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その町は、青い霧がかかっていた。近辺の住宅が、四件先くらいまでしか見えないほど、それは濃かった。
空は晴れなのか、曇りなのかもわからない。街路灯が点かない程度に薄暗く、どんよりとした日中――人影もまばらである。
「船が出られない……ですか」
困った顔で言ったのはクレネストだった。
「司祭様、御覧の通りの状況でして」
と、こちらも困った表情の男性。発着所の職員が言葉を返してくる。
クレネストは、窓から見えている湖の方に目を向けた。
エルフィンズ・グレーネ湖――ノースランド最大の湖であり、大陸中央に位置している。東西に向かって六百セル、南北に向かっては、最長で二百セル以上もある広大な湖。地図上では、横に倒したギターのような形をしており、ネックの部分に見える箇所だけは、対岸との距離が数十セル程度と狭くなっている。ここモルテール町は、その海峡そばにある湖畔の町だった。
いつもどおりであれば、海と見間違えるほどの広大な湖が見られるはずなのだが、今は霧に阻まれて、ほんの近場しか見えていない。かなり高い波も立っている様子。
確かに、素人目に見ても安全な状況とは言えなかった。
「仕方ありませんね……収まるまで待つしかありませんか」
「申し訳ございませんが」
そう言った職員に頭を下げ、きびすを返すクレネスト。
「こういうことって、よくあるのでしょうか?」
引き返しながら、隣を歩いているエリオが尋ねてくる。
「そうですね……霧の出やすい場所であるとは思います。でも、これは特に酷そうですね」
発着所の外に出て、クレネストはそう答えを返しながら辺りを見回した。
霧の中にぼんやりと、遠近に合わせて町並みが霞んで見える。耳が詰まるような静寂感があり、近くの音だけが妙にくっきりと聞こえた。通り過ぎていく星動車は、ただその前照灯が浮かんで見えるのみ。夏だと言うのに、少々肌寒い感じすらしていた。
ヴェルヴァンジーから南下して、昨日の夕方頃に着いたばかりなのだが――その時からずっと、この調子なのである。
「んじゃ~」
星動車へ戻ったクレネスト達に、留守番していたテスが応えた。小さな手をひらつかせて、呑気な笑顔。
「どうなさいます? やはり教会へ戻りますか?」
運転席について、シートベルトを閉めながらエリオが聞いてくる。
「はい。おねがいします」
特に入用な物もなく、他に行く場所もない。クレネストは当然のごとくそう答えた。
エリオは前照灯を点けてから、星動車を移動させる。ゆっくりと慎重に、駐車場から公道に出た。
こんな状況では、殆ど他の車も見かけない。対向車は、毎分に一台あるかどうかである。前方を走る星動車はなく、後ろの方にかろうじて、一台分の光りが灯っていた。
(……ん?)
走り出してすぐ――なにやらエリオが、しきりに後ろを気にしているような――バックミラーへ目を移す頻度が妙に多い気がした。
「どうかしましたか?」
クレネストはとりあえず、小首を傾げながら聞いてみる。
「あ、いえ……多分、考え過ぎかな? と」
後ろ頭をかきながら、要領を得ないエリオ。彼女は、傾げている首の角度をさらに深めた。
「トーザス町に着いてからだと思うのですけど、必ず一台は後続車がいるなぁと思いまして」
「後続車ですか……」
エリオがそう言うので、クレネストは後の方を覗いてみる。
霧の中に二つ、平行に並ぶ丸い光が見えていた。幾分か距離があり、車体は見えないが、後続車の前照灯で間違いないだろう。高さからして、大型車両ではなさそうだ。
「ヴェルヴァンジー村へ行った時もでしょうか?」
「はい。ですが……森へ続く小道に入った後は、ついてくるということもありませんでしたから、あの時はあまり気にはしていなかったのですけど」
「はぁ……その後は?」
「再び後続車がきたのは、ヴェルヴァンジー村を出るちょっと前あたり……だったかな? と」
「同じ星動車でしたか?」
「いいえ、車種も色も違いました」
「そうですか……」
前へ向き直り、自身のあごに手を添えるクレネスト。思案顔でうつむく。
都会ならともかく田舎道――それも長い距離を旅してきて、常に後続車がいるというのも、確かに違和感があった。トーザス町、ヴェルヴァンジー村、そしてモルテール町でもそうであるならば、なおさらそうだ。
「尾行されているかもしれない……ということですね」
そう考えるとしたなら、問題はその理由の方だろう。
真っ先に思い浮かぶのは、星導教会側に疑われ始めているという可能性。
巡礼についての経過を、クレネストは定期的にセレストへ報告している。それ故に、もっとも自分達の動きを把握しているのは星導教会だろう。世界の柱が出現した日時や場所――それらと報告を照らし合わせれば、なにかしらの関係があるのではないか? と勘ぐられても不思議ではない。
次に考えられたのは、例の滅亡主義者につけ狙われている可能性である。こちらは随分と、クレネストの術式に興味津々な様子であった。先日は、赤コートの青年まで自分のことを探していたようなので、十分可能性としては考えられる。むしろ前者よりは、可能性が高いだろうか?
