二章・陰鬱なる鐘の音
早朝――クレネストが病室へ入ると、マシアスがベッドの上で半身を起こし、食事を取っているのが見えた。つきそいをまかせていたエリオが、ご飯をこぼさないよう世話を焼いている。
「目を覚ましたのですね」
クレネストがそう声をかけると、エリオが振り向いた。マシアスも顔を向けて、口と目を真ん丸くする。自分の姿を見て驚いている様子だ。
そういう反応をされるのは、特別驚かない。ただ、この子の表情はたまらなく可愛い。保護したい欲求にかられて、一応自分にも、そのような母性があるのだろうかと考えてしまう。
「あ、クレネスト様おはようございます。テスちゃんもおはよう」
「おはようなのじゃ」
「はい、おはようございます」
互いに挨拶を交わす。クレネストはマシアスの方へ歩いていった。後ろからはテスが、ちょこちょことついてくる。
「えっと、ぼく……おはようです。お姉さんは司祭で、クレネストと言います」
少し屈んで、マシアスと目線の高さを合わせてから、クレネストはいつもより柔らかい声音で言った。
「は、はい! おはようございます星の妖精さん。ぼくはマシアスです」
長い耳をぴんっと張って、緊張した面持ちで挨拶を返してくる。
またもや妖精扱いされてしまった。いつものこととはいえ、少々照れくさいし困りもの。病室に入ってきた時の反応から、たぶんそうだろうなとは思っていたが。
それを特には否定もせず、男の子の頭を撫でながら、クレネストはそっと笑みをこぼした。
「はい、マシアス君ですね。よろしくです」
クレネストは姿勢を戻すと、いつものように後ろ手を組む。振り返ると、エリオが苦笑いを漏らしていた。彼女が頬を膨らませると、彼はすぐに笑いを収め、誤魔化すように咳払いをする。
「……この子に、状況を説明しましたか?」
表情を戻して、クレネストはエリオにそう尋ねた。
「はい、それは先ほど、院長先生の方から――」
「そうですか」
気の重い話だったので、クレネストは胸を撫で下ろす。見る限り、特に取り乱している様子もなく、体の方も大丈夫そうだった。
「あの、妖精さん」
まるで女の子のようなマシアスの声。妖精さんは止めて欲しかったが、小さな子供の夢を壊すわけにもいかず――クレネストは仕方なく向き直る。
「どうしました?」
クレネストが聞くと、マシアスは一度視線を落とした。躊躇っているのか、時折こちらの様子をうかがっている。
言い出しづらいことなのだろう。無理に聞こうとせずに待っていると、やがて小さな声でマシアスが口を開いた。
「ぼくの耳が長くなっちゃって。みんなぼくのことを病気だ、気持ち悪いといって苛めます。お父さんもぼくのこと怒って、お母さんと喧嘩して……それでこの町にきたんです。でも、ここでも苛められて――星の妖精さんは、ぼくの耳はおかしいと思いますか? 病気なんですか?」
聖職者をやっているとよくわかる。迷い苦しむ者の目だ。その幼い瞳がクレネストを見つめている。
星渡ノ義眼で確認したところ、個人差以外の基本的な身体構造は、普通の人間と変わらない。ただ一部の要素に、これまで見たことがない変化があった。おそらくは、なんらかの術的要因。
原因はわからないが、体の健康には問題がないし、ましてや病気でもない。他者に脅威となるところは、一つも見当たらなかった。
(可愛そうに、なぜ耳が長いだけでこうも忌み嫌われなければならないのでしょう?)
