★☆3★☆
闇に包まれていた部屋に、青白い光がぽつりと浮かぶ。
ギシギシという音をたて、ゆっくりとそれは近づいてきた。
眠る青年の傍らで立ち止まり、
「だれだっ!」
エリオは飛び起きて身構え――
それを見て目を丸くした。
「はぁ、私ですよエリオ君」
ささやき声にも似た……いや、実際ささやき声なのだろう。
いつもよりも数段掠れた女の子の声。
「クレネスト……様?」
星動灯のわずかな光の中、恥ずかしそうに目を逸らしている少女が立っていた。
(え、えーと……これって? あーあれか……いやまて、あれっ? なんだこれ?)
眠さもたたって、思考が定まらない。
とりあえず、順をおって考えてみる。
今は夜、たぶん真夜中。自分の部屋に、こっそりと尋ねてくる寝巻き姿の少女。恥ずかしそうにしている。
――そこから導き出されるものは?
「夜這い?」
「違います」
「ですよねー」
そう言って、エリオはベッドの上にあぐらをかいた。
別に寝姿を見られても気にはしないが、クレネストの方は相変わらずの様子である。
暑いので、脇にどけておいた掛け布団を羽織って、体を隠した。
「このような夜更けにすみません」
ぺこりとクレネスト。
「ええとークレネスト様、前にも言いましたが――」
「はい、わかっています。でも……その……」
少女の視線が落ちる。
何かを言いづらそうにしている感じ、以前にも見た。
おそらくは、なにかとても重要な話だと思うのだが――
「一体どうなされたのですか?」
「ほ、本当にこのような時間にすみません。でも、今日中に話しておかないと、決心が揺らぎそうでして……」
今度は探るかのように、クレネストの瞳がこっちを見たり、逸らしたりを繰り返す。
彼は嘆息した。
ここまで来て、この人に信用されないというのは、とても悲しく悔しい。
エリオはあぐらを解いて、ゆっくりとベッドから降りた。
少し屈んで、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめながら、その両肩に手を置く。
「ぁ……」
ぴくりと震える感触。
少女は体を硬くし、困ったように眉を下げ、
「あの、エリオ君……?」
「それは、世界観B計画についての話……ですよね?」
構わずそう続けると、しばしの間をあけてから、クレネストは小さく頷いた。
「なら、僕とクレネスト様はもう共犯関係なんですよ? ですから、どうかそのようなお顔をされないで」
翠緑の瞳に、彼女を見つめるエリオの真剣な顔が映っている。
硬くなっていたクレネストの肩から、徐々に力が抜けていき、その口から細く長い息がもれた。
そう、思っていたら――
「パンツ一丁で、そんな顔をしないでくださいよ!」
エリオはいきなり突き飛ばされた。
突き飛ばされた彼は、そのままベッドに膝裏がひっかかり、カクっと腰を落とす。
彼女の肩に手を置いた時、掛け布団が後ろ側へ落ちていたのだった。
クレネストは目をつぶってコホンと一つ咳払い。
「用件ですが、次の代償の話です」
急いで掛け布団を羽織りなおしているエリオに、クレネストが言った。
「代償、ですか」
「ゴラム市から北西、四〇セルほど行ったところに、何があるのかご存知でしょうか?」
その質問は簡単だった。普通は学校で習う。
「ゴラム監獄ですね」
「はい」
「元は捕虜収容所だったらしいですが、現在は刑務所になっていると習いましたが?」
「そのとおりです。ノースランド国最大の刑務所で、現在の囚人数は約八千人以上の大所帯――これは申し分ない数です」
「…………」
エリオは思わず沈黙した。口が半開きになっていたような気がする。
話の流れ的に、それはつまり――
「まさか」
「たぶん、そのまさかです」
一瞬めまいがして、片手で顔を覆うエリオ。
(なるほど、言いづらいわけだ)
身震いし、頭を左右に振ってから、確認するため口を開く。
「それらの囚人を代償に、ですよね?」
クレネストは、小さく頷いた。
エリオのとなりに腰を下ろし、宙を見つめる。瞳は重く、口元は硬い。
「他に方法は?」
「ありません――あるわけがありません」
それは……そうなのだろう。
エリオは、がっくりとこうべを垂れた。
世界の柱はおそろしく強大で大掛かりな禁術。
故に、代償も相応に大規模なものとなるため、そうそう代えなどきかないのだろう。
「人という代償が必要な理由は、『防衛』能力を付与するためです」
それは、非常に強力な兵器でもあり、新世界を守る軍隊であるとクレネストは言う。
人は、世界で最も知能が高い生き物。その本質は術式にも伝わっているらしい。その術式が、どうしても『防衛』に欠かせないとのことだ。
クレネストはさらに熱心に説明してくれた――
……が、悔しいことに、エリオに理解できた部分はそれだけだった。
とはいえ、彼女は彼女なりに、精一杯説得しているつもりなのだろう。
あまりに理屈っぽくて、以前サイシャがそう評していたように、人によっては酷く冷淡に見えてしまうかもしれない。
(この方は、こういうやり方しかできない。他のことはあんなに器用なのに、感情を伝えることだけは苦手なんだろうな)
囚人といえば犯罪者だ。だからといって、代償にしてしまっても良い理由になるわけがない。
巻き添えには、何の罪もない、職員、看守等だって含まれる。その数にしても、あの大監獄――当然、少なくはない。彼女はだからこそ、あんなにも言いづらそうにしていたのだ。
冷静な説明と、眠そうな瞳に隠蔽された彼女の思い。
どんなに心がやりたくないと言っても、彼女はそれを握り潰すだろう。エリオ自身も、かなりの抵抗感がある。今も心の奥底で、大量殺人への恐怖感がくすぶっている。
死刑囚だけではどうか? と、エリオは合理的に考えてもみるが、どちらにしても、刑務所全体を世界の柱の範囲に巻き込んでしまうのだろう。
彼は難しい顔で考え込み――そんな彼を、クレネストは横目でうかがっている。
不安がられているのだろうか?