どちらにしても、頭の痛いことである。
「さてはオナゴ目当ての変質者じゃな!」
と、テスの意見。もっともくだらない理由であるが、その可能性も否定はできない。
クレネストは、口の前でこぶしを握り、コホンと咳払いして、
「かもしれませんが……もし、尾行されているのだとしても、気がついていないフリをして、しばらく様子を見ます。重要なものは、なるべく肌身離さず持ち歩きましょう。それと、星動車に何か仕掛けられても困りますので、念の為、星痕杭に視界の法術を組み込んで設置しておきます」
ひとまずそう伝えた。
尾行されているとまでは断定できないが、用心するに越したことはない。
エリオから星痕杭を受け取り、術式を組み込んでおく。範囲は車体を覆う程度で、触れたり中へ入るものがいたなら、すぐに察知することができる。
「あれが尾行かどうか、確かめますか?」
「そうですね……」
エリオのそれは、しばらく適当に走り回って様子をうかがうということだろう。
クレネストは、少しの間考えて、
「それはやめておきます。こちらから動かずとも、いずれはっきりするでしょう」
「わかりました」
尾行と仮定するなら、泳がせて様子を見る――とすれば、あまり相手を警戒させるような動きは見せたくない。
こちらの考えを察した様子で、小さくエリオがうなずいた。
「さて……お昼――までには、まだまだ時間がありますね」
グローブボックスとハンドルの間に視線を落とし――星動車についている時計を見ながら、ぶつぶつとクレネストは口にする。
「事情を説明した後、何か奉仕活動を……」
続けて独りごちていると、
「のう……ありゃあなんじゃ?」
なにやら面妖そうに声を上げるテス。
「ん? どこですか?」
聞き返して目を凝らし、クレネストは前方を見やるが、見渡す限りの霧で覆われているばかりで、特に目新しいものはない。ただテスは、普通の人間と違うので、霧の向こうの何かが見えているのかもしれない――と、考えて、『星渡ノ義眼』を使おうとした。
が――
「前じゃのうて横じゃ横っ! 左じゃ!」
急かすように言われ、彼女は反射的に左側へと目を向ける。
すると――確かに変なのがいた。しかも目が合った。
思わず眉根を寄せ、口を三角に開いてしまうクレネスト。
それは人の顔のように見えた。生首というわけではなく、そのまま人面だけが浮いている。ぼんやりと、青白く発光していて半透明。ゆらゆらと不安定に波打って、像が曖昧な感じだった。
なんの意味があるのか、追い抜きもせず、追い越されもしない。ただ黙ってぴったりと、真横にいるだけ。対向車線側から、こちらを覗き込むように顔を向けている。
その目は虚ろに窪み、口が丸く開かれていて、非常に薄気味悪かった。
「うぅわぁ! なんですかアレ?」
声も顔面も引きつらせながら、気色悪そうにエリオが叫ぶ。
「ゴースト現象」
対照的にクレネストは、興味深々な様子で眺めながら、淡泊にそう漏らした。