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夜もそろそろ深まりかけというのに、チルスとクルツは鉄塔の上に立っていた。もちろん工場のである。
腕ほどの長さがある白い筒――レンズが付いているので、それが望遠鏡であることはすぐに分かった――足場に三脚を広げ、なにやらチルスは遠くの山の方へとそれを向けている。
夜中にこんなものを持ち出してくるのだから、てっきり天体観測をはじめるものと、クルツは考えていた。
前かがみ気味に、接眼レンズを覗き込んでいる彼女――その背後で、なかなか良いお尻だと思いつつ、いったい何が見えるものやらと、望遠鏡が向いている方向を見てみた。
(お、なんかキラキラしてるな)
山の中腹あたりに光が見えた。虹色に輝く……とでも言えばよいだろうか? 不規則な色の変化を見せている。肉眼では点にしか見えず、正体はわからない。静止しているので、飛行物体ではなさそうだが……
「チルスが見てるのってあの光だよな? 何があるんだい?」
尋ねてみるとチルスは、
「あ……もう……生まれそう」
「えっ?」
クルツは思わず眉をひそめる。額に一筋の汗が流れた。
(な、何が生まれそうなんですかねぇ?)
彼女のお腹の辺りに視線を移し――いや、そっちなわけないだろうと、山の方へ戻す。
やはり、どんなに目を凝らしても、肉眼では光の点しか見えなかった。
(うーん?)
自分にも見せてほしいところだが、どうにもチルスは夢中だった。これでは頼みづらいものがある。そもそも声が聞こえているのかどうかすらも怪しい。
とりあえず、彼は両腕を組んで、待つことにした。
「…………」
そのまま数分がたつ――
虫の奏でるリンリンとした合唱だけが響いていたが、
「あっ! あっ!」
突然チルスが声を上げだした。
「すごいすごい! でてきたでてきた!」
珍しく甲高い声を上げて興奮している。
(生まれるってことは生き物なのか? だとしたら……もしかして竜か? でも、何で光輝いてんだ?)
ここに来てから、それなりに竜の姿を見ているが、光る竜だけはお目にかかったことはない。
首をひねり、自身のあごを撫でまわしながら、チルスと山の方を交互に眺めていると、
「ほら、クルツも見てよ!」
そう言って上体を戻し、彼女がこっちに顔を向けてくる。
目があったクルツは、一瞬うろたえた。短く鋭い呻き声を漏らす。
(な……なんだ……こんな顔もできるんじゃないか)
いつも疲弊したような表情と声音だった彼女が、嬉しそうに目を輝かせ、笑顔を浮かべている。
「あ、ああ……見せてくれるのかな?」
はしゃいでいるチルスに苦笑を返すと、場所を譲ってもらった。接眼レンズを覗き込む。
そうすると、
「うぉぉすげぇ! なんだこいつ!」
間髪を入れずにクルツは声を上げた。
真っ先に目に入ったのは、巨大な魚のような生物だった。光を放つ長い胴体に、羽衣のようなヒレ。オスとメスのつがいなのだろう――二匹で優雅に佇むその姿は、どこか誇らしい。
それから、その生物の視線の先――三個ほどの白くて丸い物体、一つが割れているが卵だと思う――その割れた殻の中から、小さな生き物が顔を出していた。
これはもう一発でわかる。その生物の赤ちゃんであろう。一丁前に、親譲りの七光りを放っていた。
「ふーん、クルツは見るの初めてか。宙の御使いっていう珍しい竜だよ。今、赤ちゃんが卵から生まれたところ」
と、チルス。
「ああ、初めて……いや、これってアレだろ? チルスの部屋に飾っていた絵のやつ」
この竜の絵が、チルスの部屋に飾ってあったのをクルツは思いだした。あの時は、空想上の生き物だろうと、たいした関心をもっていなかったのだが。
「はー、マジでいたんだな」
頭を起こして、感嘆する。
「うん、マジでいる」
場所を入れ替わり、チルスが再び望遠鏡を覗き込んだ。
「親はあんなに大きいのに、子供は凄く小さい」
「そうだな、チルスと同じくらいの大きさだ」
「む、それは私がチビって言いたいの?」
「さあね」
とぼけた調子で口にすると、望遠鏡を覗いたままの格好で、チルスが不服そうに唸った。
背が小さいことは、意外と気にしているのだろうか? それはともかく、なんとも熱心なものだ。
「わっ! また生まれた! あああっ! こっちも!」
残りの卵も孵化したのだろう ――さらにも増して、はしゃぎだすチルス。
(うーむ……俺って今……ひょっとして相当レアな現場に遭遇してんのかな?)
