二章・緊張と弛緩の隻影
早朝から一通りの雑用を終えたエリオは、セネナの病院へと足を運んだ。
特にクレネストの容態に変化があったわけではないが、こまめに経過を報告するようにと言われていた。
場所は教会の敷地内。というわけで、歩きで十分。
太陽が雲に隠されて、少しだけ薄暗くなった道を進んでいると、すぐに病院が見えてきた。
(あれ? 何かあったのかな)
その玄関前に、人が集まっていた。
人数は――人垣というほどでもないが、何らかの様子をうかがいつつ、ヒソヒソ話をしているように思える。
(もしかして急患かな?)
だとすれば、出直すしかない。
そう考えながら、一応確認するべく、エリオは病院の方へと近づいていった。
すると、
(え? 泥棒?)
人々が注目しているのは玄関扉。その状態を見て、人々と同様にエリオも眉をひそめる。
扉は二重構造の分厚いガラス板で作られていて、縁には鉄製のフレームがついていた。
それが斜めに切られていて、三角形になった下半分が、律儀にもすぐ横の壁に立てかけられている。
おそらく、その穴から賊が侵入したと考えて、
(いやまて、どうやって切ったんだよこれ!)
先入観念で、ただの泥棒と決めつけてしまうところだったが、この扉の状態は普通じゃない。
二重構造のガラス板を綺麗に揃えて、フレームごと真っ二つ――工場ならともかく、この場でそんなことが可能だろうか?
時間をかければ可能としても、ただ物を盗むにしては酔狂がすぎるだろう。
「お金は盗られてなかったし、特に無くなった物もないけど……」
知っている声が聞こえた。目を向ければ病院の脇で、セネナが軍警察に事情を説明していた。
エリオは小走りで駆け寄って、声をかける。
「セネナ先生」
「あらエリオ君おはよう」
「あ、はい……おはようございます」
さしたるショックも受けてなさそうなセネナの態度に、少し拍子抜けする。
ひとまず頭を下げてから、エリオは口を開いた。
「これ、何があったんですか?」
尋ねると、
「それを調べてもらってる最中なんだけどね。犯人の目的がはっきりしないみたい」
セネナが言うには、扉が切られた以外は、特に荒らされた形跡もないらしい。ただ、何者かが院内に侵入したことだけは確かとのこと。
「悪戯にしては中途半端だしね~。まぁ、後のことは軍警察に任せるしかないかな……それよりクレネスト司祭の様子はどう?」
「はい、特に変わりがありません。微熱も続いていますし、つらそうです」
「ん~、ステラの使い過ぎでああなるなんて聞いたこともなかったけど、厄介なものね。薬で症状の緩和くらいはできても、根本的な治療にはならないみたい。今はそれで我慢してもらうしかないわ。でも万が一、急に悪くなるようなことがあったら、すぐに知らせてね」
「……はい」
「それにしても、昨日のうちに宿舎へ移動してもらってて幸いね。もしここに残っていたら、彼女達が犯人に襲われていたかもしれないし」
エリオは呻いた。
クレネストが目覚めてから、彼は宿舎の方で寝泊りしていたが、テスは同じ病室のベッドを借りていた。襲ったところで並の相手なら返り討ちになるだけだろう。むしろ、あっさり犯人を逮捕できたかもしれない。
それを知る由もないセネナの言葉に、思わず残念そうな表情を見せてしまいそうになる。
「ですね……よかったです……ほんと」
エリオはうつむき、声音を低くして、不幸中の幸いを装った。
エクリアに叩き起こされた。
今日はついに、悶絶してしまったらしい。
どうにか周囲を見渡してみると、さっきまで見物していたはずのゼクターの姿が消えていた。
ここは彼女が泊まっている宿屋の一室――自分はその床に転がっていたようだ。
「ぎぎっ……」
歯を食いしばりながら、全身の筋肉が引きちぎれたような痛みに耐え、エリオは身を起こそうとする。
ひとまず四つん這いになったまま、荒くなっている呼吸を整えることに専念した。
「はい、すこし休んだら術式の練習ね」
なんとか体を起こそうとするエリオを、一応エクリアも気遣って、肩を貸してくれる。
「ああ、ありがとう」
軋む足に力を込め、痛みに体を緊張させながら、上体をゆっくりと起こし、
「ん?」
その時エリオは、自分の体に違和感を感じた。
肩から胸の辺りで、何かがざわめいている。
(な、なんだ?)