(くそっ!なにやってんだ俺は!)
あんな偉そうなことを言ったのに、ここへきて今さら答えにもたつくのかと、心の中で自分を叱咤する。
どちらにしてもやるしかないのだ。
「少々驚きましたが、わかりました。そのつもりで準備をしておきます」
エリオがそう答えると、クレネストは頭を下げ、すぅっと息を漏らした。
安堵のため息なのだろうか?
立ち上がり、彼に背を向けたまま、彼女はしばし沈黙する。
重苦しい空気が二人の間を流れ――
やがて少女が、ポツリと自虐的に呟いた。
「私は……大罪人ですね」
「それは!」
仕方がないことだと言おうとして、彼は言葉を飲み込む。
そのような陳腐な言葉でよいのだろうか?
大局的にみれば、彼女のしていることは正しいことのはず。ここでそれを否定し、行動せず、全てが終わるのは愚の骨頂。それがはたして大罪といえるのだろうか? たとえ人殺しであったとしてもだ。
それを罪というならば、互いに正義を主張して、戦争を繰り返してきたこの世界はなんだったのか?
(いや、いやいやいや……そうじゃなくて……あぁもぅ、くっそぅ!)
一体どう声をかければ良いのだろう? エリオは焦る。
彼女は理由を言えば、それで納得してしまうかもしれない。でも、それはなにかが違う。
本当にそれで、この娘は……救われるのだろうか?
必要な結果を得るために、何かを犠牲にする場面など、往々にしてあるものだ。すべてがハッピーエンドで終わる、理想の夢物語みたいなことなどならない。だけどこの娘は、一番肝心である自分の心すら犠牲にしているのではないか?
「さて、今日はもう遅いので、私は戻ります。暑くて寝苦しい夜なので大変でしょうが、よろしく頼みますよ」
言ってそのまま立ち去ろうとするクレネスト。エリオは思わず、反射的にその腕を掴んでいた。
一瞬びくりとし、ゆっくりと振り返る彼女――その目を伏せて、
「エリオ君……痛いです」
慌てて彼は、掴んでいた手の力を緩めた。緩めるだけで離さず、エリオは立ち上がる。
仕方なさそうに、クレネストは彼の方へ向き直った――
(いま必要なのは理屈じゃない……)
もともと、たいして器用ではないのだ。
ただですら、女心なんてわからないのに、この少女を前にあれこれ策を弄するのは愚かしい。
もう理屈ではなく、本心を――正直に本心だけを伝えよう。
「クレネスト様は正しいです。そして僕は、いつだってあなた様の助祭です」
息を呑む音が聞こえた気がした。
表情は相変わらずだが、クレネストは何かを言おうとして、やめているような、そんな素振りを繰り返す。
はたして、このような言葉でよかったのだろうか? 彼には自信がない。
しばしの沈黙――
クレネストがゆっくりと、エリオの手を外す。
「クレネスト……様――?」
「すみません、少々弱気でした」
そう漏らしつつ、少女は後ろ手を組んで、一歩下がった。
眠そうにエリオを見上げて、彼女は続ける。
「具体的な計画は、また後日改めてお話します。今日はもう本当に、戻りますね」
調子を取り戻してくれたのだろうか? 佇まいはしっかり、はっきりとした声でクレネスト。
ひとまずエリオは安堵の息を漏らし、
「はい、クレネスト様……おやすみなさい」
言って、ベッドに腰を下ろす。
「おやすみなさい、です」
少女の姿が暗闇の中に沈み、星動灯の青白い光が遠ざかっていく。
扉を開けて、それから静かに閉める音。
彼女の去っていく気配を感じつつ、エリオは掛け布団を脇におくと、そのまま仰向けになった。
★☆
自室に戻ったクレネスト。
はぁっといつものように一息ついて、ベッドの前に辿りつく。
と、そこに眠っている子が目に入った。
――その有様をしげしげと観察する。
寝巻きのボタンは全て外れていて、上半身は完全に脱げてしまっている。
シャツをたくし上げた状態で、可愛らしいお腹とおヘソを露出していた。
よっぽど暑かったのだろう、大の字に手足を伸ばして、寝苦しそうだ。
それにしても、いささかはしたない格好――
とはいえ、
(暑いですよね、仕方ないです)
クレネストもボタンを三段ほどはずして、胸元まではだける。
テスの居住いを正してから、自分もベッドへ横になった。
「はいるのじゃ~はいるのじゃ~」
むにゃむにゃとした声音の寝言が横から聞こえる。
(……何が?)
