★☆4★☆
夕闇迫る薄暗い時間。
クレネストはベッドの上で半身を浮かせ、目を見張った。その目が見ている者は、他でもないエリオである。
異国の歌のような、不思議な発声がながれ、
「え、エリオ君それは」
彼を中心にして、白い光の文字が舞っていた。くるくると円軌道を描き、彼が印を切るたびに字数が増していく。
どこで手に入れたのか知らないが、ローステラムの原石が術式となって解け消えて、さらに円陣が膨れ上がった。
やがて完成したのであろう術式は、一瞬の輝きを放ち、粒子となって虚空に散りゆく。
禁術が施行されたのだ。
同時に、頭痛でボヤけていた頭の中が、鮮明になっていくのをクレネストは感じた。本調子ではないが、つい数分前までの気怠さとは、比べ物にならないほど楽になった。
クレネストはベッドから立ち上がる。立ち上がっても大丈夫なほど、あっさりと回復している。
しかし、これでめでたしめでたしと、軽く流せるような状況ではない。
「あなたという子は……」
掠れた声に、半ば呆れの色を混ぜつつ、クレネストは口にした。
さすがにエリオが、こんな危険なことをしていたとは思ってもみなかったのだ。
(なぜ私に……そんなにも)
困る。本気で困る。
迷惑とか、軽率に禁忌を犯すなとか、そういう直接的なことではなく、とにかく困る。
そもそも、短期間の術路開放による負荷は、もはや拷問に等しいことを、クレネストは身をもって知っていた。
軽薄な精神では耐えられるわけもなく、相当の覚悟がなければできないはず。
つまり彼は、それに耐え抜いてまで、尽くしてくれているのだ。
「隠していて申しわけございません……ですが、術はこれで上手くできていたのでしょうか?」
そう言ってひざまずきながら、こちらを見上げるエリオ。その表情には、不安と緊張の色が見て取れる。
(それは問題ないのですが……)
クレネストは、実直極まりない彼の瞳を見返しているうちに、奇妙な息苦しさと胸の鼓動を感じた。
(ど、どうしましょう)
予め考えておいた”お礼”のことが、すっかり頭の中から消し飛んでしまった。なぜなら、彼の功労に、まったく釣りあっていないからだ。
クレネストはとても焦った。後でじっくりと考えればよいだけなのに、そういう発想が出てこないほどに慌てていた。
(はやく何かしてあげないと)
感謝を伝えられて、なおかつ彼にとって見合った報酬になること――いや、そんな社交辞令のような理屈は何かが違う。今の自分の気持ちはそのようなものではないはずだ。
心の底から何かをしてあげたいと思っている。司祭としてではなく人として? もしかすれば女の子として? それが難しい。気持ちの表現が苦手なクレネストにとっては、なおさらそうだった。
頭の中が真っ白になって、余計に焦りが増してくる。
それでも必死に考えて――ふと彼女の脳裏に、先日テスが持ってきた雑誌の内容が思い浮かんだ。
他にすがることのできる知識がないので、どうにも判断力が鈍ったらしい。その内容を鵜呑みにして、らしくもなく衝動的な行動に出る。
エリオの両肩に手を置きながら、クレネストは膝を折った。息がかかるほど顔が近づいた。
当然エリオは、こちらが何をしようとしているのかわからず、非常に戸惑っている様子だが、
「はいその……あ、ありがとうございました」
消え入りそうなくらいの小声で言う。それからクレネストは、エリオの頬に唇を触れさせた。
目は瞑り、しっかりと伝わるように三秒ほど――彼の頬は、思ったよりも柔らかく、触れた部分が熱を帯びていく。
初めての感触と、行為をしている自覚が、頭の方へと血液を集め……
「ん……」
吸いつく音を立てながら唇を離すと、全身にぞくっとした感じが広がった。変に甘い陶酔感があって、狼狽する。
脈打つ心臓が、胸の奥からズンズンと叩いてきて――これは、かつてないほど猛烈に恥ずかしかった。
クレネストは、唇に残った感触に戸惑い、そこを指で覆う。エリオの方は呆然としたまま、キスされた頬に手を添えていた。
顔を赤く染めあう二人――うつむいて、
「こ、こんなことで、お礼になるかどうかわかりませんが……私、他に思い浮かばなくて」
ちらちらと、エリオの様子をうかがいつつ、口を先に開いたのはクレネストの方だった。