クレネストも、青みがかった銀髪に翠緑の瞳などという特異な姿だ。星の御使いと容姿が似ているというだけで、珍しがられることはあっても、特別苛められるようなことはなかった。これが別の特徴だったなら、自分もマシアスと同じような目に遭っていたのではないだろうか。
この子は悪くないのに、あまりにも理不尽すぎる。
「星の妖精さんも、ぼくのこと嫌いですか?」
あまりにいじらしくて、クレネストは優しくマシアスを抱き寄せた。
「いいえ、マシアス君が良い子にしていれば、嫌いになることなどありません。怖い病気ではないので、安心してください」
率直な自分の思いを伝える。息を飲む音が聞こえた。
体が離れるとマシアスは、すがるような目でクレネストを見上げ、
「て……テスも、嫌い……じゃないのじゃ」
躊躇いがちなテスの言葉。クレネストは驚いた。マシアスも驚いて目をぱちくりさせる。
ノースランド国民を憎んでいるはずのこの子から、まさかそのような言葉が出ようとは。
「マシアス君。ぼくも君の味方だからね!」
エリオが続いて声をかけ、胸の前でぐっと右手の拳を握る。
心の内でクレネストは、二人の好意に感謝した。
朝食の後、クレネスト達はすぐにレーン町を出発した。
「こちょこちょこちょじゃ」
「あははははは、おねーちゃんくすぐったいよぉ」
「うむ、おねーちゃんか……いい響きじゃ、もっと言ってよいぞ」
マシアスを膝の上にのせ、いじくりまわしているテスは、なんだかご満悦の様子。
後部座席ではしゃいでいる子供達を微笑ましく思いつつ、クレネストは左側に広がる海を見ていた。
青々としているのに海底がはっきりと見え、水面では光の粒子がチカチカとはじけている。南国でのバカンスにはもってこいの静かな海。それは巨大な湾になっていて、その先に目的地のトリスタン市がある。
いつもどおりの長い道のりであったが、はしゃいでいる子供達のおかげで退屈はしなさそうだ。
「エリオ君。もうしばらく進んだところに火山谷があるのですけど、見学していきませんか?」
「お、いいですね!」
「入口前に旅の駅もありますので、そこで昼食をとりましょう」
「はい、わかりました」
到着は少し遅れるが、そこまで急ぐ必要もない。子供達にも良い刺激になるし、エリオもなんだか嬉しそうだ。
初めての巡礼でも立ち寄った場所なので、なるべくその軌跡を追って行きたいという思いもあった。
(それに、あそこのゆで卵がとても美味しいのです)
クレネストは、昔食べた味を思いだし、にやける口元をこっそりと隠すのだった。
海に夕日が沈む頃――
ようやくトリスタン市が見えてきた。
うろこみたいな幹と、羽状の大きな葉をつけた、この地方特有の並木が続いていく。
市街地に入ると、
「えっと、この先の信号を右です」
クレネストが地図を示しながら、道案内をする。エリオは言われたとおりに星動車を走らせた。
統一感のない、大小様々な家屋が続く住宅街を抜けて、街の中心を目指す。
夜の帳が下りてきても、街は明るく賑やかだ。
特には何事もなく、数十分後には、トリスタン市星導教会本部に到着した。
「九時間ちょっとですね」
エリオが言っているのは、ここまで来るのにかかった時間。
車を降りて、きゅ~っと声を漏らしながら、テスが体を伸ばした。マシアスがそれを見て真似をする。そのあと、フードを目深にかぶって長い耳を隠した。
「宿舎はこちらの方です」
クレネストが先頭に立ち、案内する。宿舎は本堂と渡り廊下で繋がっており、首都セレスト星導教会本部と構造が似ていた。大きさは二周りほど小さかったが。
事務室の窓口で受付を済ませ、鍵を受け取り、部屋で荷物を降ろしてくる。
教会の食堂は、本日終了の札が掲げられていたので、仕方なく外へ食べに行くことにした。
事務の人に、どこか良い店がないか――尋ねようとしたその時。
「クレネスト司祭にエリオ君じゃない!」
聞き覚えのある声がした。
そちらを振り向けば、喜びと驚きが入り混じった表情で、こちらを指を差している女性が一人。
青味のある長めの黒髪に、愛嬌のある顔立ち、そしてバウンドする豊満な胸。
その人はまさしく、テスタリオテ市で世話になったフェリスだった。
彼女は今、司祭服ではない。胸元が大きく開けた薄紫色のワンピース姿。長いスカート部分はタイトで布地は薄く、スリットが入っている。歩くたびに魅惑の生足が見え隠れしていた。
刺激的な大人の服装と、着こなしの色香に、口を三角形のようにしてクレネストは呆然としてしまう。
「フェリス司祭、奇遇ですね……」
なんとかそれだけ搾り出し、両手を揃える余裕もないまま、クレネストは一礼する。
すると、にぱぁっとフェリスは笑みを浮かべて、クレネストに飛びついた。
「しっかりやってたんだねぇー! もしかしたらと思ってたけど、また会えるなんてお姉さんうれしいよぉ~」
「フェリス司祭こそ、色々とあったそうで、ご無事でなによりです。ところで、苦しいです」
胸の谷間に顔を挟まれて、クレネストは呻いた。
「あっ、ごめーん」
