16歳。 手に入れたギターを早速学校に持っていき演奏をし始める。
5月10日にギターに異変が起こったのに気づかされる。
ネックの付け根の部分が欠けてしまった!! ショック!! ショック!! ショック!!
紫色の塗装の欠けた部分が、何度探しても見つからないままに終る。
でも、ええ音出してくれてたよ。
ベースを譲ってもらった先輩が持参しておられたギターを見せてもらって以来、モーリス社のトルネードに憧れるようになる。
いよいよ僕のエレキデビュー。
授業時間内にカリキュラムとして含まれていたクラブに、「音楽クラブ」というものが在り、学校の文化祭で舞台に立つことになる。
チェッカーズの「ローリング・ダイアモンド」、爆風スランプの「ランナー」が初の舞台だった。
本当はベンチャーズを中心にやりたかったのだが、他のメンバーの人の意見と噛み合わずに終った。
しかしチェッカーズはその頃から好きだ。 当時は、もうとにかくいろんな曲をひきまくりましたねえ!!
実を言えば、当時良く聴いていた、村下孝蔵さんの「初恋」は、絶対にバンドでやりたかったのだ。
これも、ベンチャーズの曲と同様、みんなの意見がかみ合わずに却下されてしまった。
結局、曲を聴いてもらうためだけに、みんなの時間を裂いただけじゃなかったのかと、自分を責めたりもしたのだった!!
17歳。 時間内クラブがなくなり、放課後の部活のクラブで、「楽器研究部」と名称を変更した形で新たに出発。
チェッカーズをやり続けた。
この時から、エレアコとエレキギターを引っさげての舞台出演。
"I Have A Dream" (チェッカーズ)をやりたいとのリクエストが在り、
ギター交換に時間を要することを了承してもらった上での演奏だった。
(エレアコとエレキギターとの交換は手伝ってもらったが)。
「ぎざぎざハートの子守歌」のギターソロには、観客の皆様にも感動していただいたが、
ひいている僕自身も感動した!!
当時の文化祭では、別にもう一つバンドを組んだ。
ジュン・スカイ・ウォーカーズの曲を中心に、僕らのオリジナル曲や、T・スクエアーの "Truth" などをやっていた。
ザ・トラブリューの「ロード」に憧れ、ブルースハープを買ってもらう。
ハーモニカとギター、両方を使ってのひき語りをやり始める。
家のベランダに立っては、ギターをひきまくり、道路を通る車を運転する人が脇見運転をするほどの演奏やったらしい。
ベランダでの演奏には、村下孝蔵さんの「初恋」もどんどんと取り入れていくようになる。
18歳。 ザ・トラブリューのコンサートを聞きに行く。
高橋じょうじ氏に、このよりよりの思いを分かってもらおうと思い、1通の手紙を書く。
出会いは実らなかったものの、役1ヵ月後に「これからもザ・トラブリューを宜しく!!」との手紙が返って来る。 吃驚!!
当時、兄の知り合いで、「ストイック・モード」というバンドでボーカルをされていた人と出会う機会が在った。
修学旅行で東京に行った時のこと。
当時楽器研究部でサックスを吹いていたクラスメートがいた。
ストイックモードのCDを聞いてもらった時から、かれもそのバンドが好きになり、兄の紹介により、その友達もボーカリストとの感動的な出会いをすることが出来た。
別に組んでいたバンドで、その人のバンドの曲を文化祭で演奏させてもらうこととなる。
ボーカリストの人に電話をさせてもらっては、「あの曲をやります!」などと何回も言ったような気がする。
「うまく演奏しようと思わなくてもいいから!!」との暖かい激励の言葉をいただくまでになる。
クラブは続けていたが、進学の準備もしたかったので、そんなに集中して参加していたわけではなかった。
当時のメンバーは、これを「サボる」と呼んでいた。
ギターの腕が上がったなあとの誉め言葉はくれていたのではあるが!!。
文化祭でのクラスの発表では、僕がジュークボックスに扮していろんな曲をギターで演奏した。
「ロード」、「パイプライン」、「裏切りの街角」……。 どれもいい曲だ!!
