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空が灰色に覆われて、色彩の落ちた世界に雨が降っていた。
霞がかった遠くの山景に、広大な光の輪郭が浮かび上がっている。灯る炎のようにぼんやりと揺らめいて、青白いそれは、周囲の山々を静かに照らす。展望台から望むマーティルの大樹は、晴れた空の下とはまた違う、幻想的な姿を見せていた。
エリオは器用に傘をくるくると回しながら、周りを見回す。
悪天候にも関わらず、観光客と思われる人々で展望台は賑やかだった。
目の前のクレネストは、いつもの旅装束の上に、白く透けているレインコート姿。サイシャはエリオ同様傘を差していた。
「あの手前に見える壁から先が、マーティル教で言うところの聖域ですね」
小さな体を背伸びさせながら、フェンス越しに遠方を見やり、淡々と説明する。
彼女の指先が示す方を辿ると、確かに壁のような物が見えた。その内側には小さな建物が立ち並んでいるようだ。ここから見る限り、数はそれほど多くはない。
「あそこから先は入っちゃ駄目だからね」
サイシャが横から釘を刺す。
「できればマーティルの大樹を直接調査したいところですけど、無理ですよね」
と言って、サイシャの方へチラっと視線を走らせるクレネスト。
「うーん、まあね……あなた達は特にマズイよ」
予想通りのサイシャの返事。クレネストの方も、それは最初からあまり期待してはいないだろう。
少女は考え込むようにあごに手を添えた。
彼女はどうするつもりなのだろうか?
今時期は観光客も多いし、彼等も当然、神経を尖らせているに違いない。
行動するとしたら夜中、皆が寝静まった後だろう。問題は、サイシャに気づかれないよう家を出ることができるかどうかだ。また、戻ってきたところを見咎められても困る。
「確かめたいことは、マーティルの大樹が本当にステラを蓄積していて、それが島全体に影響を及ぼすほどのものであるかどうかです」
「まだ疑ってるの?」
呆れて面倒そうに顔を歪めるサイシャに、クレネストはかぶりを振った。
「私個人としては非常に信憑性が高いと思います。あなたのお父様が使っていた計器類。随分と変わった物ですけど、私自身で試してみたところ、問題ありませんでしたし」
「……ああ、なんかお父さんがぶったまげてたね、あなたのステラ? 保有量は異常だって」
「はい――ええと……物体内部のステラ量を測れるなんて、なかなか面白い測定器でしたね」
その時のことを思い出したのか、クレネストがげんなりと肩を落とす。
なぜ彼女が、それほどまでにステラを保有することができるのかで、エルダーに質問攻めにあったのだ。これに関してはクレネスト自身も全く分からないらしく、単なる偶発的才能なのか、外的要因なのか不明らしい。
「ですが、どうしたものですかね。遠方からの観測でも、サイシャさんの言われるとおり――以前見た時よりは、そんな感じなのは分かりますが」
彼女は人目を気にして、言葉の後半を濁す。
サイシャも一瞬不満げな表情を見せるが、すぐに肩の力を抜いた。
「御神木がお力を取り戻すのが一番だと思うけど、ずっと打つ手なしの状態が続いてるの。お父さんの予想では、後三ヶ月ほどだって」
と、声を潜めて喋る。
三ヶ月というのは、マーティルの大樹が枯れ、島を維持するだけの力が無くなるまでの期間だろう。
「はい――とりあえず、今後どうするかは後で決めるとしまして」
言ってクレネストは、エリオの方に向き直り、少しの間彼の顔を見上げてから続ける。
「それで……えっと、ですね」
何を考えているのか、目線を逸らしつつ彼の袖をつまんだ。
「クレネスト様?」
「あの、エリオ君と……二人きりで話しがしたいのですが……」
妙にたどたどしいその声音。
エリオは思わず頬がぽっとなる。
それを見たサイシャはきょとんとし、続けて意味ありげに、にやけて見せた。
「ふーん、そうかぁ、私はお邪魔だったかな?」
なにか絶対勘違いされてるとエリオは思った。袖をつまんでいる少女の方は、いかにもそれらしく、肩を小さくしてうつむいている。はにかんだように、ちらりとサイシャを見て、