何かの夢なのだろうが、変なところで内容が気になる。
「え、りお殿~そこはらめなのじゃ~」
クレネストはうっすらと片目を開けて、テスの様子をうかがった。
「て~すのパ……ンつ、に見とれておりゅ場合でゃ、ないじょ」
クレネストの額に、暑さ以外の汗が流れる。
鈍い彼女でも、さすがによからぬことを想像する。
一瞬焦って、テスを揺り起こそうとするが、考え直した。
(……いえいえ、エリオ君とテスちゃんに限ってそれは――ですね)
「もっと、触ってみょ、いいのじゃよ?」
「!!」
今度こそ――
テスを起こそうとして、その肩にクレネストの手がかかる。
「関節もら~い! ほりゃまたテスにょ勝ち、つぎじゃつぎー」
(…………)
拍子抜けした表情で、テスを見つめ――やがてクレネストは、ほっと息をつく。
思わず、その頬をぷにっとひとつつき……
テスは、むにゃっと漏らして寝返りをうつと静かになった。
(そういえば、戦闘訓練でもしててくださいと、言ってましたっけ)
再び目をつぶり、仰向けになるクレネスト。
(あのエリオ君がテスちゃんと手合わせですか)
それを想像すると、少しおかしくなって笑みが漏れた。
エリオの手合わせ相手にテスは適任だと思う。でも彼は、どうにも負けん気が強いということが問題だった。
どう考えてもエリオに勝ち目はない。それはエリオ自身もよくわかっているだろう。
負けることは彼のプライドに大きく傷がつく。
訓練とはいえ、それでも彼は嫌がるだろう。
そこをあえて捻じ曲げたのであれば、司祭として評価したいとおもった。
一人の女の子としてはどうなの――?
ふと、その言葉が浮かぶ――
どうしてここで、サイシャの言葉を思い出してしまうのか?
クレネストは眉根を寄せた。
あなたの為に凄く頑張ろうとしてる――
(……まさか、私のために?)
思わず胸元でこぶしを作り、肩を竦めた。
悪い――気はしない。
でもなぜ、自分のためなのかがわからなかった。
あなたが怪我したことを相当気にしていたみたいだね――
(あの時、私が怪我をしたから? そんな程度のことで……?)
フェリス司祭はそう言っていたが、それでもそのくらいで、彼自身の根幹たるプライドを捨てられるのだろうか?
自分は彼のことを慎重に見極めたつもりだ。
それでもまだ、彼のことをどこか見誤っているのだろうか?
それに――
(なんなのでしょう? 怖い――? いえ、期待? 予感?)
胸のうちに変なものがくすぶっている。
苦しいのか、嬉しいのか、悲しいのか、自分自身の感情がわからない。
ただ、彼は自分が望んでいること以上のことをしようとしている。
あなたはそれに応えてあげられるの?
(応えてあげること――では、あの子は私になにを望んで……)
エリオは自分が助かりたいから、自分についてきた。あるいは自分の家族を守るため――いや、それは違う。
少しはそういう打算もあるのかもしれないが、それだけでプライドを捨てるなんてことはできない。怠惰に寄生するだけだ。
彼の言葉の中から、その答えを探してみる――
あれでもない、これでもない。
探せど探せど見つからない。
まるで堂々巡りみたいな、自分との対話を続け……
巡り巡り――
巡――
――――
自分は眠っていたのだろうか? 外が明るくなりかけていた。
眠っていたような、そうでないような感覚。
結局、答えは未だに見えず。クレネストは半身を起こした。