そう思った次の瞬間。
「おぉっ!」
ぞくっとした感じが一気に膨れ上がり、言いしれない快感が全身へと広がっていった。
どうしてなのかわからず、戸惑い、同時に不安も大きくなる。
ぞくっと来るたびに、体が痙攣した。
しかしそれは、時間にして数秒の出来事――
どうなることかと思ったが、すぐに収まっていった。
「やっぱりまだ、動かすのは無理かな?」
放心していると、エクリアが心配そうに聞いてきた。
エリオは首を横に振って、その勘違いを否定する。
「いや、いまちょっと、体の中で変な感触があったんだ」
「……え?」
「一瞬ぞわってして、凄くかい……」
快感と言おうとして、口を止めた。なんか、気恥ずかしい。
おかげで言葉が中途半端になってしまい、エクリアが疑問符を浮かべてしまう。
「すごくかい?」
「じゃなくて今、ものすごく爽快な感じがしてさ……すぐに収まったけど」
言いかえても、変なことを言っているような気がするエリオ。
ただそれを聞いたエクリアの方は、目を丸くして驚いた表情をみせた。
口元を両手で押さえながら、
「ええ! もう?」
出てきた言葉に、今度はエリオの方が疑問符を浮かべる。
「もうって何が?」
「いや~、そっかー、んー、ええと……気持ちよかった……でしょ?」
「……お願いだから顔を赤らめながら言わないでくれ」
「アレしたあとみたいに」
「アレ言うな!」
「女の子の口からはっきり言わせたいの?」
「あーもう!」
エリオは髪の毛をかきむしる。
頭がピンチな人なんじゃないかと思えてきた。言葉を選んでいた自分がバカバカしくなる。
「んっんー、まぁそれはともかくおめでとう、もうこれで術路開放は終わりだよ」
「……お?」
一瞬、彼女が何を言ったのか理解が追いつかなかった。体の痛みのせいで、認知力が低下しているのかもしれない。
それでも今の一言が、理解の中枢に浸透してくるまで、さほど時間はかからなかった。
「おおおおおお!?」
感動がじわじわとこみ上げてきて、
「本当だよな?」
「嘘」
「おい!」
「いや、冗談冗談」
エクリアのノリに、エリオは顔をしかめて脱力した。
人がせっかく感動してるのに、まったく意地が悪い。刹那の間だけでも、ぬか喜びかと思ってしまった。
さすがに悪戯が過ぎたと思ったのだろうか? 悪びれた様子でエクリアが口を開く。
「ごめんごめん……でもさ、こんな短期間で大記録ね。ここまで痛いのを我慢した人も、そうそういないんだろうけど」
「記録なんかどうでもいいよ。クレネスト様を一刻も早く治してさしあげたい……それだけさ」
感心しているエクリアにそう言い返しながら、ゆっくりとベッドへ腰を下ろす。
まだ痛みが激しくて、ろくに動くことができなさそうだ。
肩を貸していたエクリアが、少し離れて向かい合うように立った。
「音声の方は大体おっけーだから、後は術式を正確に間違わず、時間以内に組めるかどうかってだけね」
「そういえばその……まだ聞いてなかったけど、このアレに必要な物ってなんだ?」
エリオが言わんとしているのは、禁術の代償のことである。念の為、その辺は言葉をぼかして伝えていた。
「ああ、そうだったね……」
口にしてエクリアは、ベッド脇に置いてある大きな旅行バッグを空けた。
代償に使う品を、既に手に入れているということなのだろうか?