「すみません」
「あーいいよいいよ。じゃあ私、その辺ほっつき歩いてるからさぁ、そこの時計の下で待ち合わせってことで」
サイシャがあごで示した先には、植物を思わせる抽象的な造形の時計塔があった。目立つし、待ち合わせ場所としては丁度よさそうだ。
「では一時間後、ということで」
「うん、わかった……エリオさん頑張ってね!」
言って可愛らしく片目をつぶるサイシャ。
いや、何を頑張るのだと、エリオは顔を引きつらせる。
離れつつ、何度もにこにこしながら振り返るサイシャに、彼は心労が増していく気分だった。溜息をついて、まだ袖をつまんでいるクレネストにボソっと言う。
「誤解されますよ?」
「はぁ……気づいてましたか――迫真の演技だと思ったのですが」
彼女は小首をかしげながら、残念そうにそう言った。
思いのほか可愛らしい仕草と声に一瞬ドキっとはしたが、そこは男の性というもの。彼女の方便であろうことは、容易に想像できた。
「さて、どこか人気のないところを探さないとです」
周囲を警戒しながら、クレネストは静かにそう口にした。
エリオも頷き、二人は一緒に歩き出す。
と、その前に――
「クレネスト様……袖」
「……あ」
山の斜面に造られたマーティルカント公園は、展望台の他にさまざまな施設があった。
今の期間、通常であれば人気の無い場所を探すことは難しい。
クレネストとエリオは、公園内の案内図を眺めながら、互いに意見を言い合う。そうしているうちに一部、人が寄り付かないと思われる場所が見つかった。
子供専用の遊具で溢れているそこは、アスレチック広場である。ますます強くなった雨脚のおかげで、誰も遊んでいる気配はない。雨音が声をかき消してくれるのも好都合だ。
二人は一つの遊具を屋根にして、雨を凌ぐ。
「見ての通り、あれの周辺はすり鉢状の地形で、村から続く道以外は山に阻まれています。近辺は根の影響で、かなり険しい地形になっています」
遠くにぼんやりと浮かぶマーティルの大樹を眺めつつ、クレネストは話し始めた。
「あの娘に出会わなければ、その険しい道を行かなければならないところでした」
「なるほど、それでですか」
エリオは納得して手を打つ。
そもそもどちらにしてもあの巨木を代償にするのなら、あの娘の言う事が本当かどうかなんて、わざわざ確認する必要性がない。適当にあしらっておけばよかったはずだ。
「そこを話す前に邪魔が入りましたので……」
ポッカオオゲジのことだろう。クレネストが鬱気味な表情で口をへの字にまげる。
「分解範囲にあの巨木を巻き込むには、かなり接近しなければなりません。ですが、あの辺りの地形がよく分かりませんでしたから」
ようするに、クレネストが確かめたかったのは詳細な地形である。遠目に見た限りでも、危険そうなことは容易に想像がつく。無策で挑むにはいささか問題があった。
「それで、サイシャさんの話を聞いていたら、これはもしかしてと思いまして」
ポッカ島を昔から研究しているという彼女の父親なら、もしかしたら、そういう資料もあるのではないか? と、彼女は考えたらしい。
実際、その予想は的を射ていた。エルダーの調査資料には、マーティルの大樹周辺の詳細地形も書かれている。そういえば、幹までの移動経路も、彼女がそれとなしに聞き出していたのをエリオは思い出した。
「今夜にでも決行したいところなのですが、天気が少々心配ですね」
確かに、風も少し出始めている。多少の雨であれば、進入には好都合かもしれないが、あまり荒れるとそれはそれで大変である。
「左右には山、唯一の経路にはマーティル教が築いた関所。どうやって進入するおつもりです?」
「それなんですが……エリオ君には、なにか良い案がありますか?」
逆に聞き返されるとは思ってなかった。
とはいえ、彼も一応それなりに考えてはいた。あまり自信はなかったが。
「先ほどは遠すぎて見えませんでしたけど、壁上にはおそらく、侵入防止用の有刺鉄線くらい張っているでしょう。山林を掻き分けて、壁の途切れている脇から進入する手も考えましたが、左右の山は傾斜がきつそうですし、夜なので危険ですよね」