珍しい竜と言っていたし、その幼竜が孵化するところなんて、滅多に見られるものではないのかもしれない。もっともクルツにとっては、今のチルスの喜びようの方が新鮮だったが。
(ま、何でもいいか)
こうして彼女がはしゃいでる姿を見つめていると、なんだかとても嬉しい気分になる。今夜は彼女が飽きるまで付き合おう――そう思いつつ、クルツは鉄柵に寄りかかった。
そこへ一陣の夜風が通り過ぎていき……
ふわりと、めくれ上がりそうになったスカートの後ろを、チルスが慌てて両手で押さえた。
こちらを振り返り、
(見た? とでも聞いてくるのかな?)
クルツは、そう呑気に考える。
が、その時――
虫の声が急に止んだ。
いや、音そのものが聞こえてこない。
何だろうと訝しる暇もなく。
既視感がして、体が勝手に身構える。
「ぐっ!」
辺りは突然、強烈な白光に覆われた。
時間の進みが極度に遅くなり――世界の色が徐々に失われていく――
意識ははっきりとしているようで曖昧。思考まで引き延ばされているようで、考えることができない。
おそらくはその状態で、十数秒ほど立っているのかもしれないが……
「んはぁっ!」
クルツは息を吐きだして、なんとか回復する。それから声を上げて、
「こいつぁ、まさか!」
周囲の展望がきく鉄塔にいたおかげで、ほんの少し首を回せば、すぐにそれが見つかった。
「こここここんなところにも出やがったってか!」
激しくどもりながら、コントラフルト巨大生体保護区の方角を遠望すれば――そこには現実感を無視したような、超絶に天を貫く巨大な柱がそびえていた。
輪郭だけが紫色に光っているそれは、距離がかなり離れているのか、細部はわからない。ただ、以前見た物とは大きく違うようである。
「あれはまさか! 破滅の使者のうち、闇を司どる眷属か!」
その発想はともかくとして、クルツの言葉通り、闇属性っぽい雰囲気ではある。
どういう仕掛けなのかわからないが、手前に遮るものでもあるかのように、輪郭以外は漆黒だった。
「ううう、何が……」
こちらはチルスの呻き声。遅れて気を取り戻したようで、気持ち悪そうに頭を抱えてふらついている。
慌ててそばに寄り、クルツは彼女の肩を掴んで支えた。
「おい! しっかりしろ!」
顔を覗き込み、声をかければ、チルスはすぐに反応をみせる。ゆっくりと頭を上げ……
「クルツ? 今のは一体?」
しっくりこない様子ではあるものの、はっきりとした声音で、そう聞いてきた。
とりあえず、ほっとするクルツ。
それから、
「あれを見ろよ」
言って、巨大な柱の方を指さした。
チルスが左側へ、つまり柱のある方へ体を向ける。
その途端、ズザっと足を擦って後ずさった。
「……なに……あれ?」
さすがにびびった様子で、愕然と彼女は口にした。
「あれが最近、世間を騒がせている”破滅の使者”って奴だな」
胸をはり、自慢げに解説するクルツ。目を丸くしたチルスが、首を傾げて聞いてくる。
「はめつのししゃ?」
「生で見るのは二回目だけどな、あちこちに出現して、国中こいつのことで大騒ぎになってるだろ」
「……そうなの? 知らなかった」
いくら辺境の地でも噂くらいは立っていたが、チルスの耳には入っていなかったらしい。
「で……どうなるの?」
「あの中で奴は眠っている。すべての眷属が揃った時に目覚めて、世界を滅ぼすと言われている!」
これを言っていたのは、どこぞの滅亡主義者であって、相当適当な情報なのだが、クルツは大真面目に語る。
「そっか、滅亡の時が迫っているってことかな?」
本気にしているのやら、いないのやら――そう呟いて、チルスはまた望遠鏡を覗き込んだ。
「怖くはないのかな~?」
「私、滅亡主義者だし、今更かな……」
ピントがズレたようで、ダイヤルを回して調整しながらチルス。
今は柱のことより、竜の様子の方が気になるらしい。
適当に流されたような気がして、クルツが肩をすくめていると、
「……あれ? 二匹いない」
チルスが困惑した声を発した。
察するに、いないというのは幼竜のことだろう。
どこか、不穏な気配を感じたその刹那。
「え、ええ!?」
困惑のそれが、焦りに変わった。
肩をこわばらせ、総毛だった様子で、
「あっ! あっ! あー!」
彼女は悲鳴にも近い、ひときわ大きな声を上げた。
その有様に寒気が走り、クルツは思わず叫ぶように問う。
「なんだ! どうした!?」
直ぐに答えは返ってこない――望遠鏡から離れ、後ずさりし、口元を押さえているチルス。その背中が、小刻みに震えていた。
「こここ、子供――食べちゃった」
そう漏らすと、彼女は鉄網の足場に、ガランっと音を立てて座り込む。
「な、なんだってぇ!?」
あまりといえばあまりの内容に、クルツもさすがに悲鳴を上げた。
急いで望遠鏡を覗き見れば、
(なにも見えねぇ!)
