ相手は司教で老人。邪険に振り払うわけにも行かず、緊張した面持ちでされるがままになっていた。 

 しばらくしてライネスは、エリオの胸板を軽く拳で叩くと、満足したのか彼から離れる。

「ふふん、なかなか鍛えておるじゃないか。顔の方はまぁ、わっしの若い頃の方が勝ちかな? ほっほっほ!」

「はぁ……恐れ入ります」

 中々に飄々とした老人である。

 とりあえず、変な趣味の人ではなくて安心した。

 突然おかしなことをされないかと、内心ひやひやものだ。

「ふぅーむ、クレネストちゃんは司祭に昇格したんだねぇ、助祭の子もおるなんて凄いじゃないか」

「はい、あの巡礼が終わった翌年に昇格したのです。年齢的なことを理由に、助祭の子はなかなかつけてもらえませんでしたが、今年になってようやくなのですよ」

 どことなく誇らしげに語るクレネスト。

 ライネスは「そうかそうか」と嬉しそうに声にする。

「それで、ここにはどのくらい滞在するのかね? ちょっとくらい羽を伸ばしてもいいんだよ?」

「お心遣い感謝いたしますが、ポッカ島の現状を少しだけ見ました。セレストには一応、私達からの視点で状況報告をしたいので、明日からは島を回ろうと考えています。ですので、それが終わるまでは滞在したいのですが」

 クレネストがそう言うと、老人はすまなそうに後ろ頭を掻く。

「わっしらもどうにかしたいと考えておるんだが、いかんせん資金も人出も不足でのう。いいよいいよ~、わかった、クレネストちゃんの好きにするとよい」

「ありがとうございます」

 そう言ってクレネストは、両手を揃えて深々と頭を下げた。

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