山中は真っ暗だろう。マーティルの大樹が発光していたとしても、その程度の灯りでは届かない。かといって灯りをつけて動けば、見張りに気づかれる危険性が高くなる。
クレネストは納得したのか小さく頷く。エリオはそれを見て続けた。
「有刺鉄線を切って進入するか、周囲に防音法術をかけた上で、壁を壊して穴を開けるという方法も考えました。でも、これでは痕跡が残ってしまいますし、後者は振動で気づかれる恐れがあります。進入はともかく脱出前にバレてしまうとまずいですね」
「そう……ですね」
単に進入のことだけを考えるのであるならばそれでもよい。難しいのは、脱出のことまで考慮に入れなければならないことだ。
「それでなんですが、クレネスト様の重力操作法術で、壁を飛び越えるというのはどうですか?」
我ながら安易すぎるかな? と、エリオは自信なさげに口にした。
クレネストは遠くの空を見上げながら後ろ手に組み、ぽやっとしている。表情からは、今の案が良かったのかどうか読み取れない。おそらく思案は、しているのだろうが――
しばらくして、彼女は口を開いた。
「二人分の重力制御、しかも精度を要求されますね。ステラもかなり消費します」
「うーん、やっぱり駄目ですかぁ」
エリオは後ろ頭を掻いて、自分の浅慮を反省する。当然ながら、世界の柱を施行するためのステラを彼女は残しておかなければならない。ステラを大きく消費する法術の使用は避けたいところだ。
仕方なく却下して、別の案を考えようとしたその時、
「いえ……そうでもないですよ」
予想外のクレネストの言葉に、エリオが戸惑いの表情でクレネストを見下ろす。
「え!? ステラは大丈夫なんですか?」
「こんなこともあろうかと、原始の星槍に予備のステラを補充しておきましたので」
「あーぁ……」
少々間抜な声を漏らす。完全に失念していた。原始の星槍はステラを固定しておける。
彼女は不測の事態に備えて、おそらくは旅に出た当初からそうしていたに違いない。
「でも、ちょっと難しそうです。飛び越える練習ができないので、そこが不安なのですよ」
「重力を軽くして飛び越える――では駄目なんですか?」
「横風でもうけたら、あらぬ方向へ飛んでいってしまう危険性があります。ですので、二段階に分けて重力方向を変える、という方法で考えています」
エリオは、「なるほど」と頷き、さすがだなと感心した。
クレネストがやろうとしていることはおそらく――
まず一段階目は、斜め上空へ向けて落ちる。ある程度加速がついたら重力を戻し、着地寸前に逆方向へ、一瞬重力を変えることで勢いを殺す。ちょうど見た目には、放物線を描くような感じで、飛び越える形だ。
――と、言葉にするだけなら簡単でも、そもそも常人にこんな真似はできない。彼女の技術あってこそ、できる発想だった。
「飛んでる最中に法術を使うのは無理ですので、飛ぶ前に、二段階の補正を時間差で行うよう、あらかじめ術を組まなければなりません。その着地までのタイミング計算が少々難しいところです」
「あの……飛んでる最中に無理というのは、どういうことでしょう?」
エリオはあごに手を当てて、首をかしげる。そこは疑問だった。
自分なら飛びながらでも印を組む自信はあるし、ましてや法術の達人である彼女がそれをできないわけがないのだが。
そんなエリオをクレネストは見上げて、脱力するように軽く息をつく。
「エリオ君にしがみつきながらでは、手が塞がってしまいますので……」
「あーはいはい……って! うえええぇっ!?」
変に納得しかけてしまったせいで、彼は奇妙なポーズで後ずさった。
「バラけて飛ぶのは危ないですから、エリオ君におぶさるのが一番でしょう?」
彼の気恥ずかしさを他所に、淡々とクレネスト。
「それに、二人分の計算や、式を二度書くよりも、一度にまとめた方が効率がよいのですよ」
エリオはとりあえず、頭の中でその時の状況を想像してみる。
彼女をおぶったまま、上手く足から着地できるだろうか?