レンズ越しの視界は、生き物の姿どころか、ただただ真っ暗である。これではレンズ蓋を閉めているのと変わらない。
顔を上げ、あの竜がいたはずの山を見やれば、やはり光が見当たらなくなっていた。望遠鏡がズレたわけではなさそうだ。
(どこだ!)
見失って一瞬焦ったが、それはすぐに見つかった。
星にまぎれ、七色に輝く点が二つ――保護区の方へ移動していくのが見える。
「なんてこった……」
肩を落としてクルツ。
折角生まれたばかりの幼竜――それを食い殺した挙句、巣まで放棄したというのか。
(もしかして、破滅の使者のせいか? それでパニックおこして……)
痛恨の呻きを漏らしつつ、へたりこんでいるチルスの方へ視線を落とした。
彼女は呆然としたまま動かない。眼差しはどこか虚ろで、額が青ざめている。
「チルス……」
口にできたのはそれだけで、クルツは途方にくれた。細い息を震わせている彼女を前に、慰めの言葉が見つからない。
ついさっきまで、あれほど嬉しそうにしてたのに――
(くっそ……折角あんな……あんないい笑顔を……)
あのチルスが素直に表情をみせたのだ。この日を、物凄く心待ちにしていたのは用意に想像がつく。
それが一瞬で壊されてしまった。
あの”破滅の使者”の出現によって――
(なにも今でてくるこたぁねぇじゃねーかよ! 空気読めよクソゴミが!)
クルツは拳をきつく握り、聳える漆黒の柱を忌々しく睨んだ。
心中、あれを罵ったところで、どうとなるわけでもないが、
「私、もどるね」
チルスがふと口にする。
目を戻せば、彼女は立ち上がろうとしていた。
足腰はしっかりと、体の震えもなく――先ほどまでと打って変わり、落ち着いた様子。
思ったよりも、ショックを受けてはいなかったのだろうか?
クルツが眉をひそめていると、
「ちょっと驚いた。でも、どうせ星は滅ぶんだし、どっちにしても生まれた意味なんてないから」
ぞわっとする。
チルスの言葉が、悲しいくらい空虚に響いていた。
摂理めいた言葉で感情をあっさりと殺し、冷静になる彼女の姿に、息が詰まりそうになる。
(そ、それでいいのかよチルス……)
いや、決して良いわけではないのだろう。
彼女はただ、そうやって自分が壊れないように防御しているだけだ。
世の中の理不尽から逃れ、滅亡に心の安住を求める者の論理――滅亡主義者の虚無観。最初から意味も価値もないのだから、嘆く必要性も、そこには存在しない。
それは一つの真実なのかもしれないが、クルツは思う。
(でも俺は、君に滅亡主義者でいてほしくない)
悲しいなら泣けばいい、苦しいなら苦しいと言ってくれればいい。チルスはまだ引き返せるはずだ。本当に虚無へ落ちたものに、あんないい笑顔ができるわけがない。
「…………」
しかしクルツは、それを言葉にはできなかった。
彼女が冷静なのは上辺だけで、心には相当大きな穴が開いていることだろう。無理に否定すれば、逆に虚しさの海へと引きずり込まれかねない。立ち直るにはきっかけが必要だった。
(今日は良い日になりかけていたのに――)
クルツは悔しい気持ちを押し殺し、深く息をつく。
望遠鏡を片づけ始めたチルスを、今はただ、見守っているしかない。