「……い、いえ~これは怖れ多くも、身に余ることでありまして~、すぎたることと申し上げましょうか~」
のぼせた感じになっているエリオは、まるきりうわの空で答える。半端に腰を浮かせながら、ふらふらと後退していき――すぐ後ろにあった椅子にひっかかって、かくっと腰を落とした。
それを見たからではないが、クレネストもベッドに腰を下ろす。
まだ胸がどきどきとしていた。
今更ながら、とんでもないことをしてしまった気がする。
「それはその……エリオ君、すごく頑張ってくれたようですから……でも私、突然こんなことしちゃって、ご迷惑でしたか?」
不安そうにクレネストが尋ねると、エリオが弾かれたように顔を上げた。それから左右に首をぶん回す。
「とんでもない! お気持ち大変嬉しいです! 嬉しくないはずがありません!」
拳を握って、力強くそう答えてくれた。
「はぁ……そう、ですか」
クレネストは、胸の中で熱くなっていた吐息を漏らす。
いささか軽率で不埒な行動だったかもしれないが、満足してもらえたようだった。
「いやまぁ何といいますか、とにもかくにも上手くいってよかったですよ」
と、照れくさそうに頭をかくエリオ。
「はい、こんな短期間にお見事でした」
緊張していた表情を和らげて、クレネストも言葉にする。
「頭痛はしませんし、少々のだるさはありますが、これは寝てばかりいたせいでしょう。えっと、体温も一応計ってみましょうか」
体温計は、ベッド横の鏡台に置いてあった。それを手に取り、クレネストは自分の脇へ挟みこむ。
寒気の方も収まっているので、おそらく下がっているだろうとは思ったが、念の為である。
しばしの待ち時間――クレネストは別の話を持ち出した。
「そうそうエリオ君の術式を見てわかったことがあります」
「?」
エリオの浮かべた疑問符を見ながら、クレネストは続けて口を開く。
「ステラを大量に使い続けると、どの部分がどのように損傷を受けるのか? です」
それですぐに察したのだろう。エリオはポンっと手を打った。
クレネストほどの天才であれば、形式の違う術式であっても、その内容から情報を得ることくらい容易い。
「魂に張り巡らされた術式回路とはよく言ったものです。主にそれが密集しているのは脳。この回路が、ステラ放出による過負荷で損傷を受けると、発熱や自律神経の失調へ繋がる……というわけですね」
『星渡ノ義眼』でも、自分の頭なんて見ることができない。どうりで気がつかなかったわけだ。
鏡を使えば良いのではないか? と思われるかもしれないが、それでは鏡が術式になって見えてしまうだけで、まったく役に立たない。余計な式を見えないようにはできても、光を反射するという鏡の役割は戻らないのだ。
まさに盲点――
「今回のように、放置しすぎて大きく損傷した場合は……禁術……が必要になります。ですが、ケアをこまめにしていれば、問題が生じることはなさそうなので、それだけなら法術でも対応できます。そのための術を一つ、組み上げてみようかと」
禁術の部分だけを小声で、クレネストはそう話す。
エリオは口を丸くして、感嘆の声を漏らしていた。
「そうあっさりと、法術を作れるところが凄いですよね」
「ふふ、そこは自負しています。でも、足掛かりを作ってくれたのはエリオ君ですから」
「……そう言って頂けると、報われます」
実際彼はよくやってくれた。禁術を使うことすら躊躇わなかったのは、一蓮托生という覚悟の証明でもある。いつも信頼しているつもりだったが、今回のことで強い絆を得られた。
「さて、体調がよくなったので、ご飯の前に沐浴をしたいです。ここのところ、布で体を拭くだけでしたから」
立ち上がり、体温計を取り出すクレネスト。
「……やはり、熱も下がってますね」
そう伝えてから、なまっている体を伸ばした。エリオも立ち上がる。
「あ、そういえばテスちゃんはどうしたんですか?」
彼は思いだしたように尋ねてきた。
クレネストは首を傾げ、
「さぁ? あの子もじっとしていられませんから、あちこち回って警戒しているつもりなのかもです。でも、遠くへは行かないでしょうし、そろそろ戻ってくる頃かと」
それを聞いたエリオが、乾いた笑いを漏らした。