あっ、観客席から「ジュークボックス、よりより」へのリクエストということで申し出が在り、「初恋」のさびの部分もやらせてもらった、なんてこともありましたなあ!!。
実はこの曲、当時組んでいた別のバンドで、全曲演奏することが出来たのだ!!
そうだ、よりよりの願いはこの時に実現し、身を結んだのだ!!
編成は、エレアコとボーカルを僕が担当し、ベースのメンバーにコーラスに回ってもらい、そしてドラムでリズムを刻んでもらっていた!!
実は、ジュークボックスへのリクエストが在った時には、楽しみが先にばれてしまうといけないからということで、
わざとドラムのメンバーが違うリズムパターンを刻んでくれていたらしい!!
楽器研究部でも曲をやったが、その年でメンバーはばらばらになった。
最後に演奏した、「ロング・ロード」は今でも心に残っている。
音楽活動は進学してからも出来ると捕らえ、英語の勉強中心に時間を割いていた。 とはいっても、当時大好きだったアバの曲は聞き続けた。
受験を控えた時に出会ったのが、ビリー・ジョエル。
音源を探して聞いていくなかで、「オネスティー」や「ピアノマン」など、演奏したい曲は在ったのだが、そんな余裕はなかった。
無事に大学への合格通知を有難くもいただくことが出来た。 受かった時に聞いた音楽の音は最高やったわ。
19歳。 晴れて短期大学に合格し、友達と思いどおりのバンドが組めるものだと期待していた。
ベーシストが友達にいて、彼と二人で
「練習スタジオはどないしょうか!!、曲目は何にしようか!!」などと、何度も何度も話し合った。
しかし、バンドをやりたいというメンバーになかなか恵まれず、結局彼も含めたバンド結成にはならなかった。
21歳。 短期大学から4年性大学への編入試験に合格したから、という理由で、
16歳の頃から憧れていたエレアコ、モーリス社の「トルネード」をプレゼントされる。
まるで箱入り娘のように、外へは一歩も出さず、家で大事に使わせてもらっていた。
当時、「この曲が本当にうまく演奏出来たらなあ!!」という思い入れのあった、エリック・クラプトンの曲などなどを練習。
22歳。 大学祭の時に、ラグビー部の友人に誘われ、ゲスト出演でひき語り。
5曲ほど演奏したが、友人と二人で友情演奏した、
エリック・クラプトンの "Tears In Heaven" はとても感動的だった。
ショッキングな出来事たちと遭遇しなければならなかった23歳。
6月末、ギターと歌の大先輩として僕が目指していた、村下孝蔵さんがなくなられたことを知らされる。
僕にとっては、コンサートなどに出向いてお会いしたかった人だったのに、お会い出来ないまま、天国へと旅立っていかれたわけである。
沢山のすばらしい曲たちを残してくださっていて、今後もいろんな曲を聴かせて欲しかったのに!!
「♪せめてもう少しだけ、知らずにいたかった!!♪」というような、複雑な心境に襲われた!!
お会いしたかったのに!!
今後は、村下さんが我々に届けてくださった、本当に沢山のすばらしい歌の数々が、沢山の人に愛され、親しまれることを望むのみである。
僕も、村下孝蔵大先輩の曲や歌を大事にしていきたいと決意している一人である。
北大路堀川近くに在った、通い続けた楽器店が閉められているのを発見。
白い杖を持って歩いて行ける楽器店がなくなってしまったわけだ。 あーあ!! めちゃくちゃいいおっちゃんたちばっかりだったのに!!
そんなことから、楽器を一つ一つ手に取って、試奏することが出来る楽器店を探す旅が始まる。
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