しばらくして、
「ん、はい」
エクリアが手に取ったのは、紙でできた小箱。
それを手渡そうとする。
エリオは反射的に手を上げようとして、
「すまん、ちょっと動かすのはきつい」
ビリっとくる痛みに顔をしかめた。
「はい」
エクリアが箱を開けて、中の物を取り出す。
掌の上にのせて、エリオへと差し出した。
「これは、ローステラムか」
正確には、それの原石の方である。
以前クレネストに見せてもらったような、綺麗なものではない。
藍色の半透明で、ごつごつと角ばっていた。
「ふーん、まぁ星導教会の犬だし、それくらいは知ってるか……」
ひどい言われようであるが、あえて抗議の言葉は飲み込む。
「術式回路を作る材料が、魂の回路を治す術式を有す……意味ありげだと思わない?」
「ああ、なかなか興味深い話だけど、とりあえずローステラムを用意すればいいんだな? もしかしてそれ、売ってくれるのか?」
とくにおかしいとも思わず、エリオは当前のようにそう尋ねた。実際おかしくはないだろう。
だがエクリアは、きょとんと不思議そうにエリオを凝視しだす。
しばしそうして沈黙し――
吹いた。
「何言ってんの君は? 別にいいよ! あげるってば!」
大笑いしながら、ぱたぱたとエクリアが手を振る。
「いやでも、なんか悪いかな~って」
エリオは首の後ろに手を回し、遠慮がちに口を開いた。
笑いを収めたエクリアが、今度はどこか挑発するように――両腕で自身の胸をよせ、上目遣いでこちらを覗きこみながら口を開いた。
「もう、変なところで律儀だね。靴下もパンツもブラもチューも水着も拒否ったくせに」
「いや普通、それらは律儀な方が拒否ると思うが……それとパンツはなかったような?」
「欲しい?」
「欲しいって言ったらくれるのかよ!」
「ん~、一枚くらいなら」
冗談めいておらず、体の痛みがなければ頭を抱えたい気分だった。
こめかみを引きつらせつつ嘆息してエリオは、
「まぁその、ありがとう」
「ん? パンツいるの?」
「そっちじゃなくてローステラムな!」
いい加減、疲れてくるエリオだった。
もくもくとした雲が、ちぎれた綿あめみたいに沢山浮かんでいる。それらは赤と紫のグラデーションに染まってた。
遠くの山々は、燃えるような輪郭を残しつつ、黒色へと変化していく。
空は夕焼けに、黒い幕を下ろしはじめていた。群れを成した鳥たちが、山の方へ飛び去って行く。
一日は早いものだなと、いささか年増なことを考えながら、 エリオは帰路についていた。
並木で飾られた田舎道を通り、教会のある方へと向かう。
(初めて気絶したけど、何故か治りは早い感じがするな)
歩いているだけでも、体の調子はそれなりにわかるものだ。
悶絶する前の痛み具合は尋常ではなく、今日はもう、まともに動けないことくらいは覚悟していた。
それがどうだろう。
痛みはまだくすぶっているが、歩みを阻害するほどのことはない。
ほんの数時間で、ここまで回復したのは初めてのことだった。
(それになんだろう? むしろ調子がいいような?)
術路が解放されたせいだろうか? 体が軽く、五感が妙に冴えている気がする。
エリオは自分の掌を見つめながら、握って開いてを繰り返した。
その時――
「……ん?」
わずかばかりの違和感がした。掌のことではない。体のことでもない。
エリオは顔を上げて、違和感がした方向へ目を向けた。
今まで感じたことのない、警告にも似た感覚――それが十数歩先にある並木の中にまぎれている。
「そこに誰かいるのか?」
エリオは立ち止まり、声をかけてみた。
すると、
「はぁ、この距離でバレるのか。思っていたよりも面倒臭いな」
不貞腐れてがっかりした感じの、ボソボソと暗い声が聞こえてきた。
ゆっくりと――並木の影から、幼い子供を連れた青年が現れる。
エリオは息を飲んだ。
まず第一印象として、とてつもなく嫌な目つきだった。光を宿さず、淀み、腐っているかのよう。全身に覇気がないどころか、精気があるのかすら疑わしい。
白髪で、服は赤いコートを着込んでいた。
「……お前は、まさか……」
直接面識はないが、クレネストから聞いていた特徴そのものだった。
間違いない。
(テスちゃんを瀕死に追いやった奴!)