「ははは……では、僕も汗を流してこようかと思います」
「はい、ご飯の時間までには、この部屋に戻りますので」
「わかりました……ではまた」
エリオが部屋から出て行く。それを見届けてから――クレネストは、ほっと一息ついた。
(……どうなることかと思いました)
思い返しもう一度、手の平で唇を覆う。
(エリオ君も、あんなに顔を真っ赤にして……)
まじまじと考えているうちに、また頬が火照ってきた。
「はぅ……」
吐息を漏らし――
とりあえずクレネストは、寝間着から着替えることにした。
療養していたこともあって、今は飾り気のない白装束みたいなものを着ている。ようするに、旅にでる以前より使っていた自前の物。
バッグの中から上下の下着と旅装束を取り出し、ベッドの上に置いておく。それから、腰帯をほどいた。羽織っているような状態になるので、袖から腕を抜けば、簡単に脱げる。畳んでそれを、バッグの中にしまった。
下着姿になったクレネスト。緩やかな双丘は、就寝用のブラで覆われている。下は、シンプルな白のショーツをはいていた。
取り出した下着の方は、例によってフェリスからの貰い物。薄水色のブラには蝶々の刺繍がほどこされ、肩紐の付け根から乳間にかけてレースで飾られている。ショーツはそれとセットのもの。中央に、細めのリボンがついている点も、ブラと統一されていた。
ひとまず就寝用のブラを外し、普段着のブラの方へ手を伸ばす。
と――
「ん?」
すぐ外で、二つの気配が留まっていることに気が付いた。
さっきから動いていないので、一つはエリオだろう。もう一つは多分、戻ってきたテスのもの。
たまたま外で、ばったりと出会って、話をしているといったところだろうか?
そう考えていたら、
「クレネスト殿! 治ったのか!」
元気な声と共に、いきなりドアが開いた。そこには、予想通りのテスの姿――更にその向こう側では、目蓋とアゴを全開にしているエリオが見えた。
クレネストは、ぼーっと眠そうに固まる。突拍子もなさすぎて、瞬間的に思考する余裕が奪われた。
彼の顔だけが、やけに大きく見える。その眼球の向いている方向が、二段階動作で下の方へと移動していった。このような状況になれば、いたしかたのない男性視線なのだろう。
それが意味するものは何か? どこを見られたのか? それを理解するなり、
「ひぁ!」
恥じらいの悲鳴を上げ、両腕で抱くように胸を隠しながら膝を折る。手に持っていたブラをきつく握り、身を丸めた。
「うわぁっ! 申しわけございません!」
エリオも悲鳴を上げる。
切迫した状況でありながら、彼の行動は意外と的確だった。テスを部屋の中へ押し込めると、勢いよくドアを閉じる。それから、物凄い速度で気配が遠ざかっていった。
「…………」
無言で、またもや顔を真っ赤に染めるクレネスト。先ほどと違い、耳まで真っ赤に染まっていた。恥ずかしいを通り過ぎて、いまにも死にそうな気分。愕然と床に視線を落とす。
「あ、あぁ……そのじゃ」
苦笑いを浮かべ、気まずそうにドアの前で立ち尽くしているテス。
クレネストは、ゆっくりと顔を上げる。額に影を落としつつ、ジト目で過失者を睨んだ。
「い、いやぁ、あれじゃ……角度的にブラが邪魔でのう。先っぽは見られておらんのでは?」
なにやらテスは、額に汗を浮かべ、必死に言い繕う。しかし、そういう問題ではない。
「そ、それにじゃ……エリオ殿も男じゃから欲求不満にもなろう。おぬしのことを想像しながらの方が、ガス抜きにも驚きの効果が……」
「私の何を想像しながら、どんなガス抜きで、どういう効果ですか?」
淡々寒々と尋ねるクレネスト。ジト目のまま、口元が笑みの形へ変化する。不穏な気配でゆらりと立ち上がり、テスの方へジリジリと近づいていった。
「そそそそそうじゃ! てて、テスも脱いでくるのじゃ! これでおあいこじゃ!」
ドアに張り付いて、まるで命乞い状態のテス。焦りのせいか、言ってることもトチ狂ってるとしか思えない。謝罪もなく弁明に終始するとはいい度胸である。これは、教育的指導が必要と判断した。
「て~す~ちゃ~ん~」
異様に可愛らしいクレネストの怒声。
テスは絶望の呻きをもらし――
とにもかくにも、見事な悲鳴が響き渡ったのであった。