腕を解いて、フェリスがぺろっと舌をだす。それからクレネストの後ろに居並ぶ三人に目を移し――
「お、クレネスト司祭にもついに子供が!」
「……いえいえ、大きすぎますから」
「だよね~! あっエリオ君も久しぶり、元気してた?」
笑顔を絶やさずにそう言って、フェリスがエリオの手を握った。
今、なんだか彼の目が、一瞬フェリスの胸元を見たような気がして、クレネストは眉根を寄せる。
あの質量だ、男が思わず目を奪われるのも仕方がない――と、頭では理解するものの、ついムっとしてしまう。
「はぁ、お、おかげさまで」
と、上ずった調子でエリオ。フェリスが体を近づけると、顔がゆるけた。
あまりのだらしない表情に、クレネストがジト目で睨む。それに気がついたのか、エリオはゆるけた顔のまま固まって青ざめた。
一度目を閉じて、嘆息してからクレネストは口を開く。
「この子達は、故あって預かっているのです」
「あ~なるほど~奉仕活動かぁ……」
「フェリス司祭はどうしてこちらに?」
クレネストが聞く。
「ん? 私の方はね――あんなことがあった後だから……療養のために休みをもらっちゃったのよね。個人的にはそこまでショックでもないんだけど。ま、折角だからあちこち回ってバカンスを楽しんでるよー」
苦笑してフェリスは言った。あんなことと言うのは、テスタリオテ市星導教会本部が全焼してしまったことだろう。
「そうでしたか」
テスの手前、クレネストはそれ以上のことを詳しく聞かなかった。
「そうそうレイオルも一緒だよ。今、部屋にいるけどね」
フェリスの口から出た名前に、クレネストは一瞬考え、すぐに思い出す。
それほど印象には残っていないのだが、テスタリオテ市に滞在中、顔を合わせた男の司祭だ。
「お二人で旅行を? ひょっとしてお付き合いされてるのですか?」
「えへへー、この際だから付き合っちゃおうってなってね~。お互い独り身だったし、この歳になると周りもなにかとうるさくてさ~」
「でしょうね」
納得して、しみじみとクレネストは頷いた。自分も決して人事ではない。
星導教は、星の子を産み増やすということに関して、非常に敏感な宗教だ。
南大陸における他の宗教。例えば、神という存在に仕える女性は、処女性を保たなければならない――そんな制約がある宗教も存在する。
星導教ではそのような縛りはなく、むしろ男女の交際や婚姻は、おおいに奨励されていた。というのも、人間もまた、ステラの源泉という理由がある。
司祭といえど、二十歳を超えて付き合いもなければ、男女問わず、何かと小言を言われるのだろう。
「ところで、クレネスト司祭はいつまでここにいるの?」
唐突というほどでもないが、フェリスが何かを期待する空気感で聞いてきた。
「今さっき、到着したばかりなのですが……少々私もエリオ君も疲れが出ています。子供達のこともあるので、三日ほど滞在して、休息をとってから出発しようと考えています」
「わはー! ならさー、みんなで海へ泳ぎにいかない?」
クレネストの両手を取り、勢い込んで言うフェリス。
「いえ、私達は巡礼中で……休むといっても奉仕活動は」
後ずさりしつつ、クレネストは言い訳するように答えた。とはいえ、フェリスもそれは分かりきっているだろう。
「あーここの教会さ~人手はかなり余ってるくらいだから、一日くらい大丈夫だよ~」
「……いえ、ですがその……私、泳ぐといっても水着とか持ってませんし」
「大丈夫大丈夫、そんなの買ってくればいいじゃない。エリオ君だって、クレネスト司祭の水着姿見たいでしょ~?」
フェリスが言った途端、マシアス以外の視線がエリオに集中した。
彼はちょっとうつむき、顎に手を当てて、真顔で少し考えて――
「そそそそそ、そんな! 恐れ多くもクレネスト様のそのようなお姿は!」
わたわたと手をふり、狼狽して声を張り上げた。
「あらぁ~、見たくないの?」
ネコみたいに口元を丸くしながら、流し目でエリオを見やり、甘い声音でからかうように聞き返すフェリス。
「いえ、それはその……そんなことはございませんが……そういう不埒な考えはどうかと思う次第でして」
そう呻くエリオと視線が合った。
彼は気を使って言葉を濁している。それは分かる。
だからこそ、なんだか余計に恥ずかしくなって、クレネストは頬を染めてうつむいた。
水着など、助祭になってからは一度も着た事がない。体に自信もないし、似合うとも思えなかった。
「ほら、エリオ君も見たいって言ってるんだし、行こうよ」
フェリスが後ろから抱き着いて、耳元で囁く。
どちらかといえば、フェリスのような凹凸の激しい女性の方を見たがるだろうと――そう考えながらも、
「はぁ……エリオ君とテスちゃんは海、行きたいですか?」
仕方なく顔を上げて、そう二人に聞いてみる。
「気分転換になりますし、よろしいかと思いますけど」
「うむ、同感じゃ」
観念してクレネストは息を吐いた――
「わかりました。明日の午後からでよろしければ時間を取りますので」
「やた!」
指をパチンっと鳴らして、フェリスが喜びの声を上げた。