それでも十分危険そうだが、なんとかするしかない。
「わかりました――あと……サイシャさんの家を抜け出す方法と、移動手段は?」
「この村には車を貸してくれるお店があります。二輪の方が、隠すのにも都合がよいと思いますから、エリオ君、後で手配をお願いします」
こんな村に、そんな便利な店があったのかと驚く。
よく考えてみれば、ここに来る観光客の中には、公共の交通機関を利用する者も多い。現地についてから星動車で動き回りたいという人も結構いるのだろう。
「それと、サイシャさんの家には今日はお世話になりません。外泊ということで話をつけます」
「それは不自然ではありませんか?」
「普通ならそうなんですけど、その……」
クレネストはそこで一端言葉を切ってうつむき、口元に指を当ててから続ける。
「――いっそ誤解を利用しましょう」
「……誤解?」
何を考えているのかわからないクレネストの横顔。
エリオは何か、嫌な予感がした。
なんでこうなっているのか? エリオはあまりに不可解な状況に困惑していた。
場所は宿屋の一室。
昼間の疲れを少しでもとるためか、クレネストはベッドの上に仰向けになっている。エリオの方はというと、念入りに道具の点検をしていた。
無論、いかがわしい宿屋というわけでもない。とはいえ、時間は深夜であり、同室しているのは気まずい。
「クネレスト様……いくらなんでもこれは、やりすぎなのでは?」
そう問いかけると、彼女がくいっと首を回してエリオの方を見る。
「ですが、これで不自然さはなくなるでしょう? あの方は間違った方向へ誤解したはずです」
確かにその通りなのだが、問題はその誤解の方向性である。
「これではまるでクレネスト様と僕が、その……世間体的にまずい関係にあるみたいに見えてしまいます。噂になると困ったことになりますよ?」
「あの方の口からそれを吹聴されたとしても、そこまで大事にはならないと思いますよ? 特に我々、教会側からはまったく信用されないでしょう」
「ですが、僕なんかとそのような関係に思われてもよろしいのですか?」
「……はぁ……まぁ、なんとしても成功させなければなりませんので」
実利が優先。彼女はそのために、他人にどう思われようとおかまいなしなのだろう。見た目に似合わず、こういうところはかなり豪腕である。
彼女が覚悟の上であると言うのなら、彼はそれに付き合うしかない。これ以上の案もなかったし、そもそもが今更であった。
「それになんとなくですが、あの方は一線をわきまえているように思えます。だから、この件に関しては、私達が困ると分かっていながら、他言したりはしないと思うのですよ」
「はぁ、本人にそのつもりなくても、あの人はうっかり口を滑らしそうですけど」
「……え? ええ、まぁそれは」
それは有り得そうなのか、クレネストも自信なく目を閉じ、なんだかもじもじとしている。全く気にしていない、というわけでもなさそうだ。
エリオはそれをしばし眺めてから、短い息を漏らした――
クレネストは外泊の理由として、サイシャの恋愛話好きを利用したのである。いかにもそれらしく、彼との関係が急接近したかのように振舞ったのだ。
展望台から戻った後は、実際に二人で仲むつまじく、村の要所を巡ったりもした。
彼女の姿はなにせよく目立つ。狭い村社会ではすぐに噂になるだろう。そういう場所では、ある程度行動の痕跡を残さないと、サイシャに怪しまれる可能性があったからだ。
とはいえ、さすがに二人で外泊してくると告げたときは、「くれぐれも間違いを犯さないように」と物凄い形相で釘を刺されはしたが。
彼女の思惑どおり、完全に誤解されているのは間違いない。
上手くいったことを喜ぶべきなのかどうなのか、エリオは複雑な気分である。
「……さて、そろそろです」
言ってクレネストは体を起こした。
「準備は整ってます。いつでもいけます」
エリオはそう言うと、クレネストに黒装束を手渡した。闇夜に溶け込み、姿、顔を隠すためのものだ。
前回以上の緊張感に包まれた部屋の中、クレネストはしばし顔を伏せ、目を閉じる。
しばらく、雨が屋根を叩く音だけが響き――
そして彼女は顔を上げた。
「ではエリオ君、よろしくお願いします」