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クレネストがそう考えたとおり、南海岸の土砂の流出は、すっかり収まっていることが分かった。海は数日で元通りになり、地上に塩がわくこともなくなるだろう。
書き終えた報告書の端を、クレネストは机の上で軽く叩いて揃えた。
「はぁ、これで明日には教会に戻れますね。サイシャさん、お願いできますか?」
下半身だけ下着姿のまま、ベッドにうつ伏せになっているサイシャにクレネストが尋ねる。
彼女は口もとで、なにかの干物をかじりつつ、口を開いた。
「いいけどさぁ、もう少しゆっくりしてけばいいのに」
「調査のためとはいえ、巡礼中の身です。それに、あまりお世話になるのも悪いですよ」
言って、ペンと書類をしまうと、椅子から立ち上がる。
「エリオ君の所へ行ってきますね」
「え? えー、ああうん」
サイシャの目が変な風に泳いだ。
妙な違和感にクレネストは、「すぐ戻ります」と断ってから、サイシャの部屋を出る。
暗い廊下を歩き、エリオのいる部屋の前に立つと、ドアを数回軽く叩いた。
すぐに返事があり、すこし待つとドアが開く。中から彼が顔を見せた。
「よろしいですか?」
「どうぞ」
そう言って、エリオが体を退けて頭を下げる。
クレネストは、そんなエリオの頬をそっと撫でつつ部屋に入った。
彼の体が一瞬ぴくりと動くのを感じる。
そんな彼を一瞥してから、そのまま窓辺へと歩いていった。
晴れ渡るポッカ島の夜空は、億の星が見える夜空だ。村の寂しい明かりと、豪華な星空に挟まれて、マーティルの大樹の姿を借りた世界の柱が青白く輝いている。
思い描いた通り、我ながら会心の出来栄えだ。
「ここからは見えるんですね」
「はいその……驚きました」
エリオの言葉に、クレネストは両手を口元に添えて密かに笑う。まるで悪戯の成功した子供のような気分だった。
彼が驚いたのは、マーティルの大樹が巨大化したことではない。マーティルの大樹があたかも巨大化したかのような、世界の柱であったということだろう。
彼に伝えていなかったのは、どんな反応をするのか楽しみだったからだ。
クレネストはエリオの方へ向きなおり、窓枠に腰をかける。
「なんにしましても、昨夜はご苦労様でした」
「いえ、僕はたいしたことはしていませんし――」
と言って、エリオがベッドにどっかりと腰を下ろし、顔面を手で覆う。
その少々やつれた様子に、クレネストは心配して声をかけた。
「やはりまだ、疲れが残っていますか?」
「えー、ああ……いえー、まぁ……はい」
歯切れの悪い彼の返事。クレネストは短い息をもらすと印を切り、法術で部屋を防音する。
後ろ手に組み、エリオの前まで歩み寄った。
「……気がかりですか?」
「ええ……何者なんでしょうかね? マーティルの大樹を破壊しにきたと言ってましたが、そんなことしてなんの得があるんでしょう?」
言って彼は、昨夜大男に打たれた腕をさする。そこはアザになっていたが、法術で治療したので、もう痕は残っていない。
もっとも――クレネストの強化法術がなければ、アザどころではすまなかった。
「そうですね……滅亡主義者達なら、我々に責任を被せてマーティル教徒と争わせる、そういう卑小な考えを起こしてもおかしくはないと思います。ですがあの方達は、滅亡主義者とはとても思えないのです。それに――テスちゃん……あんな可愛い子が滅亡主義者なわけがありません!」
「ちょっ! クレネスト様、落ち着いてください!」
気がつくと、エリオが額に汗しつつ、わたわたと両手を振っていた。
いつの間にか身を乗り出して、無意味に彼に詰め寄っている自分の行動にハッとする。
クレネストは慌てて身を引き、顔を赤らめつつ、コホンと一つ咳払い。
「まぁ、何処の誰が何を企んでいたとしても、私達のすることは決まっていますし、できるだけ関わらないことです」
「お言葉ですがクレネスト様。知ってのとおり、今ノースランド国では不穏な動きをする輩が現れています。その上、テスタリオテ市に続いてここでもまた、こんなことがあったわけですから」
「ええ――」
エリオの意見にクレネストは、片手をあごに添え、考えるようにうつむく。
彼の言うとおり、大震災以降それに乗じてなのか、テロ事件が相次いで起こった。今回のこともテロ行為であるし、なんだかんだ言って、そういう者達と衝突してしまっている。
「クレネスト様、ひょっとしたら――これは僕の想像なんですが……えっと、自信はないですけど」
「はい……」
「昨日の奴等と、テスタリオテ市で会った奴等、無関係ではないのでは?」
「どうしてそう思いますか?」
「いえ、なんとなくなんですが……滅亡主義者以外に、星導教会を目の敵にしてそうな奴等がいたとしたら、さきほどクレネスト様がおっしゃっていた、嫌がらせ、というのも考えられるのではないかと」
そこで、先日戦ったあの老人が言っていたことを思い出したのだと、エリオは言う。また、あの大男は禁術の特徴である、術式可視化現象を知っていた。
禁術の存在は知られていても、可視化現象を知っている者はそんなに多いのだろうか? と。
確かに、クレネストのような例外を除けば、それを知っているのは星導教会でも上層の一部だけである。滅亡主義者達以外なら、真っ先に思い浮かぶのは、禁術を実際に使っていたあの青年だ。
白鳳と大蛇の紋章を持つ組織に関わる、あるいはその内部の者であるなら、それを知っていても不思議ではない。
「テスちゃん……あの女の子は――人を遥かに超えた身体能力と反応速度、耐久力を持っていました。いかに強化法術を駆使したところで、ただのお子様にあのような動きはできません。しかし、なんらかの薬物を使っているのだとしたなら……」
「薬物ですか。セレストやテスタリオテ市での事件でも薬物が使われてましたから、それと関連が?」
クレネストは沈鬱な表情で頷く。
あの超絶的な能力のために強力な薬物を投与されているのだとすれば、あまりにも痛ましい事実である。しかし、あの大男のテスを見る目は、そんな実験動物を見るような目ではなかった。慈しむ心というか、場違いに温かいものを感じた。そういう点では、そんな惨いことをするだろうか? という希望にも似た疑念はあるのだが。
「想像が正しければ、彼らは例の紋章の組織です。マーティルの大樹を破壊するという行為は単なる嫌がらせ、ではないかもしれませんね」
エリオは「うーん」と唸り、膝の上で両手を組みながら、前のめりになって頭を下げている。
彼なりに何か、今後の対策を考えているのだろう。
確かに、今回のような邪魔が入ることも今後は想定しなければならない。
クレネストはそんな彼の右肩に、そっと手を添えた。
「エリオ君、明日教会へ戻ります」
「――あ、はい」
「大陸への船が出港するまでは、まだ日がありますので、その間に体を休めておいてください」
そうエリオに言い残し、クレネストはサイシャの部屋へと戻った。