名前も聞き覚えがある。確かジルと言っていた。
だとしたら、相当に危険な状況だ。エリオはまず、自分を落ち着けるために呼吸を整えていった。
連れている子供は人質だろう。怯えて涙を流しているのは、耳の長い女の子。
ジルはその子の頬を撫でながら、ぼそぼそと言う。
「……クレネスト司祭が入院していたらしいが、病院にはいなかった。どこへ行った?」
「扉を切ったのはお前か? クレネスト様ならとっくにご退院だ! はた迷惑な真似するな!」
「何処へ行ったか聞いてるんだ。言葉が通じないほど頭が悪いのか?」
ぐりっと、女の子の首に指を食いこませるジル。その子は苦しそうに喘ぎだした。
「くっ!」
エリオは奥歯を噛んだ。
この距離なら、星痕杭を抜き打ちしても必中させる自信はある。
しかし――
(妙な物がありやがる。迂闊にしかけるのは危険……か……)
ジルの前方に、何と言えばよいのか――目に見えない何かがある。
はっきりと言葉にはできないが、そこだけ密度が高く、モヤモヤとした違和感があった。
(あ、あれ? なんで俺、そんなことがわかるんだ?)
自分で自分を不思議に思った。目に見えないものを知覚することができている。
理由が分からなくて、少々戸惑うが、
(いや、今はこの際どうでもいい。おそらくあれは、何らかの防御とみて間違いない。禁術を操る奴なんだ、それくらいの備えは当然か)
あれが星痕杭を防げるほど強固なのか、それはわからないが、今ここで試すにはリスクが高い。
(どうする)
考えあぐねていると、
「他にも質問があるんだ。早く答えないと、この子死ぬぞ?」
ぎりぎりと、食いこませた指先に力を込めていくジル。女の子は悶え始め、痛々しく喉を鳴らした。
(くそったれが!)
葛藤するも、この男にクレネストの居場所を教えるわけにはいかない。
憎悪の表情でジルを睨みつつエリオは、
「なら……さっさと殺してみろよ」
覚悟を決めて口にする。
ジルは掴んだ首ごと、女の子の体を片手で持ち上げて見せた。
強がりと見てのアピールのつもりなのだろうが、
「けどな」
かまわずエリオは続けた。
「こいつはその防御で防げるか?」
一瞬だが、ジルの片眉が痙攣するのが見えた。
エリオは虚をついてローブをひるがえし、原始の星槍を握る。
狙いをつけるまでの動作は完璧。
もとより失敗するなど許されない。
赤い禁忌の矛先がジルへと向けられて、
「!!」
腐れた顔に、初めて人間らしい驚愕の表情が浮かんだ。
「ぬうっ!」
ジルは急ぎ、子供の体を並木の向こう側、草むらへと放り捨てる。
それと同時に自らも、斜め後方へ大きく飛びのいた。
瞬間、
赤い閃光が走る。
目に焼き付いたように残るが、実際それは、一瞬だけの瞬きだった。
空気の壁が爆裂し、圧が地面を揺るがす。
猛烈な衝撃波と熱風が渦巻いた。
放ったエリオ本人ですら、自分の腕が吹き飛んだと錯覚してしまうほどの反動を受け、体が浮き上がる。
体勢を立て直しつつ、双眸は冷静に、その効果と状況を把握していた。
防御と考えていた違和感が、穿った部分からゆっくりと霧散して消えていく。その向こう側でジルが、文字通り地面をごろごろと転がっていた。
深手を負わせた様子はない。間一髪のところで躱されたようだ。
エリオは舌打ちして、急ぎ星痕杭を取り出そうとしたが、右腕が痺れるように痛くて上がらない。
(くっそ!)
一呼吸動作が遅れてしまった。
その間にジルは、無理に吹き飛ばされた勢いに逆らわず、体を丸めて転がったまま遠ざかっていく。勢いが弱まったところで、不健康そうな容姿に似合わず、体操選手並みのしなやかさで跳ね起きた。そのまま背中を見せて走り出す。
「待ちやがれ!」
エリオは左手で星痕杭を構えるが間に合わない。
既に有効射程距離から外れたジルは、並木を盾にしながら逃走していった。